雨の日の動物園

 昨日の猛暑が嘘のように朝から雨だった。待ち合わせ場所である駅近くの公園に入ると、一段高い所にある東屋に、オレンジ色の傘を畳んだ女の子が立っていた。

 白い煙のような雨の中、木々のくすんだ緑に溶け込む東屋に佇むその姿は、ひどく鮮明な存在感があった。絵画のようだった。

「よう」

「おはよー」

「早いな。もう来てたのか」

「うん。楽しみすぎて」とレラは素直な顔でニッコリ。

「……雨、降っちまったな」

「だね。でもいいよ、ぜんぜん」

 今日のレラは、黒のカットソーに赤いひらひらしたミニスカート。厚底の白いサンダルという格好だ。雨にとても映えている。

 サエキとの約束まではまだ間があったので、マグナム商店街を並んで歩き、『はっぱねこ』に向かった。道すがら、俺はサエキのことを話した。

「……んなわけでな、今日は三人なんだ」

「そっか。誰か来るのか」

 レラは複雑な顔をした。人見知りするタイプだけに当然だろう。でも、花火大会と人形劇、雨のバイク追跡と、三回もサエキを放置したことを説明すると、「それ、責任の一端はわたしにもあるよね……」と納得していた。

 はっぱねこの前で、俺は「ちょっとそこに居ろ」とレラを待たせ、慎重に店内をうかがった。

 しまった。運悪く変態が表に出てる。

 仕方ない。コンビニでも行くか……と思っていたら、

「なにやってんの? スパイごっこ?」レラはさっさと店に入ってしまった。

 目をキラキラさせながらパンを選ぶレラのすぐ後ろで、トレイを持ちながら、なるべくオーナーを見ないようにした。気が気じゃなかったが、意外にも変態は話しかけてこなかった。普段なら、アンパンをふたつ胸に装着して真顔で見せてきたりするのに(で、そのあと俺のトレイに勝手に載せる)。

 そのままレジで会計を済ませた。微笑を浮かべたオーナーは不気味な沈黙を守っていた。こうして黙っていれば知的な男前なのに。

 店を出るとき、ふとイヤな気配を感じて振り返ると、オーナーは親指を使ってにゅっと下品な仕草をした。そして、変態そのものの顔でニヤリと頷く。うん。いつかこの店、燃やそう。

 公園に戻り、東屋のベンチに座って雨を眺めながら、俺たちはコーヒーを飲みパンを食べた。当たり前のようにレラのパン代を出してやったら、すごく喜ばれた。

「……あー。緊張するー」

 塩バターレーズンパンをもぐもぐしながらレラ。

「大丈夫。人畜無害なやつさ」

 普段は黒い本性をひた隠しにしているサエキだけに、レラの印象も悪くないだろう。

「サエキさんだっけ。どんなひと?」

「まあ、ひと言で言うと、すごい美男子だよ。レラも、ひと目ぼれしちまうかもよ?」

「わたし、単に顔がいいだけの男のひと、なんとも思わないよ」とレラはきっぱり。

「ちなみに、性格も優しくて、成績もよくて、大学でもすげえモテる人気者だ」正体はともかく。

「そういうタイプはそういうタイプで、なんか苦手かも……」

 濡れた木々からは印象的な鳥の声があちこちから響いてくる。

 雨の日によく聞く、長く鋭い鳴き声だ。

 なんとなく無言で、さらさらと降り続ける雨をふたりで眺めた。

 そうしていると、あずき色のお洒落な軽自動車が公園に入ってきた。時間ぴったりなのがサエキらしい。上手に駐車された車から、傘をさしたサエキが出てきた。白の七分丈のパンツに、ボーダーのTシャツ。その上に紺のサマージャケットというスカした服装だ。骨が細く、華奢で色白なサエキは、遠目には子供か女の子に見える。

「おはよー」

「おう」

「タキが時間通りなんて珍しいね」

「そうか?」

「……で、それ、なに? どういうこと?」

 サエキは無表情に言った。

「ああ」と俺は「……この子はレラ。今日は三人で動物園に行こうと思ってな」

「おはようございますっ」とレラが両手を揃えてぴょこんと頭を下げた。長い黒髪が派手に舞った。「あの。タキくんがいつもお世話になってますっ」

 緊張しているのか、おかしなことを口走る。

 サエキのほうは……白々しいほどの無表情だった。おかしい。大学で女の子と話すときは、うっとうしいくらい愛想いいくせに。こんな顔、俺たちふたりだけのときならともかく、他にひとが居るときは絶対にしないはず。

「……ああ。もしかして、これが例の女?」

 トゲのある口調でサエキが言った。

 ぴきっ。レラの顔に険が走った。

「あ?」俺は耳を疑った。

「え、ええと」それでもレラは丁寧に挨拶しようとした。「申し遅れました。アオキレラです。はじめまして」

 あの廃墟で俺と初めて出会ったときの感じの悪さからすれば、野生児の少女が修道院に入れられたあとみたいな礼儀正しさだ。

「『蒼きレラ』? なにその二つ名。自分で考えたの? きみ中学二年生?」

 なのにまた突っかかるサエキ。

 レラも今度は遠慮しなかった。

「青木です。青い木」冷ややかな笑顔で「わたし、タキくん以外のひとからそれ言われるの、だいきらいなんです。やめていただけます?」

「……ふうん?」とサエキも薄ら笑い。「タキは特別なんだ?」

「ええ。友達ですから。わたしたち」

「ぼくはタキの親友だけどね」

「……ああ! タキくんが言ってた『約一名妙に付きまとってくるやつが居る』って、このひとかー」レラはあっけらかんと。

「お、おいおまえなにを……」

 サエキはクククと黒い笑いを隠そうともしない。「ぼくもね。タキにだけはそんなふうに言われても許すんだ。タキの憎まれ口って、愛情表現でしょ?」

 チッ。音が聞こえるくらい露骨にレラが舌打ちした。

 サエキはサエキで涼しい顔。なんだこれ。

「おまえら、なにわけわかんねーことで張り合ってんだ」俺はうなった。

「とにかく動物園行こうよ。その子が一緒でもいいから」とサエキが言って踵を返した。ふと立ち止まり、レラに向かって「きみも車乗せてあげる。一回百円で」

「アリガトゴザイマスー」とレラは機械的に言った。「まあ、わたしとタキくんはバスでもいっこうに構いませんが」

「……なんでぼくが単独行動なの」

「今日の動物園、わたしのリクエストなんですよ」とレラはにっこり。「タキくんが連れていってくれるって。サエキさんはそのあとついでで参加になったと聞いてますが」

「ま、まあ、今回はレラのほうが先約だった」と俺はジト目で睨むサエキに言った。「どうせならみんな一緒のほうが楽しいかと思ってな」

 レラに助手席を譲り、俺は後ろに乗り込んだ。

 座るなり、レラは財布から出した百円玉を、ダッシュボードの上に碁でも打つみたいにパチンと置いた。「はいっ」

「……冗談なのに」とサエキは苦笑。

「レラは生真面目なんだ。あまりへんな冗談言うな」

 俺はため息をついて、自分も百円玉を親指で弾き、サエキのほうに飛ばした。

 サエキは優雅にそれをキャッチすると、「ふーーーん」と言った。

 ガコガコン。ギヤを入れて、サエキが公園から車を出す。

 俺たちは、さあさあと覆いかぶさるような雨の中、福海町動物園へと向かった。


 雨の日の動物園は不思議な場所だ。

 透明な幕のような雨の中、客の姿はほとんどなく、たまに見かけても、ずっと遠くを影のように歩いている。動物と飼育員のほうが圧倒的に多く、なんだか舞台裏みたいな雰囲気だった。

「ひと、全然居ないね。貸し切りだ」

 レラがオレンジの傘を回転させながら言った。黒のカットソーはすらりと伸びた手足の白さを引き立たせ、赤いスカートは雨の中だと異様に目立った。

「それが雨の動物園のいいところだよ」と俺は言った。「動物園貸し切りなんてレアな体験、なかなかないぞ」

「そうだね。雨降ったときは、昨日の水族館と逆のほうがよかったかな、って思ったけど」

「え。なに水族館って」と水色の傘をさしたサエキが口を挟む。

 俺が何か言おうとする前に素早くレラが、

「昨日は水族館行ったんですわたしたちイルカショー見てアシカショー見てラッコ見てペンギン見てスナメリ可愛くてお昼はシャーク定食食べて素敵な水槽カフェでマーメイドパフェごちそうしてもらってすっごくすっごくたのしかったー」とひと息で言った。

「しゃ、シャーク定食? ってなに!?」とサエキ。「……それで、昨日電話したとき、『今日はダメなんだ』って言ったのか」恨めしそうに俺を見る。

「……まあな」

 ふふーん、とレラは妙な流し目。

「ま、まあ。今日こそはお前もな。昼飯もおごるし」と俺は言った。

 俺たちは、オレンジ、青、水色と三本の傘をさして横に並び、ほとんど無人の動物園の濡れたアスファルトをのんびり歩いた。

 雨滴が静かに木の葉を叩く。

 種類のわからない動物の遠吠えが聞こえ、引き絞るような鳥の鳴き声が頭上を横切った。

 静かだけど、色々な音が重なり混じって響いてくる。

「ツシマヤマネコ見たいっ」園内の地図を見ながらレラが言った。

 展示場は、低木がたくさん生えたミニチュアジャングルになっていて、当のヤマネコがどこに居るかすぐには見つけられなかった。

「あ」とガラスに顔を付けるようにして探していたレラが叫んだ。「見つけた! 奥の箱のなかに居たっ。かわいー」

「かわいー」とサエキも黄色い声。

「ねえ。ところで」とレラが、展示場から離れた場所に突っ立っている俺を怪訝そうに見た。「どうしてタキくんそんな遠くに居るの? ヤマネコ近くで見ないの?」

「え。いや、俺は……ちょっとネコはな……ダメなんだ」

「あれ? ネコ苦手だったっけ?」サエキは首を傾げる。

「はあ?」とレラも眉をひそめた。「ネコがダメ? 地球上にそんな人間存在するの?」

「まあ、ネコ好きはみんなそう言うだろうな……」と、俺はそれ以上その話題を避けた。

 いつのまにか雨は霧雨に変わっていた。そんな霧雨の中では、どの動物たちも、いつもよりずっと思慮深く見えた。晴れの日は、人間になんてまったく無関心そうな動物たちが、雨の日は、面白いものでも探すような目つきで、いちいちこっちを気にかけてくる。動物園でも特に混雑する人気の大型肉食獣のエリアも、今日はほとんど誰も居なかった。

「なんか、世界が滅びる直前みたい」

 面白い表現だ。でも、レラの言う通りだと思った。

 それから俺たちは、大きな楠に囲まれた黒いドームへ入った。放鳥舎だ。人口の林の中に、赤や白やピンクといった無数のカラフルな鳥たちが飛んでいた。

「いいよね。鳥って。綺麗だし。自由だし」サエキが頭上を振り仰いで言った。「ぼく、鳥、大好きなんだ」

「へえ。そうなのか」サエキが鳥好きだなんて初耳だ。

「鳥になれたらいいなーなんて、思わない?」

 サエキは誰に言うともなしに言った。

「………………」トリになりたい、か。

 ヤエのことを思い出す。

 ふと気がつくと、サエキは俺の顔をじっと見ていた。

「わたしもちょっと前まではトリになれたらいいなーって思ったことあります」とレラが言った。「そしたら、自由に、好きなところに飛んでいけるのにって」

 レラはドーム型の空を見上げた。

「ちょっと前まで?」

 何か気づいたのか、サエキがレラに言った。

「はい」とレラは口元に淡い笑みを浮かべて、「いまは……そうでもないです」


 動物園をひと通りまわったあと、俺たちは隣接する植物園に移った。

 雨は強くなったり弱まったり。そのたびに傘を閉じたり開いたり。

 空は一向に晴れる気配のない灰色。

 薄暗い雨の中でも、夏の花は勢いよく咲き乱れ、植物園内を華々しく飾っていた。

 植物園のシンボルである巨大な中央噴水のそばに、これまた巨大な中央花壇があって、ケイトウの群生の燃えるような花穂が目を引いた。レラのミニスカートもそうだけど、雨の中だと赤はやっぱり美しく映える。

「ケイトウ」とレラが案内看板を読んだ。「ああ、鶏頭か。たしかにニワトリのトサカみたい」

「花言葉が書いてある」とサエキが言った。「えーと、ケイトウの花言葉は……『気どり屋』『風変り』『個性的』……はは。誰かさんみたい」

「『色あせぬ恋』……」

 レラがぽつりと言った。どうやらそれもケイトウの花言葉らしい。

「ロマンチストな花だな」

「なんかいいね」とレラは落ち着いた静かな口調で言った。「……色あせぬ恋、か」

 植物園の丘に建つ展望台は、西洋の塔を思わせる古風な作りをしている。一階部分にあるカフェも、外国のそれを思わせるお洒落な店構えだ。

 入口まで緩やかに登っていくレンガ敷きの小径には、両脇にハーブ園が広がっていた。

 ローゼル、フレンチラベンダー、スィートバジルという有名どころに加えて、ソープワート、レオノチス、ヘンルーダーといった聞き慣れないものまで。途切れなく続く静かな雨の中に、甘辛いような鮮烈な香味が、溶けて、にじんで、漂っていた。

 俺たちはカフェに入った。

 ぴかぴかにワックスのかけられたこげ茶色の床が、暖かなオレンジ色の照明を反射して、テーブルクロスは赤く、天井や丸い柱は白い。木棚にはワインのボトルが並べられ、壁には異国の意匠の皿や絵画が飾られていた。

 大きな窓には、ゆとりのあるカウンター席が設えてある。

 雨の降る今日、海と空の境界は朦朧としていた。

 俺たちは窓際のテーブル席を選んだ。赤いメニューを開き、三人で顔を寄せる。

 レラはアボカドと生ハムのオープンサンド。俺は、がつんと肉が食いたくなってハンバーグプレートにした。サエキは迷うことなくチーズリゾットを頼んでいた。

 注文を受けたウェイトレスが立ち去ると、三人の視線が自然と外に注がれた。

 雨にけぶる遠い街は、白い海に沈んだ廃墟の都市のようだった。

 店内にしっとりと流れているのは、クリーガーの『メヌエット』。

 雨の日のBGMとして、これ以上はないと思う。

 料理を待つ間、サエキがぽつりと言った。

「ふたりは、どこでどんなふうに知り合ったの?」

「運命的に出会ったんです」とレラが遠い目をしながら言った。「幻の街で」

「ちっともわかんないんだけど」とサエキ。

「話せば長くなる」と俺は言った。

「いいよ。時間はある。聞かせてよ」

 俺とレラは、ふたりが初めて出会った、あの、幻想の街の話を物語った。燃えるように咲く桜。透き通った青空。フードコートの読書。百年文庫。ベロニカは死ぬことにした。ミルクティー。空中木道のかけっこ。バスとバイク。五十年後。そしてマリモでの再会。

 ほとんどレラが話した。それも、驚くほど楽しそうに。

 食事が来て、俺たちはなんとなく黙りがちにそれを食べた。

 長い話をして、俺とレラはちょっと気が抜けていたし、サエキはなぜか途中から黙りこくってしまった。料理は文句なしに美味かった。でも、妙に固い雰囲気が漂っていた。

 言葉少なに食後のコーヒーを飲んでいると、今度はレラが切り出した。

「タキくんとサエキさんのほうは、どんなふうに仲良くなったの?」

 重い空気を払しょくさせようと思ったのか、少しトーンの高い声。

「突然サエキから声かけられたんだよ。講義終わったあと、駐輪場で『チーズバーガー食べに行かない?』って。顔も知らなかったのにいきなりだぜ? ナンパじゃあるまいし」

「……ぼくはその前からタキのこと知ってたけどね」

 上品なカップに口を付けて紅茶をすすりながら、サエキが目を閉じたままきっぱり言った。

「え。そうだったのか? いつ?」

「それは……」とサエキはどことなく困った顔で俺を見た。そして、「……言いたくない」


 カフェを出た俺たちは、植物園の目玉である大温室へと向かった。

 中央温室を、回廊温室がぐるりと囲んだ作りになっている。通路のあちこちに、色とりどりの花が咲き乱れる花の回廊だ。透明な天井を、雨が様々な音色で打っている。

 ブーゲンビリアのトンネルで、レラはふと立ち止まり、頭上の赤や白や黄色の花びらを笑顔で見上げた。その可憐さに思わず見入ってしまう。

 女には花が似合うな、なんてクサいことを考えたりして。

「わたし、植物園のほう、ぜんぜん来たことなかった。いいね、こっちも」

 視界いっぱいの花の中で、レラが踊るように腕を広げてくるりとまわる。

 赤いスカートがふわりと浮かび、形のいい白い脚が露わになった。

「そう言われると、連れてきた甲斐があるよ」

 花回廊は、小さな桃色の妖精が抱き合いながら眠るベゴニア、白い可憐な花を鈴なりにつけたランが咲き誇り、まるで貴族の屋敷の庭園だった。

「………………」

 それにしても、サエキの様子がおかしい。心ここに在らずといった感じで、俺とレラの後ろを黙って歩いている。カフェで俺とレラの話を聞かせてから、いきなり口数が減った。

 回廊をさらに進み、大温室へ。

 そこは、ワニでも潜んでいそうなとろみのある川が流れ、背丈よりも高い熱帯植物がわんさか生い茂るジャングルだった。下手したら迷うほど広いこの場所は、『巨大温室』と表現したほうが正しい。

「ぼくちょっと向こう見てくる」

 サエキはふらりと緑の中に消えた。

 足元の抹茶色の川の上に、幅広の白い木道が網目状に伸びている。覆いかぶさるようなぶ厚いシダ植物の森の中、視界は樹に遮られ、さながら緑の迷宮だ。

「サエキさんって、いつもあんな?」久しぶりにふたりきりになったレラが言った。「人畜無害で、性格も優しい人気者じゃなかったの? ……顔はまあ確かにキレイだけど」

「今日のアイツはおかしい」

「やっぱり? ……ま、理由はわからなくもないけどね」

「え。そうなのか?」と俺は驚いた。「アイツ、なんであんなに機嫌悪いんだ?」

「タキくん、わからないの? ほんとうに?」

「……俺が三回もアイツを放置しておまえを優先させたから、スネてるんだろうとは思ったけど」でも。「……それだけにしては、ちょっと様子がおかしい」

「でしょうね」

「レラ、おまえ、わかるのか?」

「さあねー」とレラは素っ気ない。「自分で考えれば? 親友なんでしょ?」

「アイツが勝手にそう言ってるだけだ」

 サエキのことは嫌いじゃない。大学で一番の、そして唯一の友達だと思う。

 でも、サエキはそうじゃない。俺と違って人懐っこく、みんなから好かれるサエキのまわりには、男女問わずいつもひとが集まる。アイツは一人ぼっちじゃない。俺は、サエキのその、広く浅く賑やかな交友関係が、どうしても好きになれなかった。

「お前が思ってるほど特別な仲じゃないって、俺たちは。……俺の友達は、レラ。お前だけさ」

「ふーん」

 唐突な声とともに、密生したバショウの緑の闇の中から、にじみ出るようにサエキが現れた。どうやら話を聞いていたらしい。

「おまえなっ。いきなり出てくるなっ。びっくりしただろうが」

 わざとらしく喚いたが、サエキは聞こえてないように無視した。そして、低い、押し殺した声で、

「……タキ。図に乗るなよ」

 その冷酷な口調に、俺もレラも驚いてサエキを見た。

「……大学でいつもおまえがひとりで寂しそうだったから、哀れに思って、ぼくが構ってやったんだ。ひとりも友達の居ない可哀そうな男に同情してね」

 サエキの美麗な瞳がすーっとすぼまる。「……友達ができたなら、もうぼくが仲良くしてやる必要はないね」

「おまえ」俺もサエキを強く見据えた。さすがに頭に来た。「……どっちが調子乗ってんだ?」

 思わずサエキの胸倉をつかんでいた。

「はなせよ」サエキはかすれた声でかったるそうに言った。

「あ? 言っとくけどな、俺はひとりで寂しいなんて思ったことは一度もねーんだよ。誤解してんなら、今この瞬間から、二度と俺に関わんな」

「ちょ、ちょっとタキくん!」レラの声が裏返る。「やめて」

 サエキは壮絶な美貌で俺を睨んだ。

 俺はサエキの小柄な身体をぐいっと引っぱり寄せた。

 俺たちは鼻と鼻をぶつけ合うくらいの至近距離で睨み合った。

 レラが必死に俺の腕にすがりつき、揺すっていた。

「やめて」その声が急速に小さくなっていく。「わたしのまえで……けっ、ケンカ……しない……で」最後は震える涙声になっていた。

 一気に頭が冷えた。両親の夫婦喧嘩で辛い思いをしたというレラは、目の前で誰かがいがみ合うのをものすごく恐れている。

 俺は、サエキを突き放し、すーーーーっと深呼吸した。

 そして、涙目のレラの頭に手をポンと置いて、なるべく優しい声を出した。

「ごめんな、レラ。怖がらせて悪かった」

 サエキは鋭く鼻を鳴らすと、くるりと背を向け、木道の上を足早に立ち去った。

 俺は呼び止めもせず、黙ってそれを見送った。

「……おいかけないの?」

 目をぐしぐしこすりながら、レラが不安そうに俺を見た。

「……さっきの聞いたろ? 同情して俺に構ってくれてたんだとよ。頼んでもねーけどな。そんなのこっちから願い下げだ」

「タキくん」とレラは俺をまっすぐに見た。「あれ、本気だと思ってるの?」

「え?」

「タキくんだってわかってるんでしょ。あのひと、あんなとこ、たぶん他のひとには見せたりしないって」

「………………」

「追いかけようよ」

「けど、おまえもさんざんネチネチやられてたじゃねえか」

「あれは」レラはなぜか真っ赤になった。「……なんというか、個人的な事情でして。わたしたちの」

 その事情とやらはともかく、レラに背中を押され、俺はサエキを探すことにした。

 木道をぎしぎしと走り、熱帯植物の分厚い緑のカーテンをかき分け、荒野の惑星のような多肉植物室を突っ切り、ウツボカズラやハエトリグサなんかを集めた食虫植物コーナーを駆けた。それから花回廊をもう一度まわったが、どこにもサエキの姿はない。

 レラは植物園を、俺は動物園を手分けして探した。

 いくら探してもサエキは見つからない。

 レラと合流し、大温室に戻ってきた。

 幾重にも緑が折り重なる深緑の迷宮。サエキの姿はなかった。

 でもその代わりに、意外すぎる人物と俺は出会った。

 密林の真ん中に佇む、吸血鬼の令嬢のような黒い姿。

 ふわりと広がるヒダヒダのスカート。レースのついた膨らんだ袖。厚化粧で真っ白な顔と血のように赤い唇。首に巻かれた黒いリボン。俺は心底驚いた。今日は水曜日でもないし、ましてやここはビルの屋上でもない。

「……ヤエ?」

 横向きに立つヤエは、緑の声を聴いているようにも、植物の精気を吸い取っているようにも見えた。

 ヤエは、夢から覚めたばかりのような顔で、ゆっくり、本当にゆっくりこっちを見た。

 それから、艶然と微笑んだ。

「えっ? ……ゴスロリ? なに?」レラは、ヤエの親しげに俺を見る視線に気づくと、「……このひと、タキくんの知り合いかなんか?」

 滑る影のように、ヤエが近づいてきた。

「あ、ああ。この子はヤエと言って」説明する俺の唇をヤエの唇が塞いだ。

 柔らかく濡れた感触に息が止まる。

 瞬時に硬直した俺の頭と背中に、ヤエの右腕と左腕がまわされた。

 ほとんど無意識に横目でレラを見た。

 レラは、これ以上開けるとアゴが外れる、というくらい口を大きく開け、俺と同じように凍り付いていた。

 ヤエがぐいぐいと唇を押し付けてくる。呼吸が止まる。脳が発火する。

 俺は、美しい女からキスされたときの本能的な動きで、目を閉じ、両腕をヤエの細い身体にそっとまわした。頭は痺れ、思考は停止していた。でも耳は音を感じていた。「なんで」とか「うそ」とか「そんな」という、レラのうめき。

 もう一度瞳をこじ開けると、そこにはもう、レラの姿はなかった。

 まるで、密林に喰われたみたいに。

 それが引き金になって俺も覚醒し、ヤエをぐっと押しのけた。

 つぷ、と艶めかしく唇が離れた。ゴクリとつばを飲みこむと、甘い液体が喉の奥に流れ落ちた。

「な、なんだいきなりっ」俺は声を絞り出した。反射的に唇を手の甲でぬぐいながら「なにしてんだおまえっ」

 ヤエのこぼれそうな黒い瞳から、つーっとひと筋の涙が流れた。

 俺は言葉を飲み込んだ。

 ヤエはタッと駆け出した。スカートが揺れ、厚底のブーツが木の床にゴツゴツ音を立てた。

 俺の頭は完全にショートしていた。でもとにかく、レラとヤエが同時に俺の前から立ち去ったのは間違いなかった。その姿はどちらももう見えない。

 どちらを追えばいい? どっちを追うべきだ? 

 アンビバレンツに縛られ、頭は混乱し、結局俺は動けず、しばらくその場に佇んでいた。

 ようやく頭が冷えると、俺は大温室を出て、広い動植物園内を彷徨って、三人を探した。

 レラも、ヤエも、そしてサエキも見つからなかった。

 やがて蛍の光が流れ、駐車場の車はすべて居なくなり、シャッターが閉ざされると、俺はあきらめて、動植物園をあとにした。

 行きはみんなでワイワイ来た。なのに、帰りはひとりぼっちだった。

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