福海町の住人たち
今回は比較的早くサエキのことを思い出した。
俺は、朝イチでバイクを走らせ、マグナム商店街へ向かった。その日は昼からレラと水族館に行くことになっていたので、その前に済ませてしまおうと思ったのだ。
ついでに、マグナム商店街にある焼きたてパンの店『はっぱねこ』に立ち寄って朝飯にした。難しい顔をした猫の頭に、緑の葉が一枚乗っているイラストが目印の、安くて美味いパン屋だ。コーヒーも無料で飲める。
ただ、ここの店主が俺は少し苦手だった。
この店に通い始めて少し経ったときだ。いつも店番しているバイトの子の姿がなく、珍しくコックコートを着たオーナーが店先に居た。
あまりにも夏目漱石そっくりな顔に、俺は我が目を疑った。
その夏目漱石が、トレイを持ってリズミカルにトングをカチカチやって鼻歌を歌う俺に、いきなり「クィーンだね」と話しかけてきた。確かに頭の中で『Don't stop me now』が鳴っていたのだが、よくわかったなと驚く俺に、その男は突然本性をむき出してきた。
「……ところでパンの中でいちばんエロいのはチョココルネだとは思わないかい」
「はい?」
「パンの中でいちばんエロいのはチョココルネだとは思わないかいっ」
困惑する俺に、オッサンは弟子と問答する哲学者のような厳しい視線で返事を促している。仕方なく俺は、「ほ、ホットドッグもなかなかエロいと思います」と適当に言った。
「ふむ」口ヒゲがもごもご上下し「きみはそっち系か」
どっち系だよ、と心中で突っ込む俺のトレイにチョココルネをひとつ勝手に置くと、
「だがボクの言ったこともよく考えてみるといい……」
そう言って、チョココルネの代金はサービスしてくれた。
以来、俺の顔を見るたびに、妙な下ネタをささやいてくるので大変迷惑している。
今日のレジはバイトの女の子だったので、安心して俺は、ゴルゴンゾーラとハチミツのピザを買って、外のベンチでコーヒーと一緒に頂いた。
はっぱねこを出て、次はカモカモへと歩く。
自家焙煎珈琲豆店『カモカモ』は、生の豆を購入後、目の前で焙煎してくれる。十五分ほど待たされるが、焙煎した直後の珈琲は涙が出そうなほど美味い。
カモカモの店主は、福海芸大OGの妙齢のお姉さん、通称『カモさん』だ。
ぼさぼさのボリューミーな髪、眠たげなタレ目、赤のチェックシャツにデニムというグランジ風ファッションで、いつもかったるそうに喋り、おまけにものすごく口が悪い。口癖は「クソが」「ボケが」「産廃が」。世のあらゆるものに毒を吐いていたが、客とコーヒーにだけは優しかった。ついでに胸もでかい。
貧乏学生の俺は、一番安い『カモカモブレンド』しか買えないが、他の店のそこそこの豆より断然美味かった。何より、焙煎の待ち時間にハスキーボイスのカモさんと世間話するのが楽しみということで、俺はカモカモの常連になっている。
「ちわー」
木を基調としたシックな外観のカモカモに入ると、低血圧のカモさんは案の定機嫌悪そうだった。
「おう」客にするとは思えないワイルドな挨拶。
「メット返しに来たよ。助かった」
「おう」と折り畳み椅子に座ったカモさん。手には小説を持っている。カモさんは実にいろいろな本を読む。でもその本は気に食わなかったらしく、「……ボケ小説め」
「あれ、それ」最近バカ売れした、奇抜なタイトルの恋愛小説だ。俺は読んでいない。「どうだった?」
「産廃だ」と断言しながらも、そっとテーブルに置く。どんな本であっても、絶対に手荒には扱わないのだ。「……昔流行ったやつを焼き直して、思わせぶりなタイトルのっけただけのクソだよ」
相変わらず口調も思考も乱暴だ。
「タキ。おまえ最近なに読んだ?」出し抜けに聞かれた。
「えーと……カモさんに借りたヨーゼフ・ロート読み終わったよ。あと、カフカ」
「『変身』か?」
「『断食芸人』」
「うん。あれはいい」とカモさんは舌打ちでもしそうなしかめっ面で褒めた。「モーパッサンも読んでみろ」
話してちょっと目が覚めたらしいカモさんが、気持ち優しく言った。「コーヒー淹れてやろうか?」
「いや、これからカルディ行くんで」
「またあの魔女んとこか……」カモさんはこの日一番の渋面を作る。「タキ。あんまりあそこ入り浸ってると、そのうちエナジードレインされるぞ」
カモさんとカルディさんは、はっきり言って水と油なのだが、ふたりを知る誰もが納得している。
喫茶カルディの前に行くと、エプロン姿のカルディさんが花壇に水をやっていた。
「あ。おはようございます」と頭を下げるカルディさんは、暑さとは無縁のように涼やかだ。「お早いですね」
「おはようございます」と俺も挨拶した。「この前はすいません。えーと、あれからサエキは……」
「はい。それが……」
俺たちは話しながら店内に入った。かろんかろん。ドアの鈴が軽やかに響く。店の中はもうクーラーが効いて涼しかった。
「あれからタキさん戻られなくて」とカルディさんは眉をハの字にした。「サエキさん、二時間くらい経って、『あはっ。来たよきたきた。またきたよ。カルディさん。これ、ぼく、また放置されてますよね?』って」
「……うーむ」
カルディさんは、「あ」と手をパンと重ね、カウンターの中からごそごそメモを取り出した。「サエキさんからのお預かりものがありました。どうぞ」
――のろってやる――
そう書かれたメモだった。なに考えてんだアイツ。
そのメモを見ていたら、ふと何かが心に引っかかった。何かはわからない。でも、サエキが書いたそのメモに見覚えがあるような、以前にもこんなことがあったような、デジャビュのような感覚だ。
「お電話使うならどうぞ」
カルディさんが厨房の中から歌うように言ったので、俺はそれ以上考えるのをやめ、そのメモを手帳に挟んだ。そして、サエキに電話をかけた。
電話の前で待機していたかのように、サエキは一瞬で出た。
『……タキってサディストなの?』
開口一番サエキは恨みがましく言った。『ぼく、ひとからこんなにヒドイ目遭わされるの、初めてだよ。実際』
「悪かった」
『例の女か』
少し考えて俺は、「……例の女の子だよ」と正直に言った。そして勝手に誤解して暴走される前に、「ちょっとワケありなんだ。その話も今度な」
『今度っていつ?』
「え。そうだな。お前、いつが暇だ?」
『今日』
「いや、今日はちょっとダメなんだ」
『明日』
明日はレラと動物園に行く予定だ。明後日は買い物に付き合う約束だし、レラが一緒に本屋に行きたがっているから、その次の日もたぶんダメだ。しかし、さすがにサエキをこれ以上放っておくのも気が引けた。
「じゃあ明日。……動物園とかでもいいか? 会うの」
『いいよ。前に一緒に行ったよね。懐かしいな。いいね。行こうよ』
……そんなわけで、俺はサエキと動物園に行くことを約束した。
レラも一緒だとは言わなかった。深く考えず。
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