海坊主 その1
言われた通りに歩く。途中も客引きのおばさんだかおねえさんだかが現れるが、俺の手元にある海坊主のクーポンを見て、みな愛想よく通してくれた。
本当はおなかがすきすぎて、なんでもいいから買おうと思ったんだけど……。
さて、会場の奥に近づくにつれて、各店舗のテーブルの空き率が増え、半分以上が空いている状態になった。
まだ海坊主にたどり着いていないが、この計算で行くと、海坊主の店はほとんど客がいないことになる。
あの慈明僧、海坊主を紹介して来たが、本当に大丈夫なのかな?
心配をしながらも、とりあえず行ってみることにする。
奥から左に曲がり、一分ほど歩くと、海坊主の店名、海水産が書かれたのぼり旗が見えた。
そういえば、何かの名前が『海坊主』。
そして、店名が『海水産』。
それが紛らわしいだけじゃなく、『海』と『水』って……同じことじゃね?
どんな人がこういう名称を付けるのだろうか。なんだか興味が湧いてきた。
さらに、旗も面白いと思った。
普通の感触だと、『海』にまつわる色というと水、青、紺といった寒色系になる。
実際、ここまでの道柄で見かけるのぼり旗はそっち系がほとんどだった。
中には黒に白抜き文字というのもあったが、それも一軒しかなかった。
それなのに、この店はなぜか赤という暖色系を使っている。
さらに、海水産という店名の、『海』字の上方に、何やら赤いものが描かれていた。
どんだけ赤が好きなんだか。
近づくにつれ、周りの気温が上がる感じがした。
この会場は海鮮物がメインであるため、温度は低めに設定されているようで、少し肌寒かった。
それが徐々に温度が高くなった気がする。
といっても、暑いというほどではないが。
さて、海坊主の店の全貌がみえるとこまでやってきた。
他同様にいくつかの生簀とテーブルが置いてあるが、他と異なる点は、客引きが誰もいない点だった。
これじゃ、目的を持って入らないと、客が来ないんじゃないのか?
と、よそ者ながら心配になってくる。
少なくとも、今俺が見えている範囲で、この海坊主で食べている客はいなかった。
周りは少なくとも数テーブルは埋まっているというのに。
あの慈明僧が紹介してきたお店だ、少なくともまずいってことはないだろうが、こう寂しい雰囲気だと、俺まで入るのがためらってくるじゃないか。
引き返そうかどうか迷っていると、ふとのぼり旗に視線が向いた。
海坊主の文字の上方に描かれた赤い何かは赤いベレー帽だった。
赤いベレー帽というと、あの赤いベレー帽か?
そういえば、あの女が被っているものと非常に似ている。
俺はファッションセンスがない方なので、絶対に同じといえるほど帽子は詳しくはないが。
ただ、その横に立っているこの女のように、平べったいトップに柔らかく耳まで頭を包められるのは一緒だった。
「!!!」
声にならない声を上げた。赤いベレー帽の女がいた。
俺から一メートルしか離れていないところに、その女が立って、店の方を見ていた。
真横の顔は初めて見るが、真っ白な顔色に、赤く光る目、ちょこんと乗った感じの白い小柄な鼻、赤く小さい唇、赤いベレー帽に半分隠れている白い耳につけられた赤いイヤリングが、おしゃれをしている幽霊にしか見えなかった。
何度も見かけているので、声をかけようかと右手を伸ばそうとしたときに、俺はピタッと止まった。
女の目からは涙が一筋流れていた。
「うっ」
俺は女の涙は苦手なんだ。
声をかけるのを止めようかと、伸ばした手を引っ込めたら、急に女の目玉が俺を向いた。
「へぇ、いらっしゃい」
「うぉーっ!」
その瞬間に左から声がして、俺は今度は頓狂な声を上げた。
「おう、悪い悪い。急に声かけちゃって驚いたかな」
その方向を向くと、俺よりも二十センチほど背が高く、ガタイがいい男がそこに立っていた。
映画で出てくるような、オレンジ色の漁師の合羽が似合いそうな中年男であった。
ただし、髪はなく、丸坊主だった。これが海坊主の名前の由来か?
「入り口で一人で立っていたから、客かと思ったのだが、違ったか?」
「え?一人?」
俺は先ほど女が立った場所に視線を向けると、そこには何もなかった。
あれ?
もう少し後ろに振り向いても、その女の影が見当たらなかった。
どこ行った?
「おう、クーポンじゃないか」
俺が黙ってきょろきょろしていると、俺の手に持っているクーポンに目をやったらしく、男は言った。
「え、あ、そうです。ここを紹介されて」
俺はクーポンを渡すと、男はそのクーポンの裏側を確認した。
「ああ、これ、入り口の陳さんにもらったのか?」
「陳さん?名前は分からないですが、人の好さそうなおばさんでしたよ」
「そうか。まぁ、じゃ、かけてくれ。せっかくのクーポンだ、五百元頼めば追加で二百五十元サービスするよ」
そう男はクーポンを俺に戻すと、入り口近くのテーブルを指した。
言われた通りに座る俺。テーブルには何もなく、俺もどう注文すればいいのか分からなかったので、そのまま男に視線を合わせることしかできなかった。
思い出したように男は厨房の方に向かって声を張りあげる。
俺が座っているとこからだと中が見えなかった。
「おーい、シエイ、客が来たぞ」
少しして、その厨房から若い女の声が届く。
「それじゃ、パパ、先に注文だけ受けてよ。私今忙しんだけど」
「いや、どこにメニューがあるんだか分からないんだが」
「入り口の箱に入っているでしょ。それぐらい自分で取ってよ」
「おう、見えた、ありがとうな」
そう男は中と大声で掛け合いすると、俺のテーブルにメニューを持ってきてくれた。
客がいるテーブルで厨房と掛け合う、日本では出会う機会はないが、台湾では普通に行われるようだった。
少なくとも呉に連れていかれたレストランは、みなこんな感じだったのでもう慣れてしまった。
「おう、お客さんよ、台湾にずいぶん慣れているじゃないか、ひょっとして台湾人か?華橋だと思ったんだけど」
俺が全く動じていないのを見て、男はそう言った。
「いや、俺は日本人ですよ」
「お!それにしてもどこでその台湾語を学んだんだ?思い切り俺と変わらない発音じゃないか」
「え?台湾語?」
「そう、俺が今話しているのは台湾語だよ。お前さんが話しているのも台湾語じゃないのか?」
そういわれたが、俺はただでさえ中国語はいくつかしか知らないのに、急に台湾語という新しい言語がと言われても、何の意味だかよく分らない。
そういえば、最初から男と会話が成り立っているから、何かがおかしいのかも。
首を傾げる俺を見て、男は面倒くさくなったのか。
「まぁ、いいや、とりあえず、これがメニューだ、見てくれ。さっき言った様に五百元以上の注文で七百五十元分のものを出すよ」
「分った」
俺も深く考えるのを止めて、とりあえず注文することにした。
もうおなかがすきすぎて困っているからだ。
メニューには、魚、蟹、海老、そのほかとコーナーが分かれていて、魚ならその名前と金額が書いてあった。
どうやら素材を選び、その後に料理の仕方を指定出来るようだ。
とはいえ、俺もこういうところは初めてなので、生簀を見てもどれがおいしいのかが分るわけもない。
さらに、よく考えると、ナイトマーケットの入り口で呉達と別れて、すでに四十分立っているが、手元にある二千五百元はまったくの手つかずだった。
ただでさえ、クーポンがあるので、五百元の出費で二百五十元サービスと言われても、そんだけ食べた後で、さらに二千元分の何かを食べるのは厳しいかも。
そう俺は考えると、もうここで、二千元分を使い切ることにした。
なので、予算だけ伝えて、後はお任せにしようと、男に声をかけた。
「あのー、何を注文して良いのかが分らなくて。なので、予算だけ伝えるので、そっちで適当に注文出すことは出来ますか?」
男にとって珍しくないことだったらしく、にっこりとした。
「いいよもちろん。予算っていくらなのか?三百元とかか?」
「あ、いや、二千元です」
「ん?二千元?」
「そうです。二千元です」
そう俺が伝えると、当惑の眉をひそめながら男は言った。
「お客さんよ。二千元も出して、このナイトマーケットで海鮮を食べるやつなんて聞いたことないよ。来る先間違えてないか?」
「あ、やっぱり無茶だったですかね?いや、実はですね」
流石に料理する立場の人から胡散臭いと思われるのも困るので、素直にゲームのことを伝えることした。
ただ、小包のことは伏せて、単にボーナスが出来たからという理由にした。
「そうか、一人あたり二千五百元を食い物で使い切るのか。それで、どれぐらいナイトマーケットで贅沢ができるかを競い合うゲームか。そういう客は初めてだよ。よし、ちょっと待ってろよ。今考えてみるからよ」
ふむふむと頷き、男はちょっと考えている振りをしたが、すぐに両手の平を上に向けて肩をすくめた。
「悪い、よく考えたら俺は数学が苦手でな、とりあえず高級物を出せば良いとは思うが、二千元以内に収められるかはわからん。ちょっと待ってくれ、娘を呼んでくる」
そういって、男は奥に向かって再度声を張り上げた。
「おーい、ちょっと注文の質問があるのだが、来てくれ」
「しょうがないわね、はーい」
そう言って、厨房から出てきたのは、赤いベレー帽を被った女だった。
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