19.マルカ


 泣いても、叫んでも、止めてはもらえない。


「やめっ!やめてっ!

 自分で洗う! 洗いますから、自分でっ!

 いたたたたたた!!!!!! 痛い! 痛いってばー!」


 その声にも、ゴシゴシと体を擦る音は強くなるばかりだ。

 あの兵士長ギルに手を折られそうになった時でもこれほどの痛みを感じなかったというのは、あまりにもひどい話だ。


「これは、キレイにする甲斐がありますね!」


 そう言い泡まみれの顔をぱっと上げたのは、馬車の中でショアンの面倒を看ていた、乳母レベニカ。

 彼女は馬車の中とは打って変わって生き生きとした表情だ。


 手には貴族が体を洗う時に使っているのだという硬い布のようなものを持っている。本当に高級品なのかと疑いたくなるほどに、痛い。


 泡だらけの風呂に沈められ、体を乳母であるはずのレベニカに幾重にも擦られる。

 ボロボロと垢が落ち、マルカの汚れで薄暗かった肌はすっかり真っ赤になっていた。


 だが、彼女はそれでもまだ何か物足りない様子で考え込むと、風呂場の棚をゴソゴソと荒らしてから意気揚々とある物を取り出した。


 マルカにはそれは、硬いヤシ実を乾燥させた物を潰し、繊維状にしたものを編んで使う「たわし」に見えた。


「ま、まさか……?」


 唖然と、口を開けるマルカを余所に、レベニカはその「たわし」にしか見えない物の素晴らしさをつらつらと語った。


「これ、最近手に入れた美容に良いって評判の、新しい垢すりなんですよ! 分かります? これ、この国原産のヤシの実を乾燥させた繊維から出来ているんです!製法は国外から来ているんですが、今ではこの国の名産品になりつつあるとか。一本一本の繊維をチェックするという気の遠くなるような過程を経た上で、お貴族様の元に届くんです。使っているうちに、段々と柔らかくなっていって、気持ちよくなるんだそうですよ! これだって、もう何か月も待ってやっと手に入った逸品なんです。素晴らしいですよね! まだこの屋敷の誰にも使って頂いてはいないんですが、旦那様からもどんな手を使ってでも貴女を綺麗にして差し上げなさい、と言われていることですし、今回は特別です。大盤振る舞いです! さぁ、さぁ! いざ、参りましょう!」


 レベニカは嬉々としてそう話すが、マルカはそれを嘘だと思った。

 なぜなら、マルカはその「たわし」にしか見えない何かを、村に居た時に見た事があったからだ。

 森で採れた木の実を街に卸す時に使っていた荷台の表面を、年に一回くらいの掃除する時に使っていたのだ。

 確かにあれで擦ると木の間に詰まったゴミなどはよく落ちたように思う。


 だがそれはあくまでも、木などの固いものの表面を洗う時に使う物である。

 間違っても、人体の柔らかな肌に使ってはいけないとマルカは思う。

 新品のものは、特に。


「レ、レベニカさん、それは、止めといた方がいいんじゃないでしょーか……?」


 というと、レベニカはにっこりと笑ってマルカを押さえつけた。


「大丈夫ですよ、旦那様なら、怒ったりしないでしょうから!」


「そういうことではなくってですね!?」


 そしてレベニカは、まるで何の躊躇もなくマルカの背にそれを当てたのだった。


「さ、じっとしていてくださいねー?」


「ひぃいいいい!?」



 マルカはその時、魔王になった時の事を思い出していた。

 あれとどちらがマシか、などと比べてしまったほどに強烈な痛みが全身を襲う。

 体が組み替えられる痛みと、体の表面が剃られるのに似た痛み。


 どっちもどっちだ!と、心の中で悪態をつきながら、抵抗を続ける。


 しかしこの乳母は、中々に腕にいいメイドでもあるようだ。

 蹴ろうとしてもひょいと除け、水を掛けたとしても全く動じず、仕舞いには隠れるように水の中に沈んでも気にせず水の中に手を突っ込みマルカの居場所を探し当て、洗濯板よろしく洗い続けるものだから、普通の人なら息が続かず溺れ死ぬ所だ。だが何はともかく、マルカは洗われ、それはそれは綺麗になったのだった。

 結局マルカの肌は傷の一つも付かなかったし。


 後で聞くところによると、

「男子二人も面倒見ますと、人はいずれ慣れるものです」とのことだ。


 こっちは初めてなので一向に慣れたりはしないのだが、レベニカは続けてマルカの全身に香料の入った油を塗り、やっと解放されたと勘違いしてほっとしていたマルカを捕まえボサボサだった髪にそれは念入りに櫛を入れた。


 そしてレベニカは、幾分興奮気味にマルカに鏡を見せると

「これならショアン様も、お気に召して下さると思いますよ!」


 そう言って見せる鏡の中には、青白い顔のマルカが立っていた。

 確かに、少しは見栄えは良くなったように思う。

 思うのだが、今度は肌の汚れが取れ過ぎて、顔が青白く見えた。

 肌の黒いレベニカの隣に立っていると、まるで幽霊みたいだと言われるのが目に見えているようにも思う。

 髪も櫛を通して艶が出たには出たが、黒い髪が束になることで、逆に幽霊感が増したようにも思えた。


 レベニカも、正直そう思ったのだろう。

 鏡を一目見、一瞬の思案の後、ためらいもなくこう言った。


「さ、では次に髪を結っていきましょうね」


「ま、まだやるの……!?」


 あんぐりと口を開けるマルカにも、レベニカは変わらず容赦無い。

 恐るべし、乳母の体力、であった。



 **********



 そもそも、どうしてこうなったかと言えば。


 マルカやバイラム等4人が屋敷に着くと、マルカはその日の夕食を彼らと共にする事となった。

 勿論今回もやんわりと、丁重に、丁寧に、お断りを重ねたのだが、いかに断ろうにも「後処理が残っているのだ」だとか、「このままでは家の名折れなのだ」だとか言い、結局マルカにも何故だかはさっぱり分からなかったが、彼らは少女を帰そうとしなかった。

 何かが気に入られたらしいのは分かるのだが、マルカの何が気に入ったのかは今になっても分からない。


 マルカとしてもアースベルトが戻って来そうにない今、他にやることも無いので屋敷に滞在する分には一向に構わなかったのだが、如何せんこの家の次男坊に言われた一言が気になっていた。


 そのため、このままの姿で館の中にいるのも忍びなかったのでバイラムに水風呂でも使えないかと聞いたところ、たまたまその場にいた乳母レベニカに飛び掛かられたのだった。


 ************


「私、実際とても嬉しいんですよ。

ほら、この家は今女性の方がいらっしゃらないでしょう?」


「え、あぁ、そういえば見なかったような」


「こうやってお肌のお手入れだとか、髪を結わせていただくのも、随分久方ぶりの事で」


髪をくりくりと器用に捩じりながら、レベニカは続けた。


「元々この家は、大抵の事は奥様がほとんど一人で切り盛りされていたのですけれど、あの方が二年前に亡くなられてからはこの家もめっきり火が消えたようになっていて。

 私は昔からこの家によく出入りしていたから、何かお手伝いが出来ないかと思ってバイラム様にお話を持ち掛けたら、乳母として雇って頂けたんです」


「それでこの御屋敷こんなに大きいのにあまり人の気配がしないんですね」


「そうなんですよ。

やっぱりそう感じますよね。

 本当はお子様お二人のためにももっと大勢の人を雇っていただきたい所だったのですけれど、ショアン様が新しい人が来るたびに本当に嫌がるんです。

 そのせいで私の他に残っているのは昔から居らっしゃる料理担当の者くらいで……。

 おかげで今まで奥様がたったお一人で管理されていたなんて信じられないくらい沢山やることがあるんですよ。

 やることがいっぱいあるのは、私としては嬉しいことなんですけどね。

でもそれって、どうしたって単調なんです。

決まった通りに動くしかないっていうか。

 だから私としては女の子のお世話が出来るっているイレギュラーはすごく嬉しい事なんですよ」


 なんていうか、男の子の世話って簡単でつまらないんですよね。と、心の底から楽しそうに笑って言う彼女は、やっぱりチャーミングだった。



 しかし、そんな献身的なレベニカのお世話も、この屋敷の次男坊ショアンの前では不発に終わってしまった。


「あっち行って!」


 小さな男の子ショアンは馬車の中と変わらず、不機嫌そのものだ。


 すっかり身支度も整えて、汚れ無し、匂いも良し、元々着ていた黒いドレスにショアンが恐がらないように、淡いピンクのドレスも借り、いざ少年の部屋の前に立ち「外で遊ばないか」と誘った所、こう返されたのだった。


 レベニカの話は聞いていたので、内心の所は「やっぱりだめか」とは思っていたものの、マルカはショアンに、こっそり森の民の村で死んだ弟のマイリーと姿を重ねていたので、実際酷くがっかりしていた。


臭いと言われるのよりは、幾分マシになったと喜ぶべきか悩みどころではあったが、それでもやっぱりがっかりしていた。

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