18.


 そうして結局、言われるがままに兵士長の任を解かれ、王妃の望むがままに牢に自ら入るべく動くしかなかった。


「お前の妻は今牢にいるよ」という彼女の言葉をただただ信じて。


 考えてみれば、既に次期女王なのだからいくらでも罪をでっち上げてギルを牢に繋ぐことが出来ただろうに、それをやらなかったのは単に王妃が悪趣味だからに他ならない。


 そのためにギルは酒をあおり、息を変え、酔っ払った振りをして、明らかに他国の者である白い肌の者を狙った。

 他国の者との諍いであれば、まず間違いなく刑が処されるのはもう分かりきっていたから。


 しかし、狙いをつけるのには随分苦労をさせられた。

 この国に来る他国の者は、大概が高貴な家の者が多い。

 下手に狙いをつければ、いかに摂政として働くバイラムが頭を下げたとしても、元の地位が兵士長であるギルが発端であるとすれば、国同士の諍いとして収拾がつかなくなる。

 そう思っていた所に、広場に座り込む少女が目に入ったのだ。


 みすぼらしい頭に、汚れた体。

 肌は白いようだが、汚すぎてよくわからない。


 ただ、この国では殆ど見る事の無い真っ黒な髪は、明らかに他国の者だと示している。

 あの髪は、この土地のものとの混血ではまず見られない色だった。

 服はまぁそこそこ上等に見えたが、少なくとも貴族の者であればこのような所に座り込むような真似をするとは思えなかった。


 少女が座り込む姿は、ギルの娘の小さな頃の姿とよく似ていた。

 父の帰りを、家の前で待つその姿に。


 しかし、もう決めたのだ。

 似ていようが、似ていなかろうが、この少女の腕を折ればまず間違いなく刑は処されるはずだ。


 そう思って、適当な事を喚き散らし辺りの人間を集めてから、少女の腕に渾身の力を込めた。


 少女の姿が娘の姿と重なったために、ギルの腕が鈍ったのか?

 バイラム様が来るのが早かったのか?

 思いのほか彼女の細腕は頑丈だったのか?


 理由は分からないが結局少女の腕が折れることはなかった。

 だがともかく、ギルは意図した通り、自ら牢へ向かう事は出来たのだった。


 その時バイラムを目の前に出来たのは、千載一遇のチャンスではあった訳なのだが、しかし彼に真相を伝えることは叶わなかった。


 辺りには王妃の手先があちらこちらに顔を見せていた事に加えて、バイラムが降りてきた馬車の中に探し求めたギルの娘が居る事が、その目を見た瞬間に分かったからだ。

 あの手先達の目が娘に向けられるのが、何より怖かった。


 娘はバイラムの第二子、ショアンをその手に抱いていた。


 そうか、あの子は今ああして暮らしているのか。


 そんなことも知らないほど年月が過ぎていた事に、ギルはその時初めて知った。

 妻によく似た娘の二つの潤んだ目が、じっと、こちらを見つめているのが分かった。


 ****************


「ごらぁ! ズビッ! ごっち見ろ!」


 ビシッバシッビシッ


 よくも、理由も無いのに飽きずにこう鞭を振るい続けられるものだ。

 いや、彼にとっては鬱憤を晴らすという立派な理由があるのかもしれないが、それにしたって疲れ知らずだろう。


 腕も、背中も、腹も、足も、ギルのありとあらゆる部位に斜めの赤い筋が入り、だらだらと肌の上を流れる血の模様は、まるで蛇皮の様だ。


 牢にさえ入れれば、多少は妻の消息も分かるかと思った自分が浅はかだったのだ。

 まさか入ってすぐに、間髪入れず拷問にかけられそのまま死に至らしめるとは、あの時は露ほども思わなかった。


 あぁ、このままでは俺はもうもたない。


 世界が何度も暗転する中で、ギルはハッキリと自分の死を認識した。

 戦場の中で幾度も出会った、死神の吐息がすぐ横で息づくのを感じた。

 その音が大きくなるにつれて、ギル自身の息を吐く音は、どんどん小さくなっていく。


 そして、次の鞭でもう目を瞑りたいと願ったその時、目を血走らせながらも景気よく鞭を振るって居たはずの拷問官の頭が、一瞬の「もぐっ」という脹らみの後、


「……?」


 最初は、何が起こったのかさっぱりわからなかった。


 びちゃびちゃと音を立てて首の先から赤い渋きが勢いも良く溢れ出て、よたよたと無くなった頭を探すように男の足が折れると、まるで男の背中から生まれ出たかのように崩れ落ちるその影からボロボロの布をまとった小さな老人が姿を現した。


「まったく、センスの欠片も感じられないものじゃ。

 あれで拷問官を名乗るとは、この国の闇とやらも底が知れるというものよ。

 まぁ、辛うじて点をやれるのは、打ち筋だけだの」


 言いながら、つつっと音もなくギルに近寄ると、天井とギルを繋いでいた鎖に視線を向けるとそれ以外の何の動作も必要とせず、いとも簡単に繋ぎを外してみせた。


 ドサッというギルが落ちる音に続けて、ジャラララララという鎖の音が辺りに響いく。


「はっ……、はっ……あぅ……つぅぅうっ……!」


 全身が、バラバラになりそうな痛みが体を襲った。

 息をするだけで鎖に繋がれていた肩にズキリと雷が走り、それに身悶えし少しでも動けば、鞭で打たれた肌がめくれる。

 ただただ、妻を助けたい一心で耐えていた、耐え難いほどの痛み。


 今更に、拷問官だった男が憎らしくて堪らなくなる。


「なんじゃ、その程度で闇に飲まれたか? ……ワシの思い違いじゃったかのう」


 老人はポリポリと仕方なげに頬を掻いてからブツブツと呪文を唱えた。

 ジュウウ、と音を立てて傷が塞がり、肩の痛みが一気に引いていく。

 完治にはほど遠いが、少なくとも動くことは出来そうだ。


「回復……あ……んた、なんだ?」


 魔法、それも最も難しいとされる回復魔法を扱い、この要塞のような牢獄に潜りこみ、視線だけで頑強な鎖を解く老人が、普通の人間であるはずがなかった。


「ほほ、なんだ、と来たか」


 それはさも楽しそうに、シワクチャの顔の中央についた鷲鼻に、さらに皺を寄せた。


「さぁて、何に見えるかのう?」


 そういうと、老人はぺこっと片足を出して、手を後ろに組んでポーズをとって見せる。


 老人の目の前には頭部の無い死体があり、先ほどまでその死体に拷問されていたギルが居り、そして辺りを照らすのは松明の明かりと、その明かりをテロテロと反射する血の海だけだ。

 そんな中でポーズをとっているのはギルからしたら魔法を扱うという事以外何も分からない、明らかに頭のオカシイ爺さん。


 誰がどう見ても、それは地獄絵図としか言いようがないだろうと思った。


「はっ……こんな所に来るのなんざ、神か、天使か……それとも死神か?

 いや、なん……でもいいさ。兎に、角、助かった……よ」


 立とうとすると、ガタガタと足が痙攣した。

 だがそれに負けじと、ぐっと歯を食いしばって足を踏み出す。


 あの拷問官が死んだ今ならば、この要塞の中を歩ける。

 この要塞には元々あまり人は居ないはずなのだ。

 何せここは王妃の秘密のマジナイ砦なのだから。


 肩を抱きしめ、足を引きずりながら拷問官の腰から鍵を抜き取り、扉へと進んだ。


 すると、すぐ後ろにいたはずの老人が、今度は目の前に現れた。


「惜しいの、ワシは悪魔じゃ」


「はっ悪魔、か。

 悪魔が、この俺に、何の……用だ? あの女の差し金か?

 いかに弱っているとはいえ……悪魔に身を委ねようと考える……ほど、俺は耄碌してはおらんぞ」


 ぜいぜい、と肩で息をしながらも睨みつける。

 悪魔、それは卑下すべき悪の象徴。

 その存在は闇より出でて、光の対局を成すもの。

 だが、神や天使ならばいざ知らず、悪魔が人間に治療を施すとはどういう訳だ?


「いやいや、なぁに、ただの年寄りのお節介というやつじゃよ」


 老人は、特段面白くもなさそうにこちらを見ると、パチリ、と指を鳴らす仕草をした。

 実際には音はならなかったように思うが。





 すると、風もないのに松明が揺れ、老人とギルの間に、人であったであろう『物』の姿が突如として現れた。それは殆どが濃い肌の色をして、茶色の髪が生えて、くてっと体を折り曲げている。



 そして、それが何だか分かった瞬間、ギルの口から吐息が漏れた。



「あ、あぁ、あああ……」



『物』の息はすでに止まっている。

 それを見て、老人もまたため息をついた。



「あぁ、すまぬな。生きておればまだ意味もあったが、要らぬものを見せたか」


「あ、あぅ……うぅ……」



 ギルはふらり、とその場に腰を落とした後、ゆっくりとその『物』に近づき、そっとそれを抱きしめた。




 それには、目が、無かった。

 それには、耳も、無かった。

 腹にはいくつも濃い黒い線が入っており、痛々しく。

 腕も、足も、端から端まで黒ずんで、およそ人の肌とは思えぬほどに青にも、紫にも染まっていた。


『物』からは、血の匂いしかしなかった。

 肌も固く、黒々しく、冷たかった。

 その顔からは微笑みを思い浮かべることは出来なかった。



 だがそれでもギルにはそれが自身の妻だとすぐに分かった。



「なん……で……だよ……。

 まだ、生きてるって……言ってたじゃ……」



 冷たく動かなくなった彼女をおもわず掻き抱くと、ボトリ、と音がして、呆気なくその腕の一つがもげた。


 腕が落ちたにも関わらず、彼女からはもはや血の一滴さえ垂れはしなかった。


「う、あぁ……」


 無意識に腕を拾い、それを何とか彼女に着けようともがいた。


 ぼろり、ぼろり、と涙が伝い、外れた腕をつかむ手も、彼女を抱きしめる手も、ギルの全てが震えた。


 その音は、ギルが闇に落ちる音に、きっとどこか似ていたのだろう。



「う、うあああ、ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!」



 プツン、と頭の中で何かが切れる音と共に、ギルの世界は闇に飲まれていった。

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