魔女カルディ

 マグナム商店街にある俺の行きつけの喫茶店が『カルディ』だ。

 不思議な感じのする女性店主がひとりでやっている小さな店で、カルディという店名は、コーヒーの木を発見したエチオピアの羊飼いの名から取ったらしく、初めて店主からその逸話を聞かされたとき、このひとには物語があるな、と思った。俺たち常連は、親しみをこめてその店主を「カルディさん」と呼んだ。

「まったく。すごいよタキは。恐れ入ったよ」

 カウンターに座ったサエキが大げさに頭を振る。「放ったらかしにしたお詫びにってぼくを誘っておいて、それをさらにすっぽかすとはね」

「悪かった」

「ぼく、『あれ食べようかな、これ食べようかな』ってずっと決闘ネコの前で待ってたんだよ。お腹すかせたまま。ヘタに何か食べたら、平気でタキは『お。もう食ったのか? じゃ、今日はいいな』とか言って帰っちゃうだろうし」

「いや、俺にもいろいろ事情がな……」

「二時間くらい経ってから、『あは。もしかしてこれ、黒髪湖と同じパターン? ぼくすっぽかされてる?』って」

「だから悪かったって。あやまってんだろ」

「タキさん、天然さんですから」

 俺とサエキが並んで座るカウンターの向こうで、店主のカルディさんがたおやかに笑った。

「きっとよほどの事情があったんですよ、サエキさん。タキさんは、いつもなにか秘密を抱えた、謎めいたひとですから」

 クスクス笑うカルディさんこそ、年齢不詳の謎めいたひとだった。綺麗な人で、三十代にも見えたし、四十代にも見えた。五十代の落ち着きを持っていたし、笑うと二十代に見える時もあった。不思議なひとだ。本名も、実際の年齢も、誰も知らない。

 長い豊かな黒髪に、いつも小さな変わった形の髪飾りをつけていて、服装は決まって体にピッタリとしたニットと柄物のロングスカート。ぜい肉なんて欠片も付いていない細い身体は、品のいいジプシーの占い師のように見えた。鼻が高く彫りが深い日本人離れした顔に、そんな装いはよく似合っていた。

「秘密ならぼくも抱えてるもん」サエキは女の子みたいな気色悪い口調でぽつり。

「……とにかく好きなもん頼め。今日こそ俺のオゴリだ」

「これで二回ぶんチャラにする気?」サエキはぶつぶつうるさい。

「サエキさん。いっぱい頼んでくださいね」とカルディさん。「はい。タキさんには、今日のオススメです」

 このカルディさん。ちょっとぽんやりしたところがあって、紅茶派のサエキと俺の嗜好を取り違えてインプットしてしまったらしく、俺がカウンターに座ると、出てくるのはいつもハーブティだった。部類のコーヒー好きな俺も、カルディさんがその日の気分で淹れてくれるハーブティを飲むのはとても好きだった。様々なハーブをブレンドする様は、書斎で薬草とか魔法植物を調合して秘薬を造る魔女の雰囲気そのものだったからだ。

 そこは、穏やかな風が吹き、親密な光があふれ、芳しい香りのする、俺の秘密の中庭だった。

 空色の壁紙。深緑のテーブルクロス。濃い茶色の木目のカウンター。壁紙と同じ色に塗られた食器棚。可憐な野花のようなウェッジウッド。レースのカーテンの出窓には、講談社の「世界少年少女文学全集」がひと揃え置いてあって、そのあずき色の褪せた背表紙は、まるで魔女の秘術が記された魔導書のように見えたものだ。

「タキさんが作家になったら、そこにタキさんコーナーを作りますからね」とカルディさんはよく言った。俺は、たぶん無理だろうな、と思いながら「最初の本は真っ先にカルディさんに贈呈します」と言った。


 日替わりランチは、桃と生ハムの冷製パスタだった。カルディさんらしい創作パスタだ。桃の甘さと生ハムの塩気がマッチしてとても美味かった。お昼どきだが客は俺たちだけで、店内には控えめなボリュームで上品なクラシックが流れていた。カルディさんの好きなバッハで、『音楽の捧げもの』。

 サエキが、「ちょっとお化粧室へ」と言って席を立った。

 カルディさんは、それを見届けてから、遠慮がちに切り出した。

「……あれからなにか連絡はありましたか?」

「いえ。なにも」

「そうですか。まあ、上京したばかりだし、まだ忙しい時期なのかもしれませんね」

「そうですね」

「……きっとなにか事情があるんですよ」

 励ますようなカルディさんの言葉に、俺は黙って口の両端を持ち上げた。

「このまま連絡がなかったら」と俺は少し考えて言った。「冬休みにでも一度行ってみようと思っています。……ちょっと遠いですけどね。東京」

「私は好きではありません。……あの街」

「行ったことあるんですか? 東京」

「最初の夫といっしょに暮らしていました」とカルディさんは静かに笑った。

 俺もそれ以上はなにも聞かなかった。

「ねえタキさん」カルディさんが、珍しく強い視線で俺の目を直視した。「あなたの、女性に対して真摯に、誠実であろうとする姿勢、疑いようもなく、とても素敵なところです。それはタキさんの強さだと思います」

「なんですか、急に」

「ですけど……。あの、気を悪くされないで聞いてくださいね」

「もちろん」

「女にとって、弱さはしたたかさでもあるんです」

 カルディさんの柳眉がほんの数ミリ下がる。

「それがいつかタキさんを傷つけることになるんじゃないかって」

「…………」

「だから、タキさんも、もっと自分勝手でいいんですよ? 人生の大事な瞬間には、自分のエゴを優先したっていいんです。それがたとえ、情欲に流されることであっても……」

 そこでカルディさんは、ハッと何かに気づいたような顔で俺から目をそらし、恥じらいを浮かべながら言った。「……誰にもそれをとがめる権利はありません」

「…………」

 でもそれは、小石を積み上げてやっと築きあげたイビツな壁が、ほんの小さな欠片を抜き取ったことで、がらがらと崩壊するようなものなんです。

「なんの話?」ちょうどサエキが戻ってきた

「ひとにはみな事情があるって話だ」

「私にも。タキさんにも。サエキさんにも」カルディさんは冗談めいた意味深な顔。

「?」という顔をしながらサエキは席についた。

「……でも、今回のタキさんの事情は、実はちょっと気になっています」

 カルディさんが急に思い出したように言った。

 イタズラっぽい上目遣いで「先日お見かけしたとき、カンガルークラブの指導員の方と一緒でしたよね。それから、とても可愛らしいお嬢さんと」

「え」と俺は一瞬固まり、それから必死でポーカーフェイスを作りながら、「えと、それいつの」

「サエキさんとのお約束の日」

 カルディさんは光の精霊とでも戯れるように細長い人差し指をくるくる回して言った。

 突然ガッと肩をつかまれた。

 目を細めたサエキが、怒気をはらんだ声で言った。「オンナ……だと?」

「お姫様みたいなお嬢さんでしたね。それに、タキさんとは二年ほどお付き合いさせていただいてますけれど、あんなふうなタキさんの顔、私初めて見ました」

「……その話、詳しく聞かせてもらおうか」

 不気味な笑顔でサエキが言う。

 そのとき、カメラのフラッシュでもたいたような閃光が店内を走った。

 続いて、ドゴンッという地響きみたいな音。落雷だ。

「ひっ」とサエキが身をすくめる。

 一番「きゃあ」とか言いそうなカルディさんは平然とした顔で、窓のほうすら見ずに「……ひと雨来ます」

 窓はいつのまにか重い灰色に変じていた。やがてカルディさんの言葉が雨を呼んだかのように、天井が雨音を響かせ始め、フーガをかき消した。

「きっとカミナリ落ちたの、タキのバイクだよ」サエキが意地悪そうな顔で「バチが当たったんだ」

「バイク!?」俺は立ち上がった。「やべえ。メットとグローブ置きっぱなしだっ」

「だからちゃんと持ち歩けって言ったのに」

「ちょっと取ってくるわ」と俺は言って、店から飛び出した。

 福海駅と商店街の入り口の間に、かなり広い露天のバイク置き場がある。異常にバイクが多い福海町ならではの駐輪場だ。

 雨に打たれる青とシルバーメタリックの俺のバイクに着いたちょうどそのとき、またも俺は、レラの姿を見かけた。

 俺たちは本当に縁がある。前世で何かあったのかってくらいだ。

 でもレラはひとりじゃなかった。

 ニヤニヤする中年男の運転する車の助手席に乗り、虚ろな顔で雨を眺めていた。

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