ホテル その6
正確にはグレースという子と目が合った。
表からは見えなかったが、この店は入り口から見て、逆T字の形をしているようで、カウンター有るのがT字の棒部分、その平行棒に十脚近くの四角テーブルが置かれている。
うち、客のほとんどがカウンターから見て右の方に座っているのに対して、呉カップルは逆の方に座っていた。
四人掛けテーブルなのに、入り口を面として、横一列に二人とも座っていた。
ちょうど呉が下を向いて、メモ帳に何か書いていて、それを呉の右に座っているグレースが俺に気づいたことになる。
グレースに軽くお辞儀するように頭を下げ、振り向き、二人が見えないところで席を探そうと表の方を見るが、そっちにはテーブルがなかった。
うーん、困った。あの呉カップルの邪魔になりたくないし、かといって、あのカップルの座り方だと、この店の全テーブルが視野に入っているくるので、俺一人で食べていても、バレて、お互いに気まずい。
しょうがない。テイクアウトにするか。
『あのー』
『はい、なんでしょ。』
俺は新しいコーヒーを淹れている店員に声をかけ、手元のものを持ち帰り用にパッケージしてもらおうとした。
「あっ!ナベじゃん」
後ろで軽い男の声がした。
思わず笑ってしまった。
いや、呉よ。
こういう時はしれっと見ない振りをしてくれよ。
折角こっちが気を利かせてテイクアウトにしてるのに……。
声がかかられると、俺も対応せざるを得ないだろうよ。
そう苦笑しながら、俺は後ろを向いた。
呉が座っているテーブルで手を振っているのが見えた。
横のグレースも同じだった。
二人ともにっこり顔だった。
うーん、この状況でその笑顔はなんか引っかかった。
さっきホテルで会った時には二人して気まずそうな顔をしていたのが、なぜこうも変わったのだろうか。
俺は気になるが、見つかったものはしょうがない。
店員に依頼をキャンセルし、朝食を持って、そのテーブルに向かった。
呉の目の前に座ると、呉はグレースを紹介してきた。
「ナベ、紹介するよ。この子はグレースっていってね、ほら、昨日ナイトマーケットで写真を送ったでしょ。その子なんだ」
「おはようございます」
グレースは朝見かけたときには黒い髪をさっとストレートに流していたのを、今は朝食を食べるためなのか、後ろで一つに結んでいて、大人らしさが感じられた。
って、あれ、今の発音?
「おはようございます。って日本語の発音良いですね」
「本当ですか?ありがとうございます」
台湾に来て分かったのだが、台湾で日本語を勉強している人は多い。
おじいちゃん世代が日本語教育を受けていたからその影響もあったりする。
だから、多少の挨拶程度なら今までも何人かは日本語で応えてくれる。
だが、それでも、外国人発音なのだ。
たとえば、俺がTOEIC八百点を会社の要求で取っているが、外国人と話すときにはやはり日本人訛りが強く出てくる。
そんな感じで、みな日本語で話しかけてきても、外国人なんだなって明確に違いが分ってしまう。
でも、このグレースは日本人らしい発音であった。
珍しい。
「うん、グレースね、一年前から日本で留学していたんだって。来月からは埼玉国際大学へ入学するんだって」
「お、埼玉国際大学、川越じゃん」
「そうなんです。今私、川越に住んでまして」
頷くグレースに驚く俺。
この子、日本に住んでいるじゃん。
まさか、佐野はナンパした時に、そこまで知って、呉と組み合わせたのか?
後で聞かないと。
「だからこんなに日本語上手なんですね」
「いえいえ、とんでもないです。上には上がいますので」
「でも、すごいでしょ。一年でここまで日本語上手くなるなんて、普通じゃ考えられないよ」
グレースは謙遜している為だろうが、それにしても、上には上がいるって、日本人でも使わないんだけど……。
なんかすごいな。
というか、何故か呉が自慢そうに説明してきたんだ。
ひょっとして彼女候補から彼女になったのか?
俺が少し考え込んでいると、呉はグレースに俺を紹介し始めた。
「で、こっちが同じ会社の同僚、渡辺。名前はナベって呼んでいいと思うよ。ね?」
何故か俺に呼び名の同意を求める呉。
この状況だと俺もノーと言えないだろう。
まぁ、言わないけどさ。
「もちろんだよ」
「はい、ナベさん、はじめまして、リーイーファンです。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いしますって、グレースという名前じゃなかったの?」
呉に向かって聞いてみた。
「ああ、グレースはニックネームで、イーファンは本名だよ」
「あ、そうです。でも、グレースと呼んで下さいね」
にっこりと何でもないかのように言う呉とグレース。
そういうものなのか。
日本人にはなじみが薄いニックネームだったのね。
そのまま二人で話が続く。
俺はというと、ようやく会話に一呼吸出来そうだったので、コーヒーに一口付けた。
うん、確かに苦くなく、俺でも普通に飲めそうだ。
テーブルの上を見ていると、呉は大きなプラスチックカップに少し乳白色の飲みものが残っているだけで、食べ物はなかった。
グレースは中ぐらいの紙カップに、サンドイッチが半切れ残っている状態だ。
もうそろそろ食べ終える感じなのかな。
俺は目の前の肉なんとかが入っているサンドイッチに手を付けようか迷った。
ちらっと視線をあげて、二人の様子を窺うと、呉と目が合った。
「あ、ごめんごめん、二人で盛り上がっちゃった」
呉ははじけるような笑顔を見せながら、謝っているのか惚気ているのか分らない台詞を言った。
思わず俺も微笑んだ。
これはきっと正式にカップルになったのかもな。
「いやいや、二人が仲良いなって思っただけだよ。でも、朝からカップルに当てられるとちょっときっついかもな」
「おお、ナベ、分っちゃったの。そうなんだよ。グレースは良い子だし、東京に住んでいるし……。付き合うことにしたんだ」
なはははと、笑いながら鎌をかけたら本当だった。
ってか、川越は埼玉だ。
「お、おおお、っていつ!?」
「さっき」
「さっき!?ホテルの中で?」
「違うよ。ホテルからここに来る途中だよ」
そう言われて、俺はホテルからこの店への道のりを思い浮かべた。
俺達は安いホテルに泊まっているため、周りはすごくきれいとは言いがたい。
え?
「いやいや、呉さん。あのホテルからここまでって、どこにもロマンティックな場所無くない?」
「いや、違うんだよ。その間にね、グレースから回答が有ったんだ」
「回答って、付き合っても良いってこと?」
「あはは、そう」
照れて思わず呉に身体を預けたグレースに、さっと右手で腰を抱え込むように固定する呉は、同じように照れ笑いをした。
いやー、これは独り身のゲームオタクには目の毒だわ。
少しして、俺が引きつった笑いをしているのが見えたのか、呉が申し訳そうに話しかけてきた。
「本当はね、昨日ナベ達にも紹介しようと思っていたんだよ。ほら、グレースもゲームをするので、ゲームオタクのナベにも合う子はいると思うし。ね、グレース」
「そうなんです、私も三国志大好きなのです。前の日本語学校にいた友達にも三国志好きな女の子いるのですよ」
「あ、ありがとう。ゲーム好きな女の子か。それも有りかな」
苦笑しながら話を合わせるためにそう答えると同時に、俺の右側からパリンッという音がした。
びくっとして思わず身体を左に寄せる。目の前の呉を見ると、目を細めてその方向を見ていた。
誰も座っていないのに、横のテーブル上のガラスコップは目立つように、ひびが入っていた。
ついでにそこから熱い空気が流れてくる気がした。
なんとなく、先ほど言った台詞をはっきりと取り消さないといけない気がする。
「と思ったけど、しばらくは独りで大丈夫だよ。ほら、まだ前のやつが残っているし」
その前のやつというのは、この前こっぴどく振られた件を指すことを呉は気づいた。
申し訳ないという顔を出したが、俺は片手をひらひらして言った。
「いいよいいよ。呉さん、気にしなくても。でも、欲しかったらその時にはお願いすると思うよ」
「そうだね。それじゃ、俺達は先にホテルに戻るけど、ナベはゆっくりしててね」
そう言って、グレースに声かけて、呉は立ち上がった。
グレースにも手を振って、二人が店から離れるのを待つ。
その後、先ほどコップが割れたテーブルに視線をやるが、誰もいる気配がしなかった。
感じていた暑さもなく、エアコンから冷たい風が届いているだけだった。
時計を見ると、すでに8時半近くを指していた。
これは早く食べ終えないと。
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