エピローグ ~青い風に乗る翼~

 彼はとつぜんわたしの目の前に現れた。

 嵐に吹き飛ばされるようにして福海町からずっと遠くの知らない街に引っ越したわたしは、カーテンを引いた暗い部屋にこもり、布団にくるまって何日も泣いて過ごした。それまでの暮らしも、大切なものも、わたしの想いも、すべてを置き去りにして町からわたしを連れ出した母を、わたしは強く憎んだ。

 家中のものを叩き、なぎ倒し、壊した。のどが枯れるまで叫んだ。そして、体内の水分がすべてなくなるくらい延々と泣き続けた。

 時間の感覚も、曜日の感覚も、昼夜の感覚も、季節の感覚も、なにもなかった。起きてるのか寝ているのかもわからなかった。生きているのか、死んでるのかさえ。食事や排せつの記憶もない。

 ただ、手のひらに触れる小さな手帳の感覚だけがあった。

 わたしは彼からもらった手帳をずっと握りしめていた。表紙の厚紙は、汗と涙で変色し、強く握りすぎてすっかり変形していた。

 頭はじんじんと麻痺してしまって、ものなんて何も考えなかったけど、時々、指が勝手に動いて、手帳のゴム止めを外した。中には、狂人が書いたように、すべてのページを、文字が大きく小さく隙間なく真っ黒になるくらい埋め尽くしていた。

 書かれているのは、ぜんぶ彼の名前。

 ボールペンを持った手がゴリゴリと勝手に動き、すでにインクで真っ黒になった紙面に、それでもまだ彼の名前を書き続けていた。

 何十も、何百も、何千、何万も。

『レラ』

 優しい声が聞こえて、そんなわたしの手がふと止まった。わたしは信じられない面持ちで声のしたほうを見た。部屋は真っ暗だった。たぶん夜。

 深い闇の中に彼が立っていて、悲しそうな顔でわたしを見つめていた。真っ暗なはずなのに、彼の姿は鱗粉のような不思議な青白い輝きを発していてよく見えた。

『レラ。お母さんの気持ち、わかってやれ』

 彼は静かな、それでいて有無を言わさない口調で言った。

 いやだ。わたしは首を振って、そう言おうとしたけど、何日も声を出していないのどは、枯れた吐息をもらすだけだった。

『お母さんを大切にしろ。俺ならそうする』

 どうして。わたしたちを離れ離れにしたのに?

『また会えるさ。だろ?』

 その声に暗示をかけられたように、わたしはのろのろと起き上がった。

 めまいがして、身体がふらつき、尻もちをついた。震えるひざに苦心しながら、ドアを開けて台所に行った。

 青白い蛍光灯がぽつんとついた薄暗い台所で、母はテーブルに突っ伏し、声を押し殺して泣いていた。わたしは、そんな背中に言った。

「……おなか、すいた」

 母はわたしにすがりつき、痛いくらいに抱きしめて、涙を流しながら何度も謝った。

「ごめん。ごめんね。ごめんね……」

 彼は、こんな風にとつぜんわたしの目の前に現れ、言いたいことだけ言って、さっさと消えてしまった。ほんとにエラそうなんだから。でも、わたしは、久しぶりに顔が緩むのを感じた。そしてこの日から、彼はわたしのそばに現れるようになったのだ。


 わたしは、新しいロルバーンの手帳を買って、その新しい町を歩き始めた。

 彼の居ない、興味も関心もなかった、どうでもいい町。けど、その町にも、黒髪湖みたいな青い湖があって、わたしはそこをお気に入りの場所にした。一周まわっても一時間かからない小さな湖。でも、ちゃぷちゃぷと水をたたえた綺麗な水面まで手が届きそうなほど近い湖畔の道には、桜やモミジが何本も並び、まわりを囲む低い山には、楠やトネリコや菩提樹が生い茂っている。きっと、春は桜が美しく、夏は緑がきらきら輝き、秋は木々が真っ赤に燃えて、冬は青い空に葉の落ちた木が枝を伸ばす美しい場所。

 わたしは、本と手帳をカバンに入れて、そんな湖を歩いた。恋はみずいろのメロディをくちずさみながら。そのたびに、大切な誰かと一緒に歩いているような気持ちになった。

 ときどき、きょろきょろあたりを見渡して、誰も居ないときは、歌も歌った。

 パセリ。セージ。ローズマリー。タイム。

 そんなときは、彼が現れて、『いい歌だよな』なんて言葉をかけてくれる。

『おまえ、本気で俺を待つ気なのか?』

「あったりまえじゃん」

『でも、いまお互いがどこに居るのかもわからない』

「迎えに来てくれるまで待つ」

『本当に来るのか、おれ』

「きっと来るよ。だから待つ」

『……レラは強いな』

「恋する乙女だからね」

『恋か。恋っていったい何色なんだろう』

「青だよ」

『おまえ……そんなにはっきり言うとこっちが恥ずかしいだろ』

「青だよ」


 それでも、時は飛ぶように過ぎ、彼はいっこうに現れず、わたしはまたちょっと大人になって、書店で働き始めた。そしてそこで、優しくて感じのいい先輩と少し仲良くなった。

 古典文学が好きなひとで、年のわりに古い小説をたくさん読んでいたわたしに驚き、すごく興味を持ってくれた。その先輩もまた、バイクに乗っていた。穏やかで、控えめで、自分のことを「ぼく」って言う、彼とはずいぶんタイプの違うひと。でも、好きなものについて話すときの無邪気な顔には、どこか彼の面影があった。

 夏になり、ツーリングに誘われ、ふたりで海に行った。わたしは先輩のバイクの後ろに乗って、背中に手をまわしながら、彼のことを思い出そうとした。そしてあの福海町の夏を。それはもうずいぶんと薄れ、遠ざかり、はっきりした輪郭を失いかけていた。

 だけど、その日、先輩の気持ちを受け入れることはできなかった。わたしの心の底の何かがそれを許さなかった。

 家に帰り、乱雑に服を脱いで、下着姿のままベッドに倒れこみ、枕に顔を埋めるわたしに、彼が言った。

『……いいのか? あいつ、レラのこと本気で好きだったみたいじゃねえか』

「………………」

『おまえも満更じゃなさそうに見えたぞ』

「……タキくんが悪いんだよ」

『ん?』

「最近、あんまり現れてくれないよね」

『そりゃあ、お前次第さ。レラがちゃんとイメージしてくれないと俺は出てこられない。想像力が相手を自分の中で生かし続けるんだ』

「……だって辛いよ。つらすぎる……。会いたい。会って、ちゃんと話がしたい」

『………………』

「さびしい」

『………………』

「会いたくて会いたくて……頭がおかしくなっちゃいそう」

『レラはとっくに狂ってると思うけどな』

「それ、あなたが言っちゃいますか……?」

『……だったら、俺のことはもう忘れて、いまおまえの目の前に居て、優しくしてくれる男を好きになれ』

「言うと思った」

『………………』

「またそうやって突き放す」

『………………』

「……その手には乗らないからね」

『………………』

「どうせ、女なんて、すぐほいほい別の男好きになるって思ってるんでしょ?」

『まあな』

「ていうか、タキくんって、誰のことも信じてないよね」

『まあな』

「ムカつく」

『……ごめん』

「ムカつくから、わたしはぜったい負けてやらない」

『負けるって……なにムキになってんだよ』

「また会えたら、驚くタキくんに言ってあげるの。誰かさんみたいにエラそうにね。……世の中には、ひとつくらい本当に信じられるものがあるんだよって」


 もっとずっと子供だったころ、わたしは『信じられるものが欲しい』と星に祈ったことがあった。けれども、いつしか気づいた。信じられるものを求めるのなら、まずは自分が自分を信じ、ひとに信じられるようにならなくちゃ。

 わたしは、いろいろな場所に行って、いろいろな物を見て、いろいろなことを考えて、それで思い浮かんだ言葉の切れ端を手帳にスケッチして、自分だけの言葉を集めようって決めた。そうすれば、ひとりでもきっと寂しくない。

 最初は意味なんてなかった。

 寂しさを紛らわすだけのものだった。

 メモに書き連ねる文章は、いつしか詩のような形を成し、まとまり、筋道を作り、起承転結が生まれ、物語となった。

 わたしは小説を書くようになった。

 彼がきっと今、書き続けているであろう小説とは違うもの。

 それは、深い意味なんてなくてもいい。教訓や示唆に富んだものじゃなくていい。

 成長を促したり、強くなるきっかけになるような、立派な物語じゃなくていい。

 それは、ただ、日常がほんの少し潤い、暇な時間や退屈をしのげて、ほんのりいい気分になったり、なんとなく楽しい気分になったり、優しさや、切なさや、愛しさを、読者と共有できて、読んでくれるひとの日々にそっと寄り添えるような、ささやかな小説。

 わたしが書きたいのは、そんな小説。

 わたしはそれからも数え切れない本を読んだ。そして、言葉を集め、その魔法を追求し、自分の世界を育み続けた。孤独で、自分の世界に閉じこもった、暗い日々だったけど、それでいいと思えた。彼もずっとそばに居てくれたし。わたしの想像力に呼応して、彼はどんどん存在感を増し、生き生きとしたリアリティを持って、わたしと在り続けた。


『作家を目指す? レラが?』

「うん。せっかくこんなにいっぱい小説書いてるから、誰かに読んでもらいたいなって」

『そっか』

「……それに……わたしも同じ世界に行って、わたしの本が本屋さんに並んだら、わたしのこと見つけやすくなるよね?』

『……そうかもな』

「タキくんは、作家になれたのかな。新しく出る本、ずっとチェックしてるんだけどな」

『………………』

「それでね。腰をすえて長い物語を書いてみようと思うんだけど、やっぱり書くならアレしかないかなーなんて」

『あれ?』

「わたしと、タキくんと、福海町のみんなで過ごした、あの夏の物語……勝手に書いちゃってもいいよね?」

『え。いいよねって。まあいいか』

「タイトルはもう決めてあるの」

『レラの思うようにやってみろ』

「それで……あなたとも今日でお別れにしようと思う」

『もう……いいのか?』

「うん。今までありがとう。……あなたが居てくれたから、ひとりでもずっと頑張れた。でも、あなたが居ると、たぶんうまく書けないから」

『……俺の役目も終わりだな』

「頑張って書くからね。わたしたちの物語を」

『……レラならやれるさ』

「もちろん! 『言葉の剣は、わたしとともにある!』」


 わたしは物語を信じている。

 それは、どんなときもわたしのそばに寄り添い続けた。

 辛いとき、悲しいとき、苦しいとき、切ないとき、自信を失ったとき、迷ったとき、不安に負けそうなとき、なにかを憎んだとき、逃げ出したくなるような朝、孤独に押しつぶされそうな昼、涙が出そうな夕暮れ、眠れない夜、人恋しい深夜、空虚な空白の時間、物語はいつもわたしとともにあった。

 嫉妬するくらい優れた本も、勢いだけの荒削りな本も。売れてる本も、そうでない本も。評価の高い本も、批判の多い本も。含蓄のある本も、あとになにも残らない本も。

 妄想を具現化したようなノベル。無責任な夢に浸れる長編。わたしの弱さを慰撫してくれる中編。今日を生き抜くためのストーリー。お菓子のように小腹を満たすショートショート。なんだっていい。なんだって意味がある。この世に生まれる本は、ぜったいに誰かにとって必要とされている。本があるから、わたしは生きてこられた。そしてこれからも、本があるからきっと生きていける。

 だから。

 その不思議な町の、思い出の場所で、今日もわたしは本を読む。

 本を読みながら、待ち続ける。

 そして。

 何かが近づいてくる気配がする。

 懐かしい、青い風の、エンジン音。

 誰かがゆっくり歩いてくる。

 迷いのない瞳で。確信に満ちた足取りで。

 あの、楽しいことを思い出して口角が自然に持ち上がっているような上機嫌な顔で。

 気取った調子で、スカボローフェアなんか口ずさんだりして。

 涼やかな声がわたしを呼ぶ。

 一瞬で長い時間を巻き戻す声が。

「蒼きレラ」

 わたしはすぐに顔を上げたりしない。

 爆発しそうな歓喜を抑え。飛びつきたくなる衝動に耐え。弾けそうな笑いをこらえ。吹き出しそうな水分を必死でせき止め。無理やりのしかめ面。儀礼的なまでにそっけなく。わざとらしいくらいぶっきらぼうに。ふてくされた顔まで健気に作って。

「わたし、それ言われるの、だいきらい」

 ……さあ。翼は風に乗り、茨の城の呪いは解け、虹の花は花弁を開く。

 重い緞帳は引き上げられ、思い出の旋律は蘇り、物語は再び紡がれ始める!

「……でも、世界にたったひとりだけ、それを言われても許しちゃうひとが居る」

「誰なんだ?」


には、それが誰だかわかるはず。

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青イナツ風 天津真崎 @taki20170319

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