ホテル その5
「うぁぁ!」
「なんだなんだ」
「ちょ、ナベ、大丈夫か?」
叫びながら思わず腰を浮かべて俺は自分の体を見た。
着ていたTシャツは胸のあたりが濡れていた。
どこからだ?俺のほかに佐野も鈴木も周りを見回しているが、遠くに店員がテーブルの片づけをしている以外誰もいない。
「誰もいない……。ナベ、はい、ナプキン」
「あ、俺、ちょっとタオルもらってくる」
「ああ、二人ともありがとう。」
鈴木がテーブルにあったナプキンをわしとつかみ、俺に渡す。
佐野は席を立ち、店員を呼びに行った。
「ナベ、大丈夫か?」
「うーん、俺は大丈夫なんだけど、どっからこの水が飛んできたんだ?」
「いや、俺もわからん。相変わらずこのビュッフェに客が来ないし、あの店員は遠いとこにいるから、彼じゃなさそうだし」
そう良いながら、鈴木はある一点を指して俺に言った。
「あ、あれ、あの紙コップは?」
その方向を見ると、俺が座っている席の真っ正面に有るテーブルの床下であった。
そこには、紙コップが一つ落ちていた。
もっとじっと見ると、紙コップの口の周りに水たまりが小さく出来ているのが分った。
「あれかも」
頷く俺に、不思議そうな顔で鈴木は続けた。
「でも、ナベさ。あそこからどうやってナベまでその水が飛んで来ちゃうんだ?」
二人で顔を見合わせる。
が、お互いに答えを持っていなかったので、推測するしかなかった。
「さぁ、地震とかで落としちゃったときに跳ねちゃったとか?」
「うーん、でも、ナベに掛っている量がそんなにないから、その可能性はあるけど」
合っているかどうか分らないが、腕を組みながらしきりに唸っている鈴木の前で、俺はそろそろ考えるのが面倒になってきた。
なので、佐野がタオルを持ってきたタイミングで、部屋に戻ることを言った。
テーブル上ですでに佐野と鈴木が朝食を終えていたのが分かったので、俺が着替えてから戻ってくるまで、二人とも待ってもらうのも申し訳ないので、この提案である。
「俺、一度着替えてくるよ。だから、二人とも気にせずに戻っていいよ」
「そう?ナベがそう言うのなら良いけど」
「あれ、鈴木、何か分ったの?」
「いや、多分、あの紙コップがテーブルから落ちた拍子で水が跳ねて、ナベに掛っちゃったのだと、ナベと俺は思っている」
そう鈴木が説明し、指を先ほどの紙コップに向けた。
佐野がそれを見て、疑惑の顔をした。ただ、俺が気にしていない顔をしているのを見て、まぁ、いいっかと思ったらしく、肩をすくめて同意した。
「そう。それじゃ、九時にロビーで」
そう二人と別れて、俺は部屋に戻った。
そのままシャワーを浴びると、トランクの上に折りたたまれていたYシャツを着る。
時間は八時を指していた。
うーん、ビュッフェに戻るのも有りだし、折角着替えたので外に行くのも有りだな。
まぁ、外かな。そう考えたら、財布を持って部屋を出た。
ロビーでホテルの店員に近くの朝食屋の場所を聞くと、出て右に歩いて三分に一軒あるので、そこに向かう。
外は快晴だった。台湾は九月でも最高三十度は超える天気が続く。
そのため、こういう日の朝は二十八度近くだったりする。
朝食屋の場所が近くで良かった。
朝食屋はカフェだった。
珈琲色のカウンターが道路に突き出すように設置され、いくつかのガラス瓶が置かれているのが見える。
値札っぽいのがその前に貼り付けられているので、中身はコーヒー豆なんだろうな。
でも、洋食風の朝食なら、ホテルのビュッフェと同じなので、少し迷う。
が、あえてコーヒー豆が入ったガラス瓶を表に出すってことは、こっちの方がコーヒーに拘りを持ってそうだな。
よし、決めた。
ここなら苦くないコーヒーが飲めるかも。
実は、俺はコーヒーをあんまり飲まない。
苦い味が好きじゃないんだ。
ただ、例外はある。
川越に住んでいることもあり、よく相談に乗ってくれる斉藤さんと会うときは、川越に有るその斉藤さんのお姉さんが経営しているカフェになることがほとんどだ。
そこなら、コーヒー豆を選んで淹れてくれるので、俺はいつも苦くないコーヒーにしている。
斉藤さん曰く、アフリカの豆は基本的には苦みが少ないということなので、
それだ。
ケニア、キリンマンジャロやエチオピアとかだ。
コーヒー豆を重視するカフェであれば、これらの中の少なくとも一種類は、提供されるはずと聞いた。
だから、ここも有ればと思った。
店頭に付くと、カウンターには何人かが並んでコーヒーが出来るのを待っていた。
ちょうどレジに客がいない。
良いね。これなら、ゆっくりと聞ける。
そう思い、レジに立つと、メニューを渡された。
英語だった。
「え?」
思わず目の前の男性店員を見る。台湾に旅行に来て、ホテル以外で英語のメニューを最初から渡されるのは初めてかも。
その視線に気づいた、ボウズ頭で背が低い店員は人懐こい笑顔を見せて、話しかけてきた。英語でだ。
『日本人ですよね?』
『は、はい』
『うちは日本人のお客さんが結構来るんだ。だから、それように英語を用意したわけさ』
『そうなんだ』
まるで俺の心を読んでいるがごとくに回答する店員。
それは良いんだが、日本人の客が多いなら日本語にすればいいのに……。
メニューには十種類ほどの豆の紹介がされていた。
が、俺にはよく分らないから直接聞くことにした。
『すみません。アフリカ系の豆ってないの?』
『アフリカ?キリマンジャロなら有ります。でも、地域指定は珍しいですね』
『そう?』
『そうそう、普通は直接キリマンジャロとかでもらいますよ。何故ですか?』
『あ、いや、俺は苦めのが嫌いなんだ』
『ああ、だから、比較的苦くないアフリカ系というわけですね。なら、こちらはどうですか?』
店員が出したのは、表面に『阿里山珈琲』と書かれた物だ。
『これ、台湾のオリジナルコーヒー豆なのですが、スイーツのような甘みが広がる特徴を持ってます。苦みも少ないですし、いかがですか?』
『へぇ、台湾でもコーヒー作ってるんだ。でも、苦みが少ないってどれぐらい?』
『そうですね、少なくとも、キリマンジャロよりは苦くはないですよ』
『お、なら、それ一杯で』
『ありがとうございます。朝食に来たのですよね。では、これのセットはいかがですか?それと、こちらで召し上がりますか?』
俺が頷くのを見て、店員は素早く肉なんとかというサンドイッチを紹介してきた。
おいしそうに見えたので、それを注文することにした。
百五十元を払い、物が出てくるのを待つ。
店員は厨房に何か伝えると、カウンターの下から豆を取り出し、挽き始めた。
その後、それとコーヒーの器具に設置すると、よこのポットからお湯を垂らし始めた。
そういえば、斉藤さんにも一度やり方を教わったが、あれが、いわゆるハンドドリップってものか。
台湾で見かけるのも珍しい物だ。
数分待って、コーヒーができあがるのと同時に、厨房から俺のサンドイッチが出てきた。
早いな。受け取り、俺は店内に席を探すために視線を飛ばす。
呉カップルと目が合ってしまった。
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