25.マルカ

「下ろしてっ! 離してよっ!」


「なりません……!」


 びゅうびゅうと風を切る音が耳を打った。

 夜空に浮かぶ雲が間近に迫ってくる。

 マルカはアースベルトの肩に担がれたまま高度はぐんぐんと高くなり、月の明かりに触れた彼はまるで天使のように美しいが、今はそれどころではない。

 彼が少しでもバランスを崩せば落ちそうな最中でも、マルカはもがく事を止めはしなかった。


「戻ってよ! ハインスさんが倒れたままじゃない! どうしてあんなことしたの? 彼に何したの!」


「回復魔法は、かけておきました。時期に目は覚めるはずです」


「でもっ…!」


 回復魔法をかければそれで済むと思っているのだろうか、この悪魔は。説明にもならない彼の言葉に、胸のつっかえは収まらなかった。ぽかぽかぽかと、情けの無い音しかならないほどの力で空を飛ぶアースベルトの背中を殴った。この羽根が取れれば下りれると、単純にそう考えたのだ。落ちる事は考えていない。


「あのまま、貴女をあそこに置いておけば、彼らは、あの館の人間は、間違いなく死ぬことになりますよ!」


 ダメージがあったのかどうかは分からないが、暴れまくる私に手を焼いて、アースベルトがとうとうそう言い放ったのは、もう館を大分遠く過ぎてからの事だった。

 冷水を浴びせるような悪魔の言葉に冷たい空気が肺に飛び込んできた。

 体の熱が奪われ、瞬時に力が抜けていく。

 そうか私は怒っていたのかとその時になってようやく気が付いた。


「……どういうこと」


「一時の事とは言え貴女が、発動したのです。悪魔を支配する輪を。全ての魔を統べる永久の鎖を。あれで、この島中にいた悪魔に貴女の居場所がばれてしまった」


 アースベルトは私の脇を支えながら壊れ物を扱うように、自身の肩からゆっくりと下ろした。


 とん、と足が地につく。どうやら、ここは町から見えたあの小高い山の頂上のようだ。遠くに町の明かりが、チロチロと揺れているのが見えた。

 アースベルトが、心底心配そうな顔でこちらを見ているのがわかり、心に平静が戻ってくる。普段表情の変わらない彼の焦った顔は、マルカに驚きをもたらした。さらりとした銀の髪が、彼の物憂げな揺れに合わせて、動く。


「悪魔は……人間を襲うの?」


「いいえ。普通悪魔はそんな事は致しません。召喚さえされなければ自ら関与しようとはしないはずです。召喚されていない悪魔にとって、この世界の空気は毒のようなものですから、貴方の姿が見えない以上むやみに人を襲う事はしないでしょう。ですが、貴女があの場所に居るとなれば、話は別です」


「私を狙って、悪魔が集まるっていうの。悪魔の…その、自分の意思で?」


「そうです」


 ようやく平静を取り戻したマルカを見て、彼はいつもと変わらない様子でその辺の樹を素手で切り倒して切り株に変え、座るように促した。その動きは、腕が変わる様子も見えないほどに早かった。


「自らの命を顧みる必要も無いくらいに、生まれたばかりに等しい貴女を欲するでしょう」


「……私は、何なの」


「貴女は魔王です。マルカ様」


「嘘よ。誰がどう見たって、そこいらに居る普通の子供じゃない。」


「貴女には、無尽蔵の魔力があります。」


「嘘よ。そんな力、ありはしないわ」


「貴女には、魔族の…そして魔界の、全てを支配する力があります。まだ、扱い方を知らないだけで」


「嘘よっ。そんなの、望んでなんかいないっ!」


「そして、貴女を喰らえば、悪魔達もまた、支配者にとって変わる事が出来る…と、彼らは信じています。そんなこと、出来はしないのに。そして犠牲になるのは、必ずその周りにいるか弱く力の無い、人間となるでしょう」


「……っ」


「貴女は、強くならねばなりません、マルカ様。たとえ自らの意思でなくとも、力は発動されてしまった。それは、もはや違える事など出来はしないのです」


「……そんなの、わかんない、知らないよ」


 優しく諭すような物言いに、ただ反発したかっただけなのかもしれない。

 いやいやと、ダダをこねる赤子のように首を振る。怒っていた気持ちが急にしぼんでしまったせいで、胸のもやもやが心の蓋を閉めかけている。そんな気持ちだった。


「もう二度と、見たくは無いのではないのですか?」


 伏せていた顔を、睨むような面持ちで持ち上げると、一心に向けられた目に、映るマルカの顔がそこにはあった。

 冷やかでありながらも、慈しみのある瞳に、子供じみた抗いが無理やり抑え込まされてしまう。「…あの、焼野原を」と続けないのは、彼の優しさだろうか。不思議とその瞳を無性に懐かしいと感じたが、これも悪魔の力なのだろうか。魔王にも彼の魅了の力は効くとは思えないし、彼がその力を私に向けているとは思えないのだが。

マルカは自分の考えを根こそぎ払うように頭を強く振ると、話を戻すために、再び問うた。質問の返事はしない。…いや、適切な返事が思い浮かばかったのだ。


「なんで、ハインスさんに……あぁいうこと、したの? ううん。あぁなってしまったの?」


「そうでしたね。……人間相手に酷い事を致しました。」


私の心が説明できないように、彼もまた明確な返事をしない。結局、説明は省くのだ。いつかは、彼が私に全てを話してくれる日がくるのだろうか。私も、いつかはこの心の内を全て話す事が出来るのだろうか。


「ちゃんと、後で謝らなくちゃ駄目だよ」

「……全て仰せの通りに、マスター」


 彼はそう言って、いつも通りに、深々と頭を下げた。

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