24.アルヤ

「今のは、何」

 唐突にそう感じたのは、夜空に藍色の世界が広がった後の事だ。

 変わりゆく空を眺め、明日の諸事を考えながらも、部屋の中へと戻ろうとしたその時だった。後ろから体に何かが駆け抜けていくような感覚があったのだ。


 手元に居た使い魔の数匹も、その違和感と共に姿を消した。何かに怯えるように、何かを逃れようとするように。

 それと同時に、最も身近に置いていた力のある一匹の悪魔の動きがギッと音を立てて止まった。先ほどまで、自身の周りを油断なく徘徊していたというのに。そういう命令を、アルヤ自身が下していたのだ。身を守れるようにと。


「どうしたというの」

 動きを止めた悪魔に聞くと、頭に二つのヤギのような角がある、のっぺりとした顔の人間に似た、しかし人外の悪魔は、さも不思議そうな顔でアルヤに答えた。


「命令ガ来タ」

「命令?」


 どこから見ても人とは思えないその姿に、アルヤは嫌悪感を隠そうとはしない。隠したところで、悪魔には分かってしまうのだから、隠すだけ損というものだ。しかし、悪魔はそのようなアルヤの表情には気にした様子もなく、話を続けた。


「止メロ、トイウ命令ダ」

「止めろ……? どこから来ているの。」

「アソコダ」

 悪魔は、そう言うと城からもっとも離れた館に、歪な指を向けた。

 王の弟、摂政バイラムの住む、館だった。その指先を見ながら、アルヤは口を痛いほど噛んだ。事実に、息の詰まる思いだった。苦々し気に、やっとの事で声を出す。

「……命令は、下されていないわ。護衛を続けなさい」

「分カッタ」


 悪魔は、先ほどと何一つ変わらぬ動きで徘徊を続けた。アルヤの居る、広く大きな寝室を中心に右に、左に、ただ右往左往する。


「悪魔の支配令が解かれた……? でも、ただ解かれただけだなんて」


 表情を変えずに動く悪魔を眺めながら、アルヤは先ほどの違和感について考えた。

 あれは、確かにおかしな違和感だ。あれが、支配令を解く輪だったのだとしたら、いったい何のために、いや、むしろどうやって発動したのか?

 広範囲でありながら、かなり強力な支配力によってなされた命令と推測される。

 暫く考えにふけっていると、扉をノックする音が響いた。こんな時間にくる人間といえば、たった一人だ。

「失礼するぞぃ、王妃殿下」

「アルベルタ様。良い所に」


「丁度近くに来ていた所でな、使い魔とやらの様子が急に変わっての。」

「やはり、そちらも」

「と、いうことは、やはり何らかの妨害があったということじゃろうかの」


「何かの輪が、通り過ぎたのです。それが何かはわからなかったのだけれど」

「輪、か…それがどこから来ているのかは聞けないのか?」

「ええ、悪魔のいう事には、バイラムの館からのようですわ」

「ほぅ、では、やつも何らかの対抗策を打ってきたというわけか」

「でも、オカシイですわ。契約そのものを解除するのではなく、命令を解除するために支配令を解くだなんて。」


「考えすぎなのではないか?」

 アルベルタはそう言って、さも可笑しそうに笑った。


 だがアルヤにはこれは、そう安易に考えていい代物とは思えなかった。供物を使った召喚の契約が、悪魔にとってそこまで軽いわけでもあるまい。

 何しろ悪魔にとって、一つの習慣……いや、そうせざるを得ない、生きるための糧を得るための契約なのだから。

 それをこれほど簡単に、蔑ろに出来るほどの効力が、あの瞬間発動されたということだ。


 そこまで考えて結局、直接召喚をしないアルベルタには分からないこともあるのだと、アルヤは心の中で結論付けた。


「例の件、決行して下さいな」

「ほう…いいのか?」


 アルベルタの白く濁った瞳に怪しい光が佇むのは、アルヤの目にも明らかだった。そこは欲望と希望とが入り混じった不可解な色彩で彩られていた。しかしもう、アルヤがどう動こうと結末は変えられないだろう。

 アルヤが是とするか、否とするか、ただそれだけの差だ。ここでしないと言っても、この老人は自らの志を自らの意思で遂げるのだろう。

 志などと言うのも、悍ましい事ではあるが。


「一番怪しいのは、あの館ですもの。ならばあの男に支配力を奪われることだけは、避けなければならないわ。それは、あなたも分かっていますでしょう」


「ならば、儂らの願いも叶えて良いな? 良いな?」

「…………お好きになさって」


 聞くが早いか、アルベルタは返事もせず、文字通り飛び出していった。

 真に、老人とは思えぬほどのスピードである。


 開け放たれた扉に向かって、生暖かい風がなびいた。肌に、気色の悪い何かが伝うような感覚があり、無意識のうちに腕をさすっていた。

(とことん、私はこの国が嫌いなのね)

 そう一人自嘲気味に笑っていると、部屋の中央のベッドの天蓋がゆらりと揺れ、アルヤはふと呼ばれたような気がした。


「ただ己が欲望にだけ忠実に、か……」

 老人が去って行き、開け放たれた扉見ながらそう呟くと、アルヤはベッドへとそっと腰をかけた。

 静かに腰かけたにも関わらず、その瞬間ベッドから大量の羽虫が飛び立っていった。


 アルヤはその事実に対して動じた様子もなく、むしろ愛しい人を向かい入れるがごとく、その小さな虫達を受け入れた。そして、ベッドに横たわる、凡そ人とは思えないほど酷く崩れた『何か』に、ゆっくりとキスをしたのだ。

 顔を上げたアルヤは、いつもの険しい王妃の顔ではなく、一人の女性として、目の前の『何か』に向け、優しさと愛おしさを溢れんばかりに讃えた恋人そのものの顔だった。


「私も大して変わらないものね、あなた」




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