バタフライ・エフェクト
俺とレラを激しく引き裂いた嵐が、いったいなにを端緒に生じたかはわからない。青天の霹靂のような母のガンの再発だろうか。
「私のせいです。私がいけなかったんです」と声を震わせた、学童保育の先生だろうか。
その先生を騙した、探偵の男だろうか。
その探偵に依頼した、レラの父親だろうか。
夜逃げ同然に娘を連れて消えた、レラの母親だろうか。
それとも、あの台風が直撃した夜、暗い部屋の中で、自分の想いのすべてをぶつけてくれたレラに、応えられなかった俺だろうか。そんな俺を縛る東京の彼女の存在だろうか。
結局、小さな事象の積み重ねが、絡み合い、互いに影響し合い、作用して、あの運命を作ったのだと思う。だから、運命が俺たちを結び付けたというのなら、俺たちを離れ離れにしたのもまた、運命だ。
蝶の羽ばたきがやがて嵐を起こすように。
欲深なスペイン人の工場が、愛するふたりを五十年間も引き裂いたように。
俺とレラを離れ離れにしたその激動は、ほんの小さな、波とも言えないような日常の水面に生じた揺らぎがもたらした、大きな流れのようなものだったのだろう。
母が死ぬ直前のことはよく覚えていない。覚めない悪い夢のように現実味に欠ける日々だった。俺は、大学も、借りている部屋もそのままに実家へと戻った。そして、母親を看病する束の間の日々が始まった。闘病なんて言葉があるが、ある種の病に対しては、最初から闘いにすらならないのだ。
最初の乳がんの手術をした病院で、主治医に話を聞いた。ステージという杓子定規な言い方がひどくよそよそしく感じられた。進行状態は、客観的に見れば、もうどうしようもなかった。再発した乳がんの致死率は、目を覆いたくなるような数字だった。
それでも母は存外明るく「きっとなんとかなるよね」とのんきに言って、俺もそれを信じようとした。それは、一度見てバッドエンドで終わると知っている映画を、まだ見ていない誰かと一緒にもう一度見るような白々しい気分だった。
だけど、現実は映画とは違う。奇跡は起こり得るし、筋書きだって変わる。ハッピーエンドになる未来だってきっとある。俺は自分に一生けんめいそう言い聞かせた。
母は悲しすぎるほど明るかった。
俺たちは笑顔を絶やさず、冗談を言い、軽口を叩き、楽しい話題を口にした。
それは、ねっとりと身体に絡みつく黒いコールタールの海に全身浸かりながら、首から上は明るい太陽に照らされているような、狂気の日々だった。
治る見込みなんてない。何をやっても手遅れだ。俺も母さんもそれを半ばわかっていながら、天上から降ろされる蜘蛛の糸の奇跡でも期待するように、抗ガン剤にすがった。
副作用ですぐに母の髪の毛は抜け落ちた。母は痛ましいほど明るい声で、
「こうなったら、いっそいろいろな髪型に挑戦しようかな」と言って、はしゃぎながらカツラを買った。そして、精神の均衡を崩し始めた。
いよいよ歩くのが困難になり、車椅子に乗り出したころ、母は無理を言って外出許可を取った。この頃から、看護師たちの母を見る目に変化が現れてきた。
母は「焼肉食べに行こ」と言った。
それは、治ったら一緒に行こうと約束していたことだった。
昔、時々一緒に食べに行った焼肉屋に行った。バリアフリーでもなくエレベータもなかったから、若い店員ふたりに手伝ってもらって、三人で俺たちは母の車椅子を持ち上げ、階段を上って二階の店に入った。
けれど、そうまでして来た焼肉屋で、母はもう、たったひと切れの肉も食べることはできなかった。母は口に入れた焼肉を吐き出し、声を押し殺して嗚咽した。店内は静まり返り、みんなが母と俺とを見ていた。
「見るんじゃねえ!!」
店内に響くほどの声で俺は叫んだ。俺の精神の均衡も壊れていた。でも、誰も何も言わなかった。そして、また店員に手伝ってもらって、店を出た。若い女の店員が、ずっとそばで泣いていた。
この期に及んでも、母はいろいろな夢を持った。
海外旅行に行きたいと言った。小さな洋食屋をオープンしたいと言った。美味しいものを食べたいと言った。まともな食べ物なんてとっくに食べられなくなっていたのに。
俺とまたショッピングモールに行きたいとも言った。
思えば、俺は母と買い物に行くのをいつも嫌がった。母が俺にベッタリなのを、父の代わりにされていると思った。だから家を出て福海町にひとり暮らしした。
でも今度は絶対に嫌な顔はしないと誓った。
母が望んだのはごくささやかなことだ。ただ、歩きたい。どこでもいいからお出かけしたい。天気のいい日に、気持ちのいい道を散歩したい。海が見たい。山が見たい。新鮮な風の匂いを感じたい。それは、夢というにはあまりにささやかな望みだった。
そんな望みだけでも。一緒に買い物に行くとか、散歩するとか、そんなささやかな望みくらい、叶えてやってくれよ。頼むから。
誰に向かってかはわからないが、そう俺は願った。
だけど、そんな望みは、なにひとつ叶うことはなかった。
母が最期に見た夢は、見事なまでにひとつも叶わなかった。
酷薄な現実が、夢をすべて焼き払った。なにも見逃さず。慈悲もくれず。
福海町を出てからずっと、レラにもサエキにも連絡はしなかった。ヤエにも会いに行かなかった。俺を強いと信じるみんなに、今の自分の顔を見せたくなかった。
母が死に、すべてが終わったあと、ようやく福海町に戻れたとき、俺は、真っ先にレラに会おうと思った。たまらなくレラに会いたかった。
町に戻れば、俺とレラはすぐに会える。根拠もなくそう信じ込んでいた。
だが、いくら彷徨ってもレラとは会えなかった。
レラを送った公園にも、港町の廃墟にも、マリモにも、黒髪湖にも、鬼姫神社にも、マグナム商店街にも。レラは居なかった。居る気配すら感じなかった。
藁をもすがるような気持ちで俺はカンガルークラブの先生の元を訪ねた。そして、その顛末を聞き、レラに何が起こったかを知ったのだった。
――レラの親戚を騙る探偵の男がカンガルークラブに現れたのは、花仮面の騎士を上演してしばらく経ったころだったそうだ。
レラの居場所を突き止めるよう依頼されたその探偵は、親身な態度で『財産分与』の話をチラつかせ、先生からレラの家の場所を聞きだした。金が絡む問題だけに、レラの耳には入れないで欲しいと口止めして。
「私が直接家に行って、母親と話をしますから」とその探偵は先生を説得した。
レラの家に余裕がないと知っていた先生は、これを機に少しでもレラの母親が金銭的に潤い、レラの生活にゆとりができたら、とその話を信じた。
そもそも、その探偵がカンガルークラブを知ったのは、あの日の人形劇の上演が福海町の地域紙に掲載されたのが理由だった。ボランティアに従事する美しい少女は、記事の恰好のネタだったのだろう。レラの母親が懸命に隠していた居場所を、そこから辿られたのだ。そういう意味では、責任の発端は俺の『花仮面の騎士』にある。
あの雨の日、探偵から報告を受けた父親は、レラを待ち伏せした。俺がバイクで追ったときだ。俺の想像だけど、レラは自分と一緒に来るよう説得する父親を拒み、自分の住所も決して告げなかったんじゃないだろうか。だから、あの台風の夜、レラの父親は強硬策に出て、娘を拉致同然に連れ去ろうとしたのだ。
父親から逃げたレラが、濡れた制服姿で俺の家に飛び込んできたのはそのときだ。
そこから先は、先生の話と俺の想像を合わせたものになる。
この騒動は警察沙汰になり、やがてレラの母親は、娘を連れて夜逃げ同然に福海町から消えた。たぶん、専門の『逃がし屋』にでも依頼したのだろう。興信所でバイトしていたとき、そういう業者の存在を知った。連中は、徹底して痕跡を残さず、依頼者やその家族に外部との一切の接触を禁じる。書き置きひとつ残させない。そして、文字通り、煙のように何処かへと連れだしていく。
それでもレラは、なんとか俺と連絡を取ろうとしたんじゃないかと思う。きっと俺の家に来たし、町中を歩きまわり俺の姿を探したはずだ。
けれど俺は、母さんの看病のため、福海町を離れ、故郷の街から動けなかった。
そして、時の流れは、無情にもレラを何処かへ連れ去り、あっけなく俺たちを離れ離れにしたのだ。
母の葬式の日は、心まで透き通りそうな青空だった。
明るい母さんらしいな、と俺は思った。
その青を全否定するかのような、白と黒の幕。白装束。黒い車。
化粧された顔は冷たい。読経は他人事。弔問客はほんのわずか。これなら二人だけのほうがマシだ。機械的な慰め。機械的に頭を下げる。山裾の火葬場。白い床。鉄扉。熱。鼻をつく匂い。乾いた感触。がらんとした駐車場。夕暮れ空。揺れる緑。黒い鳥。
オレンジ色の空を見上げ、ネクタイを緩めた。
涙はひと粒も出なかった。表情も動かなかった。そんな俺を、遠い親戚は、気味の悪い生き物でも見るような目で見た。
「大丈夫だって」俺は、悲しそうな瞳でじっと俺を見るカエデに言った。「全然泣いてねえだろ? 何度目かだからな。慣れもするさ」
ふと見ると、カエデの姿は淡い光の中に消えていた。もう、想像力なんて必要ないんだ、と思った。俺が今から向かう場所に、ロマンチストの居場所はない。
物語じゃ現実には勝てない。小説のように都合よくはいかない。それを思い知ったあとでは、小説を読むことももうできない。作家の夢を持ち続けるなんて無理だった。
夢は覚め、竜は死に、おとぎ話は終わり――
一日も早く、俺は現実の世界で「何者か」になる必要がある。
そう自分に言い聞かせて。
俺は物語を捨てた。
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