蒼きレラ

 再び本を開き、その子の真向かいで『五十年後』の続きを読み始めた。

 麗らかな春の日。微かに吹く風は、肌寒さを感じる直前という絶妙な心地よさ。見えるところに桜はないのに、緩やかな風に乗って、どこからか桃色の花びらが舞ってきた。

「……『ベロニカは死ぬことにした』」

 その子がいきなり言った。

 俺は顔を上げて、「は?」

「これ」と本の背表紙を見せながら「わたしが読んでる本……」

 どうやらさっきの俺の問いへの答えらしい。

「パウロ・コエーリョか」

 俺が笑いながら言うと、少しだけその子の眉から険が消えた。

「知ってるの?」

「俺も読んだよ」

「…………」無表情のまま、ふうん、という顔。

「なかなかシブいの読んでるな」と俺は笑った。「俺は『アルケミスト』のほうが好きだけどね」

「そっちはまだ読んでない」

「なんでまたベロニカそれにしたの?」

「…………」その子は少し考えてから、顔を上げずに「……タイトルが気になった」

「死ぬことにした、ってのが?」

 その子は何も答えなかった。

「俺は、死にたいなんて思ったこと、一度もないなー」

 何気なく言ったあと、強い視線を感じてその子を見ると、恐ろしいほど真剣な瞳で俺を見ていた。こんなに深みのある美しい目は初めてだ。真っ黒に輝く宝石が、俺の心の深い場所にまで光を届けている。

 死ぬことにした、か。

 俺はため息をついた。少し話をしただけで、俺は最初に持ったこの子のイメージが見当違いだったことに気づいた。確かに見た目はすごく可愛い。神秘的と言ってもいいくらいだ。でも、チヤホヤされて調子に乗って生きてるなんてことは絶対にない。

 ぶっきらぼうな話し方、そっけない態度、冷たい表情、口を開くのも面倒くさいというあからさまな倦怠感。なのに、不思議と腹が立ったり嫌な気持ちにならない。

 それは、この子がどこか不器用で、必死に見えるからだ。悲痛と言ってもいいほどの潔癖さを漂わせているからだ。

 それから俺たちはまた黙って、それぞれの本を読んだ。

「……どんな話?」

 思い出したようにその子が突然言った。

「なにが?」

「それ」俺の百年文庫を指さす。

「……ひと言で言うと、純愛恋愛小説かな」

 その子は漠然とした顔をした。シャーロックホームズの生みの親と、純愛恋愛小説というのが上手く結びつかないのだろう。

「バタフライエフェクトって知ってる?」と俺は言ってみた。「蝶の羽ばたきが、やがて嵐を起こすっていう……」

「知ってるよそのくらい」

「アレも出てくる」

「ホームズの作者が書いた、バタフライエフェクトがテーマの、純愛恋愛小説?」その子がひと息に言った。「なにそれ」

「……アオキレラも、機会があれば読んでみるといい」

 その子は、物音に驚いた水鳥のように、ガタッと立ち上がった。

「なんでっ。なまえ!?」

「……さて、なんでかな」と俺はニヤリ。

「……まさか……ストーカー……?」

「え。あ。いや違うちがうちがう。それそれそれ」

 俺は慌てて白いテーブルの上に置かれたプラスチックのカードを指さした。

 福海町のバスのICカードで、細長い猫のイラストが描かれた水色のカードに、金文字で小さく『アオキレラ』と記されている。栞にでも使っていたのだろう。

 その子は、ひったくるようにカードをつかみ取った。

「珍しい名前だな。アオキレラ」

「失礼なやつ」とその子は吐き捨てた。「勝手に名前見ないでよ」

「そう怒るなよ」逆に俺はのんびりと「いい名前じゃねーか」

「……わたし、この名前、だいきらい」レラは押し殺した声でゆっくり吐き出すように言った。「ついでに馴れ馴れしいやつもだいきらい」

 ギロリとにらまれ、俺は肩をすくめた。可愛い女の子に面と向かって「だいきらい」なんて言われてるのに、ぜんぜん悪い気がしない。むしろ、さっきまで冷たい人形のようだったレラが、感情を出していることが妙に嬉しかった。

「蒼きレラ」

「青木レラ! 青い木!」レラは小さく叫んだ。「いま、イラッとくるニュアンスで呼んだでしょ?」

「すげえな。よくわかるな」青木レラとの微妙な差異。

「……さんざんからかわれた」

「でも、俺はレラって名前好きだよ」

 そう言って笑うと、レラはさっと目をそむけた。じわーっと綺麗な顔が歪み、しかめっ面になる。あ、可愛いな、と思った。

「レラってアイヌの言葉で『風』だろ」

「…………うん」

「なあ。レラ」

「だから、気安く呼ばないで」

「俺と友達になってくれないか」

「はあ? なんで?」

「そしたら、レラって名前をたくさん呼べるだろ?」

「……なにその理由。ばっかじゃないの」とレラは呆れるが、その顔は少し赤い。

「まあまあ。いいじゃねーの」

「よくないし」

「よろしくな、蒼きレラ」

「青木だってば」と律義にツッコんでから「そんな……勝手に決めないでよ……」

 そのとき、目を上げた崖の上の木々の隙間から、高台の道を走ってくる赤いバスが小さく見えた。

「おい。アレに乗るんじゃないのか?」

「あ」レラは反射的に時計を見た。「アレだっ」慌ててテーブルに置いてあった本やら何やらをバッグに放り込む。

 タッとレラは駆け出した。俺も隣に並ぶ。

 驚いた顔のレラを無視して、そのまま一緒に走った。

 フードコートの広場を出て、石畳の道を走り、積木細工みたいなカラフルな街並みを抜け、壁のように咲き乱れる赤や白のつつじの植え込みの間を通る。

 森の中の空中木道をバタバタ駆け昇った。

 まるで、海に沈みゆく都市から決死の脱出をしているかのような勢いに、走りながら吹き出してしまった。レラはそんな俺を呆れたように横目で見た。

 ごっごっごっごっ。足元で木を踏む俺たちの足音が響く。

 レラのピンクのパーカーのフードとまとめた長い髪が踊るように跳ねる。

 俺はぐっと加速した。レラが少しずつ遅れ、ふたりの間隔が開いた。

 勢いに任せて鉄の門を押し開けると、真っ赤なバスが駐車場から走り去ろうとしていたところだった。

 俺は「まってくれー」と叫びながら手を大きく振り、バスを追いかけた。

 バスはだだっ広い駐車場を大きくまわって戻ってきてくれた。

 律儀にバス停の前に止まったバスが、ぷしゅーとドアを開いた。

 俺は、はあはあ息をつきながら半身を乗車口に突っ込み、

「すんません。乗ります」と運転手に告げた。車内に誰も居なくて少しホッとする。

 遅れてきたレラがようやく追いついた。顔を真っ赤にして、息は荒く、全身から蒸気を出しているかのようだった。ふわっと汗の匂いがした。レラは不思議なくらいいい匂いだと思った。

「ギリギリセーフだったな。蒼きレラ」

「…………それ……やめて」

 苦しそうにふくれっ面を作るレラに、俺はベージュのさらりと手触りのいい本を差し出す。

「お近づきの印に、これやるよ」にっこり笑って、ぽかんとした顔のレラに本を押し付けた。「『五十年後』、読んでみるといい」

 レラは本を受け取ると、慌てて乗車口を上った。

 ぷしゅーと音がしてドアが閉まった。

 ドアの窓の向こうで、レラは無表情ながらもどこか困惑した顔で俺を見ていた。

 バスが動き出した。レラはバスの後ろの窓からじっとこっちを見ていた。

 満開の桜の下に止めておいた俺のバイクには、青いタンクの上にも黒いシートの上にも、雪のように桜の花びらが積もっていた。フーっと吹くと、汚れのない花びらは軽やかに舞い上がり、アスファルトの上に音もなく落ちた。

 ヘルメットをかぶり、エンジンをかけ、アクセルをまわす。

 マフラーから、ばるんと重低音が吐き出された。

 バスはゆっくり遠ざかっていく。

 俺はバイクにまたがると、思い切りアクセルをまわした。後輪が道路を蹴り、ぐぐんと車体を前に押し出した。Vツインエンジンが元気に躍動し、俺の身体は柔らかな春風に乗った。目の前で、夢幻のように美しい桜の嵐が吹き上がった。俺は視界いっぱいの桜吹雪の中を加速して、一気にバスに追いついた。レラは百年文庫を抱くように持ち、車窓から俺とバイクを見つめていた。

 透き通った青空と、白い炎のような桜並木と、緑色にきらきら輝く丘の道。

 しばらくバスの後ろを走った。バスも俺のバイクも、水中に浮かんでいるような静かな浮遊感があった。レラはずっと俺を見ていた。

 やがて、道はT字路にぶつかった。青看板には右向きの矢印に『福海町市街地』、左向きの矢印に『黒髪湖くろがみこ』とある。バスは右のウィンカーを出した。俺は左のウィンカーを出した。俺はレラに向かって軽く手を振り、叫んだ。

「じゃあな! 蒼きレラ!」

 バスは右に、俺のバイクは左にそれぞれ別れた。

 最後に一瞬だけ見たレラが、

「青木だってば!」

 ……そう叫ぶのが、なぜかはっきりわかった。

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