海坊主 その3
目の前には三人がいるのが見えた。
男と赤いベレー帽を被ったシエイと赤いベレー帽の女の三人。
男とシエイが俺の前に立ち、俺の顔を覗き込むように見ているに対し、赤いベレー帽の女は厨房への入り口に立って、俺たち三人を見ていた。
いや、違う、あの視線に俺は入ってない。
なぜか俺にはわかった。
あの視線は俺を見ていない。
男とシエイを見ているようだ。
それに、まただ。
また涙を流していた。
どういうことだ?赤い目からは涙が二すじ、小さな唇を通って顎の方へ消えているのが見えた。
せっかくの美人顔、もったいないじゃないか。
そう声を発しようとすると、
「あ”~」
というすごいガラガラ声しかでてないのに気づいた。
思わず視線を下に向け、右手を喉にやってさすってみる。
痛みがまだ残っていた。
ただ、もう少しはっきりとした声が出せそうだ。
おなかに力を入れて、再度声をかけようと視線を戻すと、女は消えていた。
「あっ」
「ねぇ、あなた大丈夫?見えている?」
目の前に何かが上下に動いていた。
まだ、ぼやけているようだ。
おかしい。さっきはあんなに明確に見えたのに。
視点を定めると、細い白い腕だった。
そのまま腕の付け根に視線を向けると、そこにはシエイが少し肩を上げて腕を振っていた。
「あ、こっち向いたわ。ねぇ、さっきは本当にごめんなさい。ほら、パパも謝ってよ」
「お、おう。さっきは悪かったよ。本当」
男は立っている位置から地面に頭がつくんじゃないかというほど、体を折って俺に頭を下げていた。
とりあえず、他人にお詫びの姿勢をさせるのは嫌いな俺は、その肩に触れ、立つように依頼した。
周りの店から同じような合羽を着たの男達が、近づこうとしているのが見えたので、そっちにも大丈夫という合図を出した。
人差し指と親指を丸くし、残りの三本指を立てる『OK』のような合図は世界共通のようだ。
「ああ、えっと、とりあえず、説明して欲しいのですが」
近くの椅子を引っ張って座ると、男の説明を待つことにした。
さすがにいきなり暴力を振られて、温厚な俺でも我慢する気はない。
が、ここは日本でなく外国である台湾だ。
しかもその加害者は百九十センチはあるだろう、ガタイがよく腕なんて俺のふとももほどある。
対して、俺は百七十五センチでひょろひょろな男だ。
学生時代からの部活動が文学系だった俺は、基本、喧嘩とは無関係の世界にいて、こういう時にどういう怒り方をすべきか分からない。
漫画をまねて怒りを表現してもいいが、向こうが本気でキレて、喧嘩になった場合、百二十%で俺の負けだ。
どう考えても勝てそうにない。
それならば、恩を売りながら話を進めていけばよい。
それに……。
思い出すと、先ほどの赤いベレー帽の女が涙を流していたのも気になる。
のぼり旗内に描かれているマークもそうだし、シエイが被っている赤いベレー帽もそうだが、その女と似すぎてすごく気になる。
何かしら関係はある筈だ。
俺が座るのを見て、シエイは近くの冷蔵庫からウーロン茶を持って、コップに注いだ。
途中、あっと声を上げると、近くのお茶ポットに変えて、違うコップにそれを注いだ。
湯気が立っていることで、温かいものだとわかる。
「ごめんなさい。日本人って台湾のウーロン茶、甘く感じるんでしょう。こっちなら糖分が入っていない温かいウーロン茶なので、きっと飲めると思うわ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
そうシエイは俺ににっこりとすると、横の男に顔を向け、怒った顔で大声を出した。
「ほら、パパ、いつも言っているでしょ。まずは聞きなさいって。この方が人が良いからまだ良かったものの。これで怪我をして、訴えられたらどうするのよ」
びくっとして、男は申し訳なさそうに頭に片手をやり、ぺこぺこしながら俺の座っているテーブルの向こう側に腰かけた。
怪我をしていないと勝手に判断されたが、目の前の男の顔を見たら、しょうがないかなって気がしてきた。
「いやな、お前さんがな、シエイに似た赤いベレー帽を被った女を見かけたと言っていたから、ちょっと興奮してな」
「はぁー」
「もっと話を聞きたいと思って、手が出ちゃったわけよ」
「あれが聞きたかった態度なんだ」
「いや、本当に申し訳ない」
テーブルに頭をつけて、説明が説明になっていない言い訳をしている男の横で、神妙な顔をしたシエイは口をはさんだ。
「そうそう、私も聞きたかったわ。この帽子は一般販売されているわけじゃないのに・・・・・・。どこで見かけたの?」
そう聞かれて、俺は視線をシエイの赤いベレー帽に向けた。
「夕方前に陽明山の近くを通った時に、交差点でその帽子を被った子を見かけたのだけどね。その後、ナイトマーケットの近くでも見かけたし、さっきもそこで見かけたんだけど」
そういって、俺は入り口で、最初に赤いベレー帽の女が立っていた位置を指した。
それを聞いて、男はシエイと目を合わせると、そのまま動きが止まった。
少しして、男はかすれた声を出した。
「ひょっとして、リンエイか?いつもあそこで立って、客引きしてたじゃないか」
「でも、私たちはちゃんとお姉ちゃんを見送ったよ。葬式も終わったんでしょう」
涙ぐんだ声でシエイが話すと、男は力尽いたように頭をガクッと落とすと、深い溜息をついた。
「そうだよな。いつもあそこに急に表れないかなって思ったりするんだが」
「……」
そのまま二人して視線を机の上に落とすと、口を閉じた。
その空気のせいで、周りの雑踏が遠くに感じ、俺は居た堪れなくなってきた。
ただでさえ、この店の周辺は会場の入り口から遠く、繁盛しているように思えないのに、こうも雰囲気が暗いと、陰気な気分になってしまう。
こういうのが嫌いなので、何か話題がないかと、そのリンエイはだれなのかを聞いた。
最初は言おうとしなかったが男だったが、俺が首を掴まれて実は痛いということをいい、納得しにくいってことを伝えると、男は観念したように話し始めた。
「リンエイというのは、俺の上の娘なんだ。その赤いベレー帽はリンエイが大好きな帽子なんだ。ここで働いているときはいつも被っていた。だから、ほら、あそこののぼり旗にもその赤いベレー帽が書かれているだろう」
「はい、それは気づきました」
「そうか。それでな、リンエイは本当は今日が結婚式だったんだ。なのに、一か月前に命を絶ってしまったんだ」
「絶ったって……。ひょっとして、結婚を約束した男性に裏切られて命を絶ってしまったとか?」
夕方に、警察署で李警官が言っていたことを思い出し、口に出してしまった。
それを聞いた、片眼に涙を浮かべている男は、口をあけたまま動きが止まった。
「なんで知ってるの?」
代わりに声を出したのはシエイであった。
顔を見ると、こっちは目を大きく開けて驚いていた。
「あ、いや、なんかね、実は陽明山で小包を拾ったんだけど、その中にお守りと百万元が入っていて。そのお守りの中のお札に書いてあったんだ」
「それはなんて書いてあるのか?」
テーブルを強くたたき、男は俺の方に身体を乗り出して言った。
「いや、それだけ」
「え?それだけなのか?」
男の力で、テーブルがぐらぐらしていたので、コップが倒れないよう俺が押さえたのをみて、悪い悪いと、男は姿勢を戻した。
「そう、それだけしか書いて無かったよ」
あからさまに残念そうな顔をしながら、男は座りなおした。
「でも、パパ、百万元だって」
「うむ、百万元か」
「百万元がどうしたんですか?」
二人の目配せが気になり、俺は気になって聞いてしまった。
しばらくして、男は口を開いた。話を続けてくれるらしい。
「その百万元はな、男方への結婚納金として、リンエイが自分で高校生の時から貯めたものなんだ。実はな、リンエイと結婚する予定の男は日本人だったんだ。二十五歳でな、日本の大企業に勤めている。一年ぐらい前にこのナイトマーケットに来た時に、リンエイに一目ぼれして、そこから、毎月のように台湾に旅行しにきては、ここに通っていたんだ」
そこで話を止めると、男は俺を一度じろりとにらむと、再び話した。
「お前さんは良い人だろうが、俺はよう、日本人というのが大っ嫌いだったんだ。昔の戦争の時に親父からいろいろと聞いていたからな。だがな、リンエイはそんなの気にしてなかったんだ。そのうち、男の誘いに応じて遊びに出かけるようになった。ただ、当時は俺もリンエイの母もシエイもみんな、その男との付き合いに反対していたんだ」
そこまで聞いて、俺の顔を見てから、男はつづけた。
「なぜって顔してるだろう。それはな、男がリンエイに一目ぼれしたって言っていたけどさ、その男の家族のことは何も話さなかったんだ。台湾人は家族間の付き合いを大事にする民族なんだ。俺たちが相手の親のことを知らずに、娘をやれるかってんだ。かといって、俺がその両親のことをしつこく聞くのも失礼なので、最初の数回だけ聞いてあとはリンエイに任せたんだ。でも、何も話さなかったって言ってたな。五か月前かな、ちょうど台湾は梅の花の季節だったんだ。リンエイがプロポーズされたと、えっらい笑顔で店に飛び込んで来たんだ。それで、日本に行くことを決意したんだ。俺たちはまたもや反対の立場だったけど、リンエイはもういい大人だ。大学卒業後は自立してもらわなきゃいけないから、あんまり俺も強く言えなくてよ。最低でも、先に向こうの日本の生活を見ておきというアドバイスしかできなかった。その次の月かな。男が先に日本での生活環境を整えるといって、リンエイから百万元を結婚の納金としてもらっていった。でも、整えるのは結婚式までかかりそうだってんで、結局日本に行けてなかったな。それで、なんやかんやで、結婚準備が忙しくなった二か月前かな。その前から一か月ほどうちに来なくなっていたのだけど、リンエイが自分で準備を続けていたわけよ。そんなある日、うちのシエイが台湾の東にある太魯閣峡谷へ彼氏と行ったんだ」
「そこで私が見ちゃったのよ。その男と別の女とが仲良く腕を組んで観光していたのを」
「シエイがそれを写真に撮ってきてな、浮気なんじゃないかと。そりゃそうだ。結婚式準備を放り投げて、自分は別の女とデートか。なぜわかるかって?あの男が立ち寄っていたのは、太魯閣峡谷でも有名な一泊二日のデートコースの一部なんだ。だがよ、リンエイがそれはマリッジブルーだから気にするなと言い出した。本人が気にしないのならこっちとしてもしょうがない。が、それから二週間ぐらいかな、その写真の女がうちに来たんだ。俺らもびっくりよ。第二号が第一号に直談判かよってね」
「はぁ?一号って?」
あんまりにも意味わからない言葉が出てきて、俺は思わず言葉に出した。
「おう、第一号ってのは本妻、第二号は愛人のことだよ。うちのリンエイがその男の妻になるんだから、その女は愛人ってことになるだろう。ただな、そうはならなかっただ。その男はその女とも結婚の約束をしていたらしく、女の家族が探偵を雇って調査して、うちにたどり着いたんだ。しかもよ、その探偵がすごくてな、その男の日本の家族のことも調べ上げたんだ」
「え?男に日本の家族?」
「そうよ。日本では結婚して四歳の子供が一人いたんだ。しかも、その妻は二十歳で妊娠中」
「二十歳で四歳の子供って……」
俺だそれだけ言って黙っていると、男は続けた。
「そうよ、男が今は二十五歳だから、二十歳の時に十五歳の中学生とデキちゃったわけよ。そのまま生んだらしい。で、男が日本では大企業に勤めているってのは本当だが、実際はいろいろと借金を抱えていて、その返済に、台湾の女を捕まえては、結婚詐欺をやっていたってことだ。なぜ台湾か?それは奴が勤めている会社の支社が台北にあるからよ。で、その詐欺だが、俺が後で聞いた話だが、うちのリンエイを含めて、三人が結婚の納金を渡しちゃっている。それで、娘が男に追究したのだが、大喧嘩に発生し、失意の向こうに、娘が命を絶ってしまったというわけだ。え?場所?場所は陽明山だ。いつも家族で行っている温泉ホテルだったんだ。だからホテルの管理人は娘一人でも、部屋を貸してくれた。ただ、その日、その部屋で手首を切ってさ。ちょうど深夜で誰もが寝ているときだったから、翌朝にホテルの人が見つけた時にはもう間に合わなかったって。それから、今に至るってことだ」
「そうだったんですね」
重い。
命を絶つって、やはり重い話になるんだ。
向こうが黙ったこともあり、気まずくなった。
やはり聞くもんじゃないな、これ。
ちょうどスマホが震えた。先ほど男の話を聞きながら、スマホで鈴木に依頼したものが届いた。
画面でそれを表示すると、二人に見せた。
「これが、俺が、今日夕方前に、陽明山で拾った小包なんですが、見覚えってありますか?」
身を乗り出し、男とシエイはそれをじっと見た。
「……。いや、俺がリンエイの棺桶に入れたのは、普通の白い小さなバッグだったぞ」
「そうね、姉は赤い帽子は好きだけど、バッグは白いのが好きだったの。そういうのは持ってないわ」
「そうですか」
ということは、この二人が話しているリンエイという女性の事件と、俺が拾った小包に書かれている事件は別のものかも。
その赤いベレー帽の女も単にシエイと顔つきが似ているだけかもな。
そういえば、この前、鈴木の彼女が通っている大学の文化祭に行った時もそうだったな。
女の子がみな同じ顔をしていたんだ。そうか、別だったのか。
俺はそう納得すると、これは別の事件かもねと言って、話を終わらせようとした。
席を立とうとすると、シエイに肩を押さえられた。
「いやいや、ダメよ。姉に関しては別の事件で関係性がないかもだけど、うちのパパがしたことのお詫びがまだだわ」
「え?お詫び」
「おう、このまま帰られたら、俺の気が済まないぜ。いいか。二千元分の料理を出してやるから待ってろよ。お詫びとして無料で提供してやるよ」
そういって、男は席を立って、厨房に向かった。
そういえば、俺はここで海鮮を食べに来たんだ。
思い切り忘れてしまった。が、無料にされても困る。
ここでおなか一杯になると、あと二千五百元をどこで使えばいいのかが分からなくなる。
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