雨に駆ける

 レラと中年男の乗った黒いセダンは、駅前の大きな通りの赤信号で停車した。

 気だるげな表情で見るともなしに外を見ていたレラが、駐輪場に居る俺に気づいた。目が合った。命のない精巧な人形が、人間になる魔法をかけられたように、その顔に生気が宿った。レラははっきりと嬉しそうな表情を浮かべた。

 そのとき、運転席の中年男がレラの首筋を撫でた。どう考えても他人とは思えない親密な触り方だった。四十くらいの、目の落ちくぼんだ陰気な顔立ちの男だった。レラは驚いた顔で振り返り、それから何か言った。その間に信号は青に変わり、車は動き出した。黒い乗用車は、水しぶきを立てながら、あっという間に俺の視界から走り去った。ナンバープレートを見た。レンタカーだった。

 反射的に俺は、バイクに飛び乗った。濡れたヘルメットを被る。キーを差し込もうとして何度か地面に落とし、エンジンをかけ、雨の中に走り去った車を追っていた。

 駅前の大通りから国道のほうへ。

 信号ふたつ分くらいの距離を離されていたが、必死で追いかけた。途中、二回ほど信号無視してクラクションを鳴らされたが、そんな音は雨音と変わらないくらい遠かった。

 どんどん小さくなる黒い車を追いかけた。差は縮まらない。たまに赤く光るブレーキランプを頼りに、ただひたすら食いつく。

 国道に出ると、車の流れがよくなり、さらに差が開いた。

 やがて、道は突き当りの大きな三叉路にぶつかった。レラを乗せた車がどっちに行ったのかはもうわからなかった。右か、左か。単純な二択。確率は二分の一。

 右に行けば、やがて北東の丘に出る。レラと初めて出会ったテーマパークの廃墟がある岬。俺は本能的にバイクを左に傾けた。 

 走るにつれて景色から建物が少なくなり、やがて市街地を離れた。

 車はとっくに見失っていた。

 橋を渡り、トンネルをくぐり、小さな峠を越えると、海沿いの道に出た。

 右手には、ガードレールと白い波が砕ける暗い海。左手の少し高いところを線路が走っている。車の姿はほとんどなく、濡れた鈍色のアスファルトには、俺のバイクのヘッドライトの黄色い光線だけが伸びる。光の中には無数の微小な虫が飛びかうように雨が舞っていた。俺の全身は、バイクごと川にダイブしたかのようにすべてが濡れていた。時々、後輪がスリップして、背筋に冷たいものが走った。なのに、走っても走っても、レラを乗せた黒いセダンは影も形も見えなかった。もはやそれは、追跡でもなんでもなかった。

 海沿いに、下品な外装のラブホテルが数件建ち並んでいた。じゅくじゅくと嫌な気持ちが胸に染み出した。建物の手前で足を地面に付き、無数の透明な槍に打たれながら、ただぼんやりと、赤や青やピンクで塗られたハリボテの宮殿を見ていた。

 びらびらのビニールカーテンから黒い車が出てきて、心臓が跳ね上がった。

 だが、乗っているのは中年のホステスみたいな女と太ったオッサンだった。

 雨の中で、アイドリングするバイクに腰掛けたまま静止している俺を、ふたりは気持ち悪いものでも見るかのように、さっさと走り去った。

 太陽は沈み、あたりはうす暗くなっている。

 結局ラブホテルの駐車場を確かめることなく、その場から離れた。

 雨は止む気配もなく降り続いていた。俺は当てもなく雨の中をバイクでさまよいながら、自分を駆り立てるものは何かを考えた。

 気づいたら福海駅前のロータリーに来ていた。レラと男の車を最初に見た場所だ。ここまで、どこをどう走ったのかもわからなかった。

 路肩にバイクを寄せて、スタンドを立てる。

 どっと疲れが出て、縁石に腰掛け、ため息をついた。

 ヘルメットを脱いで、傍らのアスファルトに置いた。

 駅前広場の時計台の針は午後七時三十分。

 雨は小休止といった感じで上がっていたが、俺の全身はどうしようもないほどぐしょ濡れで、靴を踏みしめるたびにぐしゅぐしゅと音がした。シャツもズボンも身体に貼りついて重かった。濡れた路上に直に座っても何も気にならなかった。ロータリーには、車が数台止まっていて、歩行者もそれなりに居た。バスが来て、人の群れを吐き出した。

「タキくん」

 突然澄んだ声で名を呼ばれた。

 のろのろと顔を上げると、幻のように、目の前にレラが立っていた。

 ほっそりした身体を、感じのいい白と茶色のワンピースに包み、少し短めの裾からは、白く綺麗な脚が伸びている。

 オレンジ色の傘をさしたレラは、妙に嬉しそうな顔で俺をじっと見つめ「奇遇。ここでなにしてんの? ていうか、なんでそんなにずぶ濡れ?」

「おまえこそ、なにやってんだよ」

「え?」

「……へんなオッサンの車に乗ってたろ?」立ち上がりながら俺は言った。

「タキくん……?」

「………………」

「やっぱ見られてたか。さっき」

「おまえ、オッサンに……身体とか……売ってんのか」

 その言葉を聞いたとき、レラのアーモンド形の瞳が、いっぱいに見開かれた。

 それから、急速に目から光と色が消えた。本来あるべき奥行きに、灰色のコンクリートが蓋をしてしまったように。

 レラがクククとはすっ葉な笑いを漏らした。

 こいつもか。

 自嘲の笑いに、聞こえないくらいかすかな声が混じる。

「で」恐ろしいくらい冷え切ったその声はもはや別人だった。「それがなんだって?」

 今までレラの冷たい表情は散々見た。でもそれとは比較にならないくらい酷薄な顔だった。殺気に近いものすら感じる。

「だったらどうすんの? わたしが身体を売ってて、それでどうしたいの? ああ、あなたもわたしとやりたいって……」

 パンッと音がした。

 嘲るようにベラベラと喋っていたレラの言葉が途切れた。

 長い髪が舞って、レラが身をすくめるように横を向いた。

「ふざけんな」

 レラのほうに伸びているのは俺の右手だった。それでやっと自分がレラを叩いたのだと認識した。

「おまえがやってることは、自分をめちゃくちゃ傷つけて、いつかお前が本当に好きになる相手のことも傷つけるようなことなんだよ」

 耳の後ろの血管が破裂しそうなくらい感情が昂っていたが、それは怒りというより別の何かだった。もっと違う気持ちの奔流だった。

 たぶん、俺は悲しかったのだろう。それも、どうしようもなく。

「俺に、こんなこと言う義理も資格もない。おまえの人生、おまえの好きなようにやるべきだし、誰もそれに口出すべきじゃない。でも、おまえが傷つくようなことはして欲しくないんだよ」

 ぱさっと音がして、オレンジ色の傘がアスファルトの上に転がった。

 スローモーションのような動きで、レラが自分の白い頬を左手で押さえた。

 目を見開いたまま固まってしまった顔をよく見ると、口だけがほんのわずかに動いていた。

「……レラ?」

「……………」

「おまえ、聞いてんのか?」

「叩かれた」

「あ?」

「あれ、お父さんなのに」

「おとーさん?」

 きゅううううう、と甲高い小鹿の鳴き声のような音がして、レラの綺麗な顔がくしゃくしゃに歪み、ぎゅっと閉じた瞳から驚くくらいの量の涙が噴出した。

「うええええええええ」迷子の子供のように、全身全霊でレラは号泣し始めた。「えええええええええ」

「お、おいっ」と俺は慌てた。

 お父さん? 援交じゃなくて?

 そこが駅のロータリーであることも忘れてわんわん泣きわめくレラを呆然と見つめた。通行人がなにごとかと遠巻きに集まってきた。

「いや。ちょっと待て。お父さんって死んだんじゃなかったのか?」

「死んだなんてひと言も言ってない! 離婚調停中!」

「え?」

「別居してんのっ」

「でも、アレ、とても父親と会っているような顔には……」

「接近禁止命令出てる父親からいきなり待ち伏せされて、強引に車に乗せられたら、あんな顔になる!」

 めちゃくちゃ泣きながら、叫ぶようにレラは言った。

「………」そこで俺はようやく自分の早合点に気づいた。「……はは」

「笑うなーっ」とレラが右手の甲で目をごしごしこすりながら文句を言った。「ここ、笑うとこかーっ」

「……ごめん」と俺は慌てて言った。

「なにも悪いことしてないのに! 信じらんない!」

 両手で顔を覆って、すんすん泣く。

「う。スイマセン……」と俺は素直に頭を下げた。「でも、おまえも、違うなら違うでそう言えばいいのに、なんかへんな言いかたするから……」

 手の隙間からギロッと睨まれ、俺は言葉を飲み込んだ。

「そっか」と俺は全身が一気に弛緩するのを感じた。「おまえ、へんなこと、してなかったんだな……」

 こんなホッとした気持ちは、母さんの乳がんの手術が終わったとき以来だ。

「もしかして、それ、わたしを探して……?」詰問するような口調でレラが言った。「あのとき、駅前ですれ違ってから?」

「まあな」と俺はものすごくバツが悪い気分でぼそぼそ答えた。「雨だってのに、バイク走らせて、おまえの乗った車、ムダに追いかけてな……」

「ずっと?」

「ああ。途中で見失ったけど、なんとか探そうと思って」

「そんなにずぶ濡れになるまで?」

「そりゃ、傘さすわけにもいかねーだろ。バイクは」

 照れや、自己嫌悪や、恥ずかしさや、居心地の悪さや、申し訳なさや、安心や、嬉しさや、とにかく様々な気持ちが胸中でぐるぐる渦巻いた。レラのほうに顔を向けられず、俺は、地面に横たわったままのオレンジの傘を拾い上げた。そうこうしている間に、また雨がぽつぽつ降り始めていた。

「追いかけて、追いついて、それで何をどうするつもりだったかなんて、俺にもわからないけど、じっとしてられなかった」

 物言いたげな、深みのある表情で俺を見ているレラの頭上に、傘を差し伸べる。

 俺はもう傘なんて意味ないほど濡れてしまっていた。レラの顔も、涙でぐしょ濡れだ。

 泣き濡れた目で、穴が開きそうなほど俺を見つめていたレラは、やがて一気に笑顔を噴出させた。ものすごく嬉しそうだった。こんな顔できたのか、と俺は別人みたいに溌溂としたその顔に見惚れた。わかってはいたことだったが、初めて見るレラのはっきりした笑顔は、信じられないくらい可愛かった。

「なにやってんだ俺は……」照れ隠しに俺は言った。「くそ。カッコわりー……」

「そんなことないよ!」レラは感情をたぎらせた必死な声で「タキくん、カッコ悪くなんてないよっ。全然カッコ悪くなんて、ない……」それから、右手の人差し指を曲げて唇につけ、声のトーンを落とし、「……ばかだとは思うけど……」

「そうだな」俺も同感だ。「とんだバカヤローだよ。俺は」

 安堵感と、レラが初めて見せた本当の笑顔で、胸に暖かいものが満ちていく感覚だった。

「なんか、安心したら、急に冷えてきたよ……。帰って風呂入るかね……」

 オレンジ色の傘を手渡す。

 小雨が降ってるというのに、レラは受け取った傘を閉じた。

「ねえねえ。タキくんタキくん」今までのレラからは想像できない甘えた声で「送ってよ」

「いや、でも、雨降ってるから、バイクなんか乗ったら濡れちまうぞ」

「いいのっ」可愛く両手を振り回しながら「そういう気分なのっ」

「そ、そうか。えと、ヘルメット、どうしたものか」

 商店街で借りれそうなところは、と頭を巡らせる。『カモカモ』に行ってみるか。

「ちょっとだけ待ってろ」とレラに言った。「濡れないように駅の中にでも居ろ」

「うん。待ってる」とレラは小首を傾げて微笑んだ。

 それは、まだ恋もロクに知らない中学生のように胸がときめいてしまう、生涯に渡って心に焼き付けられそうな、特別な笑顔だった。


 神様もこんなとき気を利かせて、雨降らさないでくれりゃいいのに。

 そんな勝手な願望は聞き届けられず、レラを送る間にも雨は降り続いた。

 元からぐしょ濡れだった俺はともかく、レラまで全身濡れてしまったが、それでもレラはずっと上機嫌だった。

 あの夏祭りの日、送っていった山の手の道をまた走り、レラを降ろした公園にバイクを止めた。

「あーあ。もう着いちゃった」

 バイクから降りたレラはひとり言のように呟いた。濡れた白と茶色のワンピースが身体にぴったりくっ付き、胸元に立体的な膨らみを作っていた。

 雨が地上に落ちるさあさあという音が静かな公園に響いた。

 俺たちはそのまま雨に打たれ、濡れるに任せた。

 レラは畳んだままのオレンジの傘を開こうともしなかった。

 何も言わず、じっと立ったまま、なかなか帰ろうとしない。

 街灯の灯で、濡れたレラの肌はぼんやりと青白く光っている。

「風邪ひくぞ。はやく帰れ」見かねて俺は言った。

 レラは聞こえてないかのように動かなかった。例の、俺の顔の細部まで子細に観察するような真剣な瞳で、ただこっちを見つめていた。

「俺な」と仕方なく口を開いた。何か少し話さないとレラは動かない。そんな気がした。「基本的には、おせっかいは嫌いなんだよ」

 レラはじっと俺を見る。

「ひとにとやかく言うつもりはないし、他人になにかを押し付ける気もない。……それは、寛容だからじゃなくて、俺自身が何も言われたくないし、他人から何も強制されたくないからなんだ」

「うん」とレラは俺の目を見つめたまま言った。

「だから友達なんてひとりも居ない」

「そうなの?」

「……まあ、約一名、妙に付きまとってくるやつは居るけど」と俺はサエキが聞いたら怒りそうなことを言った。あ。サエキ。

「それでいいと思ってた。世には、見たいものもいろいろあるし、やることも、考えることもいくらでもある。ひとりでも充分満ち足りるって」

 レラは黙って聞いている。

「けどな」と俺は続けた。「レラはなんか特別だったんだよ。気になったし、話もしたかった。おまえのこと、もっと知りたいと思った。俺にできること、してやりたかった。だから、干渉されたり、いろいろ言われたりして、レラもうっとうしいって思うかもしれないけど、そこはまあ勘弁してくれないか。……慣れてないんだ……その、友達ってやつに」

 レラは、花弁が開くように柔らかく笑った。美しい顔に、濡れてぺったりした乱れ髪が貼りついていた。

「お父さんね」とレラが言った。「わたしが福海町に来る前に住んでたずぅっと遠い街から来たの。今の住所は知らないはずだった。ひと使って探させたんだって。いきなり現れて、車に乗るように言われて、町から離れたところに食事に行った」

 接近禁止命令。父親が子供に近づくことを裁判所が禁止する命令だ。

「いろいろ複雑そうだな」

「うん。複雑だよ。イヤになるくらい」レラは歯を見せてニッと笑う。

「タキくんには、聞いてもらいたい話、相談したいこと、いっぱいある」とレラは少しかすれた声で言った。「いいでしょ? ……友達だもん」

「ああ」と俺は笑った。「なんでも話せ。……友達だからな」

 レラは突然俺の右手を両手で取った。ひやりとした小さな手だった。

 両手で俺の手のひらを揉むようにいじり、もじもじしながら、俺を見て、視線を下げ、また俺を見て、そしてふっと短く息を吐き、やっと決心がついたかのように、

「……あのね。タキくんがわたしのために雨の中ずっとバイク走らせて探してくれたって聞いたときね、わたしすごく……」きゅっと手を握り「……うれしかったよ」

 レラは駆け出した。そして、ぱっと振り返ると、

「また明日! マリモでねっ。来ても来なくてもずっと待ってる!」

 そう言い残し、夜の公園から走り去った。

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