幻の街

 大学生のころ住んでいた福海町ふくみちょうという町は、とにかく何かと不思議な場所だった。

 北はすぐ澄んだ海、南はすぐ青い山々で、町の北東に行くと、猫の耳のようにチョンと突き出た岬があり、感じのいい丘と森と畑が、素晴らしい景観を作っている。

 春にしては空気が澄んだ日。その道をバイクで駆けた。

 車のほとんど通らない、絵に描いたような田舎の丘をいくつも越える。ふいにこんもりした森の向こう、鈍く光る海との間に、四枚羽根の赤い風車が見えてくる。かつてこの町にヨーロッパの街並みを再現しようとして失敗した計画の名残だ。

 高台から海へと下っていくゆったりした二車線道路。

 ウィンカーを出し、その途中にある広い駐車場に入る。

 いつものように誰も居ない。

 おかげで時間の流れは、満開の桜からゆっくり手を放す花びらのように緩やかだった。

 見下ろす海辺の斜面には、黄緑色の森が広がっていて、その手前に、いかめしい鉄柵と立派な門扉がある。

 門を抜けると、背の高い楠の森の中に、空中木道が架けられている。

 樹冠と同じ高さから始まり、崖下に向かって斜めに降りていく木のスロープだ。

 緑の隙間からは、凪いだ紺色の海と、外国風の港町が見える。

 柔らかな木漏れ日の中、海からの微風に吹かれながらこの木道をごつごつ降りていくのは、毎度のことながら気分がいい。

 この森のトンネルを抜けた先に、テーマパークの廃墟があった。

 海運華やかなりし時代のヨーロッパの港を模し、壮絶にコケたというシロモノで、再開発のメドも立たないまま、順調に朽ちていっている。

 そこはまるで、森の奥の入江に隠された、秘密の街だった。

 巨大ウエディングケーキを真っ二つにしたような時計塔を中心に、レトロな港町の残骸が、ひっそりと佇んでいる。

 通りはすべて石畳。三角屋根の可愛い建物は、近くから見ると金をかけたハリボテという感じで安っぽいけれど、離れて全体を眺めると、時空の狭間にある幻想の街に迷い込んだような、不思議な感慨に浸れる。

 ここを設計したプランナーは、バルト海あたりのレトロな港町の再現を目指した。

 でも、リアルすぎて遊び心と面白味に欠け、さほど客足は伸びず、注ぎ込まれた膨大な予算も回収できないまま、テーマパークは閉鎖された。

 そこは、想像力に欠けた人間にとっては、退屈な異世界の残骸なのだろう。

 その逆のタイプは少ないらしく、自分以外の人間を見たことはほとんどない。

 だから、オープンカフェ風のフードコート跡地にぽつんと座り、つまらなそうな顔で本を読んでいる若い女の子を見たときは、心底驚いた。

 二十メートルほどの円形の広場には白いテーブルとイスが散らばっていて、それを間に挟んで、俺はその子を眺めた。

 春らしいピンク色のパーカーに薄い色のジーンズ、足元はパステルカラーのスニーカーと、カジュアルな服装だったが、賢そうな頭の形と、ほっそりした身体のバランスの非凡さに思わずドキッとした。緊張してしまう。

 これまで、こんな場所で女の子と出会ったらロマンチックだな、と妄想しなかったわけじゃない。でも、いざ目の前にそういうシチュエーションが用意されると、途端にどうしていいかわからなくなった。

 広場の入り口あたりでぼんやり佇んでいたら、俺の視線に気づいたのか、その子がいきなり顔を上げた。

 小作りな顔に露骨な警戒心と嫌悪が浮かぶ。誰か来たことに、あからさまに気分を害している。

 俺だって、お気に入りの場所が貸切のとき、誰かが現れたら面白くない。それはわかる。わかるけど、そうは言ってもここはずっと前から俺の特別な場所なのだ。遠慮して他へ行くのも、なんだか違う気がする。

 ということで、俺はわざわざその子のほうに歩み寄り、女の子になんて興味アリマセーン、という顔で近くの椅子に座った。そしてカバンからポプラ社の百年文庫を取り出し、無言で開いた。疑い深そうな目で俺を見ていたその子も、あっさり読書に戻った。

 さりげなく近くで見ると、ますます可愛い子だった。それも、街でもなかなか見ないような特別な感じがする子だ。こんな場所で偶然出会うのに、まさに理想の女の子だ。

 でも、この感じの悪さや愛想のなさは、相当性格が歪んでるに違いない。きっとチヤホヤされ、モテまくって、自分はカワイイって自覚しまくっているような子だろう。

 ここに居るのだって、「こんなフシギな場所に居るワタシってなんだかステキ」なんて、脳にお花が咲いた自意識のせいに決まってる。

 だから、その子なんて目にも入らない、という顔でしばらく本を読むフリをした。

 でもやっぱり気になった。認めたくはないが、可愛い子の吸引力って、意地や理性を超越したものらしい。それに、こんな場所で出会い、まったく無言ってのもどうかな、と考えてしまう。ひと気のないところに俺みたいなのが現れ、ふたりきりになったら、女の子だってコワイよな……とへんな気も遣ったりなんかして。

 意を決し、あいさつしてみることにした。なるべくサワヤカな声で、

「こんにちは」

 ……なのにその子は顔を上げすらしない。

 清々しいほどの完全無視。なんて感じの悪い女だ……。

「ねえ」と俺はそれでもめげずに「なに読んでるの?」

 その子は聞こえないかのように相変わらず無視。まるで、俺たちの間に、無色透明の板かなんかがハメられ、音が一切届かないかのようだった。

 ちちち。トクトクトクトク。

 美しい鳥の声が響いた。

 俺はその鳥たちに取り繕うように、フッと笑った。

「どうせラノベとかだろ」

「ちがうしっ」その子が初めて反応した。さも心外だ、と言わんばかりに「そういうの読まないしっ」

「お。反応した」

「…………」なにこいつ、って顔。

 俺はにっこり笑って「で?」

「関係ないでしょ」とその子は不機嫌そうに「話しかけないでもらえます?」

「おーおー。こえーこえー」

 その子はジロリと音がしそうな視線を俺にぶつけ、それからプイッとまた本に戻った。

 感心してしまうほど冷たい態度。なのに嫌な気はしない。むしろ、可愛いなー、と思ってしまった。もちろん、その子の美しさのせいもあるが、それ以上に、その子の態度や口調に、なんとなく余裕のなさを感じたからだった。

「ねえ」俺はまた声をかけた。

 その子は、億劫そうに顔を上げた。今度は無視されず、俺は少し安心した。

「なんでこんなところで本読んでるの?」

「…………」

「俺もよくここで本読むんだけどね。そんなやつ俺だけかと思ってた」

 その子は何も言わない。

「ここ、いい場所だよな」

 その子は何も言わない。

「よく来るの?」

 その子はゆっくり首を振って、つぶやいた。

「……話しかけないで、って言ったでしょ? 日本語、わからない?」

「冷たいこと言うなよ」俺は気楽な口調で返す。「せっかくこんな物語みたいな場所で出会えたのに」

 何気ないひと言だったが、その子は一瞬驚いたあと、明らかに狼狽した顔をした。

「なかなか運命的じゃないか?」と俺。

「なにが」機嫌悪そうにその子は低くうなった。

「幻想の街での出会いが」

「ばっっかじゃない。本読みすぎじゃないの」

「読みすぎってほど本は好きじゃないよ」

「こんなところまでわざわざ本読みに来てるくせに?」

「なに読むかも大事だけど、どこで読むかも大事なのさ」

「………………」

「本ってのは、持ち歩いてるときも読書の一部なんだよ」

「なにそれ。意味わかんないし」

「そういうきみは? 本、好き?」

「別に」とその子はそっけなく。

 相当感じの悪い返答だったが、さっきまでの完全無視に比べると、反応してくれるだけ格段にマシだった。

「暇つぶせるから」とその子は言葉を継ぎ足した。「お金かかんないし……」

「まあ。それが一番だな」

 俺は、バッグからコーヒーのポットを取り出し、まだ湯気の立つコーヒーをカップに注いで、ふーふーと冷まして飲んだ。その子は、芸術品のように美しい二重まぶたの瞳で、そんな俺とコーヒーを怪訝そうに見ていた。

 その視線に笑顔を向けて立ち上がる。

 この廃墟の街に、たった一台だけ奇跡のように残っている自販機で、ホットのミルクティーを買って、戻った。

 その子が俺の席のところに立っていた。きりっとしたアーモンド形の瞳は、俺が伏せた百年文庫に注がれている。テーマとなる漢字一文字にちなんだ古い名作を集めた短編集で、この『絆』には、海音寺五郎、コナンドイル、山本周五郎の作品が入ってる。

 ふと俺に気づき、こっちを見た。

「コナンドイル」その子が淡々と言った。不機嫌そうな顔に初めて苛立ち以外のものが浮かんでいた。馬鹿にしてる。「……その年でシャーロックホームズ?」

「……いいや。『五十年後』」

「五十年後?」

「コナンドイルはホームズ以外の短編にいいのがあるんだ」

 その子が固まった。コナンドイルをシャーロックホームズだけの作家と思っている人間は読書家にも意外に多い。

「知らなかった?」

 俺の言葉に、その子はなんとなく傷ついたようだった。

 ミルクティーのプルタブを起こし、自分の椅子に戻ったその子の前にコトッと置く。

 その子は虚ろな顔で缶を見た。俺はすぐ向かい側に座った。

「なあ」と俺はあらためて、「ここまで、どうやってきたの?」

「…………」

 その子は何も言わずミルクティーを見つめている。なんだか猫かなんかと話しているような気分になってきた。

「それ、どうぞ」と俺は言った。

 その子は、そっと缶を持ち上げると、おそるおそる口を付け、こくりと飲んだ。

 こくこくこく。かなりのどが渇いていたらしく、途中からは一気に飲んだ。

 飲み終わると、その子は聞こえないくらいのかすかな声で、

「……バス」と言った。

「はー。ンなもんがまだ生きてたか。でもそれ、一時間に一本もないんじゃねえの?」

「次のバス、三時間後とかだった」

「そりゃ大変だ」

「ん」

「それで、ここで本読んでたとか?」

「んー」

 てことは、バスが来るまでここでこの子と二人きりか。

 ああ、嬉しいな。と素直に思った。この愛想のかけらもないような、満足に会話もしてくれない無口な子に、俺はいつのまにか好感を持っている。


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