17.ギル・モント


「ズビッおら、寝るなよ! おでのお楽しみはまだまだごれからなんだかんな!」


 先ほど勢いも良くかけられたバケツ一杯の水が、ギルの意識を呼び起こさせた。自身が目を開けるよりも早く、ポツリ、ポツリ、と体から水滴が滴り落ちる。

 どうやら、気絶してしまっていたらしい。

 兵士長ともあろうものが、情けない事この上ない。


 目をゆっくりと開けると、ギルの疲弊した顔に対して、満足気に微笑むイヤらしい顔が見えた。


 ここへ入れられ、繋がれ拷問を受けてから、いったいどのくらいの時間が経ったのだろうか。

 それとも、まだそれほど時間は経っていないのか。


 外の光の差し込まないこの地下牢獄では時間の変化が分かる全てのものを遮断していた。

 この空間で今見えるのは、壁に掛けられた松明の明かりがチロチロと灯す範囲のみ。


 ただ、吊るされたギルの周りに広がる黒い点々としたシミが、気絶する前と比べれば随分数が多くなったのは、きっと気のせいではないだろう。


 牢に入れられてすぐ、手を鎖で繋がれ吊るされて、随分と鞭で打たれた。

 肩はもう吊るされて長く、下手に動かすこともできやしない。

 上半身は背中や胸も、鞭で打たれ過ぎたために赤黒く切れ、腫れ、熱を持っている。


 そして再び意識が朦朧とし出すその中で、ギルを嬉々として拷問にかけるこの目の前の男について思い出していた。


 昔と違い随分見た目が変わったように思う。

 あの頃は確か痩せっぽちで、少なくとも今よりはもう少し見れる顔だったように思うのだが。

 全体的に丸みのある、しかし歪で、にやけた面。

 無精ひげと、鞭を打つたびに口から垂れる涎が、さも拷問官らしいではないか。


 だが何度頭を振っても、結局この男の名前を思い出すには至らなかった。


 その代わりに訓練時代の情けない顔ばかりが浮かび上がってきた。

 この男は昔ギルの元で兵士としての訓練を受けていたことがあった。

 だが、あの頃を知っている限りでは、どうにもこうにも使えない男だったと記憶している。


 田舎者で、何も知らないくせに自尊心ばかりが強く、しかしいざとなったら「自分には向いていなかった」と言い、そして明くる日には当然の如く豪語するのだ。「自分ならやれる」と。確かに、兵士には虚栄心というものが必要な事もある。

 戦の前に自身を鼓舞する意味で、出来ると宣言するのも時には良いと思う。

 ギルにだって、何度かそうした経験くらいある。


 だが、そう虚勢を張りながらも、陰で努力を続けてきた人間を笑い、かといって前線に配置すれば真っ先に逃げ帰ってくるような小心者であれば、どうだろう。

 もちろん、結果は分かっていて前線に配置したとはいえ、まさかたった一日で全てを見捨てて帰ってくるとは誰も予想だにしなかったものだ。

 あれをグズと言わずなんと呼ぶのかは、ギルには他に思いつく言葉は無かった。


 だから、追い出したのだ。

「お前には、もっと他にやれることがあるだろうよ」と言って。


 その男がこうして今元兵士長という立場になったギルを拷問しているとは、運命の悪戯にも困ったものだと思う。

 ここへ自らの意思で来た時点で、多かれ少なかれこうなることは分かっていたとはいえ、これには流石に堪えるものがあった。



 きっと先の戦で全て置いてきてしまったのだ。

 運とかそういった類の、人が人として生きる上で大事な物を。

 だからこうしてツケが回ってきたのだ。

 そうでなければ、これほどの痛みを、嘆きを、ギルの信じる神、預言者バハルタが人に許すとは思えなかった。


 それは随分と鞭使いのうまい男だ、と妙な所で関心してしまったほどだ。

 的確に、痛みの度合いを見ながら絶妙な加減で打ち付けてくる。


 バチンッと一つ、小気味いい音が響き、頬につっと血が走った。


 なるほど、確かにそういった意味ではこの施設を作ったアルヤ王妃は、人を見る目があると言えよう。

 ここは王が病に倒れられた三年前、その時に一時政権を代理として継いだアルヤ王妃が、一番最初に作った建物なのだ。

 それまでは、罪を犯せば死罪一辺倒が普通だったこの国にとって、それは明らかに革新的な政策だと言えた。


 あの頃に彼女の本当の目的さえ民に明かされていたならば、恐らく彼女はこの建物を作る前に間違いなくこの国の民によって暗殺されていただろうに。



 王妃の目的はただ一つ、彼女の信じる彼女の祖国の教、豊饒の神アハブの為の祭壇を作ることだ。


 豊饒のための儀式と聞けば知らぬ人には聞こえはいいかもしれないが、実際のそれは悪趣味なまじないや、姦淫を行うための場でしかないことは、もはやこの国では公の事実だった。



 あれから彼女のまじないの為に攫われた罪の無い子供は、いったい何人いただろうか。

 姦淫の手から家族を逃がすために、人々は裏で告げ口し合わねばならなくなった。

 勿論、狙われるのは肌の色の最も黒い人間だけだ。

 だから、当然進言するであろうと思われた評議員達も王妃のすることに口を出さない。

 何せ、評議員たちはもう殆どが純粋なこの国の肌の色の者たちでは無かった。


 今にして思えば、それも前々からアルヤ王妃が仕組んできたことではないかと疑いたくなる。



 そして、それ以外はあの王妃は至極真っ当だった。

 それは国の経営を担う評議員達にとって、健康であった頃の国王ヨフラムよりもよほど扱いやすかったのだろう。


 彼女は至極真っ当に、聡明で、敬謙で、思慮深く、誰もが羨む美しい王妃様であることを、平然とやってのけるだけの才覚を持ち得ていた。



 それでもまだ人々には希望があったのだ。

 王弟バイラムが、殿下と呼ばれていた頃までは。



 そもそもアルヤ王妃が代理になったのは、王と王妃の息子であるガルヤ王子殿下が、ギルの指揮していた先の戦において、戦死したのが一つの要因だった。

 突如として現れた敵船に、王子の乗っていた船がたった一撃で沈められてしまったのだ。


 その知らせは、王を病に伏せさせただけでなく、アルヤ王妃もまた心を病んでしまったのだと思われた。


 だから最初こそ、人々は可哀想な彼女に手を差し伸べた。

 国が、国としてあるために必要な事は皆、彼女に教えた。

 王妃もまた、自身にぽっかりと開いた穴を塞ごうとするかのように、様々な事を吸収していったのだ。


 だが結局、どう取り繕おうと、解れを治そうと、彼女の心を癒す算段を付けることは出来なかったようだ。


 それまでは王と共に慎ましく暮らしていた王妃は、いつしか人が変わったように荒れ始め、邪悪な悪教にも手を染めるようになった。

 いや、もしかしたらこの国に嫁いできた初めからそうだったのかもしれないが(何しろ彼女の祖国の国教であるからして)、少なくともこの国に来た当時、王妃はその素振りを一切見せる事はなかった。


 そして賢いアルヤ王妃は評議員達を取り込むことに成功し、ついに最近には、王弟バイラムを政界から追い出したのだった。


 だがそれだけでは飽き足らず、王妃はバイラムを暗殺するつもりでいることを、ギルは知ってしまった。

 事実をギルに伝えた兵士がその後すぐに消息不明となった事で逆に話が現実味を帯びてしまい、ギル自身も調べ始めると程なくして王妃から接触がもたらされた。



 それはとても、簡単な、話だった。



 そして、その時点でギル自身もまた、あの王妃に囚われてしまったのと同じとなったのだ。


 ギルには一人の娘がいる。

 一人の妻がいる。実際の所は元、ではあるが。

 二人は共に、城下街に住んでいる。

 もう何年も顔を見てもいないが、彼女達は共に支え合い、二人は二人だけでこの国を生きている。


 ギルは兵士長だ。

 長年、国敵と戦ってきた実績があり、実力があり、家族に捧げる時間よりも国に従事する時間の方がよっぽど多いのは、もはや当然の話だった。

 そうでなければ、この国の兵士長は務まらなかった。

 それほどの激務だったのだ。


 だが彼女達は、そんなギルに愛想をつかして出て行ってしまった。

 ギルもまた、あの時はそれでも構わないと思った。

 昔は語り合い、愛し合った妻よりも、自らの血の繋がった実の娘よりも、共に戦場で戦う兵士達のほうに余程愛着があったからだ。




「きっと彼女等は理解してくれる」


 賢く美しい王妃はあの時確かにそう、ギルの耳元で囁いた。


「わたくしは、どちらでもいいと思うのよ。

 お前が不確かな情報で国の英雄になるのを夢見るのも、国を見捨て、もはやお前を顧みない家族を救うのも。

 そうさな、あえておススメを言うのならば、お前が夢の中の英雄になる方だろうか。


 何度も何度も、無節操に、無感動に、無表情に、戦争に向かう男を長年支え続けた女を呆気なく見限るのと同じように、今回もまた同じく、彼女達を犠牲にすればいいのではないか?


 だぁいじょうぶ。至極簡単な話だよ。


 そうすれば、私はお前がこの国を救うよりも早く、お前の娘の腹を裂き、神の供物として捧げ、元妻を最も高位の司祭に蹂躙させ、この国の未来のために豊饒を、繁栄を願おうではないか。


 それも、また良い。


 それが、お前の選択だろう?」


 もはや王妃の形の良い口が、ニンマリと動くのを、ただ青ざめた顔で見るしかない。

 国の外にいる敵にならば、いくらでも戦略があった。

 軍略も、あった。

 船の扱いも、剣の扱いも、最新鋭の火器の扱いだってこの国にいる兵士の誰にだって負ける気がしなかった。


 だが、敵が中にいたのならばどうだ?

 それも、国の主たる場所に座る狂った王妃が相手だったならば。



 戦に行くと聞くたびに、半泣きで小さな手を振る娘。

 待ってとせがみ、抱きしめたあの小さな体から命が消える瞬間を思い浮かべた。



 世界の誰よりも愛した、柔らかな肌を、帰るべき居場所だった、彼女の笑顔が今頃になって頭に浮かんだ。

 あの最後の時……あの時彼女はいったいどんな顔をしていただろうか。



 ……彼女達を捧げるだと?冗談じゃない。



 そんな事、出来る訳が無かった。

 出来るはずがなかった。


 くそったれの、イカレタ女。

 まるで変哲もないことのように話す王妃の顔には、何の感慨も、感情も、見えはしない。その顔は笑ってはいる。

 笑ってはいるのだが、人を底冷えさせる何かが、確実にそこにはあった。


 おかしな宗教にはまり、異端者となったこの女には、もはや人の心は分かるまい。

 そう考え、思いつく限りの罵詈雑言を頭で並べながら、精一杯の力を込めて王妃を睨みつける。


 今すぐ邪眼の力でもついて、この女が燃えてしまえばいい。

 そう思った。


 そうして睨みつけていると、一つ、気が付いた事があった。

 王妃の胸に、どこか見覚えのあるブローチが付けられていたのだ。

 明らかに王妃の華美で悪趣味な衣装に不釣り合いな、純朴で、いかにも安物な、しかし美しいスズランの花のブローチ。


 それは、ギルが兵士になって初めての褒賞で買った、恐らくもう二度と手に入らないブローチと、よく似ていた。


 だけど、それがここにあるはずがない。


 なぜなら、それは、それは……


「……や、……やめろ、やめろっ! やめろっっ!!!!!!

 嘘だろう、止めてくれ! なぁっ! 

 今、何処にいる!? 俺の娘は! 妻は! どこだっ! 


 答えろおおおおおおおおお!」


 王妃の周りには、最近になって新たに編成された兵士が囲んでいる。

 ギルはその男たちに行く手を阻まれながらも、王妃へ必死に手を伸ばした。


 喰ってかかるギルを見て、ふいに興味を失ったかのような顔をしてから、女は、あの悪魔は答えた。


「まだ、生きてはいるよ」

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