30.マルカ

 後になって考えてみると、あの時マルカはアースベルトに眠らされていたのだと、確かにそう思った。


 そもそも、この世界で怪我や身体的な疲労を感じることの「出来ない」体を持ったマルカは、精神的な疲れやその他の要因についてはまた別のものだが、基本的には眠りという体を癒す行為をする必要が一切ない。


 しかしそれでもマルカは人間だった頃からの習慣として、夜は体を横にして目を瞑り、その日にあったことを思い返すようにしていた。丘の上で夜空を見上げていた頃を思い出すように。

 そのうちに、まどろむように眠りが訪れることも時々あった。マルカにとってそれは自分が人間だった時を忘れないための、大切な作業だと、今では感じていた。


 だが近くで(それがたとえ少しばかり自分の居場所から離れた町だとしても)、様々なものや動物に宿る精霊が騒がしくなるようなことがあればすぐさま起き上がり動くことは可能なはずだった。


 しかしその日、マルカが起きる事は無かった。

 たぶん今までで一番幸せな夢を見ていた。


 最初は確かにとても怖い夢だったはずだ。

 鏡の前に立っていた自分の皮膚が突然裂け、すると体内から恐ろしい魔物が出てくる。しかし、それすらも自分自身で、マルカはその姿の恐ろしさに一人怯え、泣いていた。


 だがそこへ、あの日死んでしまったはずの神父様がやってきて、マルカを優しく抱きしめてくれた。

 兄弟達が一人、また一人とやってきて、マルカの名前を呼んでくれる。皆と手をつなぎ、いつしかマルカの姿は元の少女の姿へと戻っていく。バイラム達もやってきて、最後には皆仲良く祝杯をあげる。

 そんな、夢だった。



 涙が頬を伝ったと感じた時、マルカはやっと目を覚ますことが出来た。

もう泣けないと思っていた。マルカは魔王なのだから。人間のように泣けるわけがないと。だから驚いて、飛び起きたのだ。

 だが頬に手を当てると、そこには涙の一つもありはし無かった。


呆然とその事実を受け止めている間に、様々な精霊の嘆きがマルカの耳に届いてきた。音の方角がバイラムの館からだと気づくのにはそう時間はかからなかった。


 『怖い、助けて、逃げろ、やめて、痛い、辛い、苦しい、酷い、どうして』


 なぜ、声に気が付くことが出来なかったのか、その原因にマルカに確証があったわけではなかった。何か気が付かないうちに疲れていたのかもしれないとも思った。


 しかし起きたその時、自分の悲しみや驚きを全てを承知しているような顔でマルカのすぐ傍に影のように立っていたアースベルトの顔を見たとき、やっとのことで彼に言えたのは、怒りを滲ませた言葉だけだった。


「二度としないで」


 たったそれだけを、歯を食いしばるようにして言った。


 アースベルトはゆっくりと頭を下げ、マルカが彼を見ることもなくずんずんと荒々しい足音を立てて外へ行こうとするのを止めはしなかった。


 朝日が、今まさに昇ろうとしている時刻の事だった。

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