台北 その5

「待ってましたよ。入る前に少しお話でもしましょうか?」

 慈明僧はドアノブに手をかけていたが、ふと止まると、俺に振り向いてそう言った。

頷いた俺に、若い僧侶が二つの折り畳み式のパイプ椅子を持ってきた。

横に置いてあったらしい。

慈明僧が座り、差を差し伸べたので、俺も座ることにした。

「さて、前回私に会った時にすひんのお名前を頂き忘れてしまったのだが、今教えてもらえるかな」

「すひんですか?それはなんですか?」

 たぶん、俺の名前を聞こうとしているのだろうが、その『すひん』という呼び名が気になって話を止めてしまった。

慈明僧はそのまま微笑みながら、説明してくれた。

どうやら仏教徒間では、男に対する敬称は同等のものなら、師兄(すひん)と呼ぶとのこと。

また、非仏教徒間でも、親しみを込めたい場合、師兄呼ぶことがある。

慈明僧は俺が非仏教徒であるため、そう呼んでくれたわけだ。

「あ、俺は渡辺研次郎。ナベと呼んでください」

「ナベ師兄」


「あ、いや、できれば、ナベが良いのですが……」

 さすがに俺のおじいちゃんの年齢の方から敬称付で呼ばれても困る。

俺は何とかして、ナベで呼んでくれるように頼んだ。

慈明僧は困っていたようだが、あんまりにも俺が横の若い僧侶が笑ってしまうほど真剣に頼んでいたので、あきらめて、ナベと読むことに同意してくれた。

「では、ナベよ。どうしてこの廟に戻ってきたのかね」

「あ、えっと、リンエイに言われまして」

「ほう、やはりリンエイとは会われたのですね」

「はい」

「それで、リンエイはなんと言っていたかね」

「私を助けたのが慈明僧で、私を復活させることができるのも慈明僧だって」

「そうですか、そんなことを話してくれたのか。では、リンエイは本当にいい人を見つけたようだな」

 そう慈明僧は優しく言った。

周りの空気が暖かくなる。

「慈明僧、その、リンエイは……どうやってここに?」

「そうか、そこからでしたね。ふむ」

 慈明僧は軽く顎のひげをなでると、ゆっくりと語り始めた。


「それは一か月ちょっと前のことだった。

 親交深い陽明山のあるホテルから急な葬儀があると、私は呼ばれて行った。

そこはでは、自ら命を絶ってしまったリンエイが横たわっていた。

救急車や警察も呼ばれていたが、すでに躯体が冷たくなってしまったので、救助のしようもなく、その場で、死亡が判断されていた。

日本の方には分からないだろうが、台湾では、亡くなったのが仏教徒の場合、亡くなった後の八時間に、ずっと遺体のそばで、読経し続けなければならないのだ。

ホテルの支配人曰く、リンエイの家族はみな熱心な仏教徒というので、最初の私が読み、その後に二名ほどの私の弟子が読むという順番で始めた。

 その日は特に何事も起きなかった。


 起きたのはその七日後に台北市営斎場で葬式をしたときのことだった。

葬式の後は土葬の予定であったので、場所は外で行っていた。

私がお経を読んでいると、ふと、リンエイの棺桶の頭に白い方が立っているのが見えた。

ぼやっとしか見えないが、私どもが祀っている『天上聖母』様のようだった。

ただ、その方を見えたのが私だけで、他に誰も見えていない様子だった。

私の読経が止まったのを、みなは不思議だと思ってらしいのだが、私が感嘆のあまり泣き出したのだと取る方が多く、リンエイの家族以外はリンエイの棺桶の方を向いてなかった。

 私は読経を続けながら、『天上聖母』様の様子をうかがうと、『天上聖母』様はリンエイの方を向き、何かを囁くように唇を動かしていた。

その後、私の方に向かって歩いてきて、スーッと通り抜けて消えた。

その時だった。

頭の中に、透明な声が響いたのだ。

『慈明よ、この子の身体を三十日間きれいに保管しなさい。さもすれば、夢の中で運命の人が訪れるだろう、復活できるだろう』と。

その間、私は意識を失っていたようだ。

弟子にゆすられて起きた私は、まずは土葬で埋められる予定の棺桶を取り換えた。

リンエイのものは、秘密裏に、いま、ナベが視線を向けているあの部屋に安置している」

 そう言って、慈明僧は立ち上がると、その部屋のドアを開けた。

「さぁ、ナベ」


 慈明僧と一緒に部屋に入る。

そこはおおよそ三十平方メートルもあった。

俺の住んでいるワンルーム並みの大きさである。

薄い光が俺たちが入ったことによる風で揺れていた。

寒い。鳥肌が立つほどの寒さだった。

「少し我慢なさい。この寒さでないと、リンエイがまずいのでな」

 薄い袈裟を羽織った姿の慈明僧に言われると、俺も我慢をせざるを得なかった。

視線をまっすぐ部屋の奥に向けると、そこには一つ棺が置かれていた。

どうやら蓋はされていないようだ。

「これはリンエイですか?」

「そうだ」


 近づいて見ると、棺桶の中で赤いベレー帽を被っているリンエイが静かに横だわっていた。

俺が夢やVRで見ていると同じリンエイその人だ。

白いTシャツと青いスカート、それに白い小さな布の靴。

見た目と違うのは、今は、動かずに冷たく寝ているだけだった。

「私ができるのは、三十日間、この子を綺麗に保管することだけだ。リンエイをどうやって復活させるかはあなたに掛かっているのだ」

「あ、いやでも、俺はどうすればよいですか?」

 そう厳粛に慈明僧が言うが、俺はどうすればいいのか見当がつかなかった。


その答えは慈明僧の想定外だったらしく、俺をじっと見ると、口を開いた。

「リンエイとは夢で逢っているのかな」

 少し考え、そうですと答えると、慈明僧はアドバイスとばかりに続けた。

「では、夢で聞いてみるとよいだろう。私も『天上聖母』様からは保管のことしか聞いてないのだよ」

「でも、夢でリンエイがしゃべている言葉が分からないのです」

「言葉が分からない、では、心の中で話せばよいだろう」

「いや、俺の思っていることはリンエイは分かるが、逆はないんですよ」

「ふむ、それじゃ、会話にならないじゃないか。どうやって、リンエイと会話をして、私までたどり着いたのかね?」

「それは、VR内ですね。その中なら会話が通じたんです」

「ビーアール……。それは何かな」

 初めて聞くような言葉のようで、慈明僧は一緒に部屋に入ってきた若い僧侶に聞いてみた。

横に振られた首が、この僧侶でも分からないという回答になった。

再び俺をじっと見る。

俺はVRとは何ぞやと説明しようとしたが、片や七十歳過ぎ、片や二十歳ちょっとの純な男の子。

どう考えても、VRのを理解してくれそうにない。


なんか面倒だなと考えている俺を見て、慈明僧は口を開いた。

少々あきれ気味な口調であった。

「『天上聖母』様は夢とおっしゃっていたのだが、まぁ、よい。そのVRで会話ができるのなら、その時に聞けばよかろう」

「あ、でも、それを持ってきていないんです。それは日本に有って、俺は今台湾に出張中でして」

「……。出張はいつ戻るのか?」

「明後日の水曜日です」

「そうか。ふむ。水曜日は私が言われた三十日間の期限だ。その最終日に日本に帰るというのか?」

「あ、いや、でも、そうなっちゃっていてですね」

「……」

 今度は何もしゃべらずに黙る慈明僧。

 俺は自己フォローをしようとしたが、よく考えたら、フォローできることがなかった。

せっかく三十日間リンエイを守ってくれた慈明僧からすると、なぜか、『天上聖母』様の言う、夢でリンエイと会話ができず、わけの分からないVRというもので会話をしている俺。

しかも、よりによって、リンエイと会話ができるVRヘッドセットを持ってこずに台湾に来てしまったという。

挙句の果てに三十日の期限が切れてしまう水曜日に日本に帰るとほざいていた。

うーん、無理だね。これ。

「その赤い小包はまだ持っているかね?」

 俺の思考を、慈明僧はその言葉で破った。

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