21.レベニカ


 穏やかな波の音が絶え間なく。

 この島は訪れる詩人の間で「神の宿る島」と呼ばれる事がある。所以は、人工物と自然が合わさったこの美しい景色にあった。


 この時間、ファニアの空は夕陽の彩に歪む。


 辺りを真紅に燃える日に染まると、空には普通の赤やオレンジの色に交じって、紫や緑の閃光が走るように見えるのだ。


 生まれてからずっとこの地に暮らしているが、残念ながら理由は分からない。しかし理解出来ずとも、この島がそう在るということを知っていれば十分なように感じていた。

 その現象をファニアの人々は、昔から「天の世渡り」と名を付け、神である預言者バハルタが麓に降りる時刻であると囁いてきた。それによりこの時刻になると人々は空に向かって祈る風習があり、それはこの国においてはもはや当たり前の事で、この年になったレベニカも、今ではもうすっかり身に馴染むものとなっていた。


 だからこの時もまた、レベニカはオレンジや緑や紫からなる幻想的な風景を前にして、手を組み神に祈りを捧げていた。

 高台に位置するこの屋敷のダイニングルームからは海に沿って広がる住宅の白い壁が一望でき、夕陽に染まる青い屋根は影と重なり、徐々に黒っぽい色へと変わる姿もまた、見ることが出来る。


 そして家では漁に出た夫の帰りを待つ妻が一人、また一人と戸口の前に暖かな色の灯りを灯し、家人が帰ってくるのを待つ。この高台に位置する家から見るその景色はさながら、毎夜、神のための道が街の中に作り上げられていくようで、目にするたびにどこか厳かな気持ちになるのを感じることが出来た。

 幼い頃には「神の宿る島」などと、大人はなんて大げさな物言いをするのだと思っていたものだったが、この屋敷から見る景色だけは、確かに神が宿るというのも、納得のいったレベニカだった。


 そうして祈りを捧げていると、ふと顔に影がかかる瞬間がある。

 いつものように顔を上げると、もう鮮やかな世界は色薄れ、後には赤い筋のような残り火が海を漂っているだけだった。明日も、同じく平穏を。そう祈りを締めくくり、夕食の準備に戻る。

 部屋を振り返ると後ろでは、同じく祈りを捧げていたのであろう料理人が、既に慌ただしく動き始めていた。

 (やはりいかにしてもこれでは、中働きが少なすぎる。どうにかして増えないものか。いや、それにはまずショアン様を説得できなければ……)

 ため息を一つつくと、レベニカはいつもの通り長テーブルの上の燭台に火を灯した。これも祈りの内に入るのだろうかなどと考えながら。



 そうして、いつもの様に夕食が始まる。

 いや、いつもの様にというのはまた違うだろう。今日は客人としてマルカを招いているからだ。見た事もないくらい真っ黒な髪を結い上げたその姿は、この屋敷の亡き奥方、キア様の持ち物であったピンクのドレスとよく似合っている。


 ショアン様の事を思うと抵抗はあったのだが、「使わなければただのゴミ」と生前奥様ご自身が仰っていた事を思い出せば、バイラム様の言う通り1日くらい貸してあげるのも問題は無いだろう。

 肌が少し不健康そうに青白いのが残念だが、それはそれ。出会った時の姿から想像するに、恐らく普段ろくな食べ物を食べていなかったのだろう。

 謝礼金とは別に、せめてもの償いにとお食事に招待なさるとは、バイラム様も中々粋な事をするものだと思う。如何に諸外国に開かれた国ファニアとは言え、明らかに貧民である少女にまでお心を砕かれるのは、有力貴族(それも王族)の中ではバイラム様くらいなものだろう。


 まぁ正直、本人にとっての迷惑は別にして、ではあったが。

 庭に居た時もそうだったが、見れば、マルカは裾をふんずけないよう慎重に慎重を重ねて歩くのに必死なようだ。やっとのことで椅子に腰を掛けると、今度はテーブルの上に並んだ食器に目を丸くし、手を膝の上でぎゅっと絞り、唇をへの字に曲げて目の前の真っ白なお皿を凝視している。

 その姿に苦笑しながら、今日はマナーを気にする必要はないとこっそり伝えようと、近づく途中。ふと、足が止まった。


 先ほど祈りを捧げていたのと同じ柱の間から、この国の普段ではなかなか感じないほどの冷たい風が吹いてきたのだ。冷気と言ってもいい。

 大嵐の前兆にしては冷たすぎると、何か首を傾げたくなるような違和感があり、じっと星の瞬き始めた夜空を見上げる。



 遠く。



 ダイニングルームの柱の間から、黒に縁どられた何かが空高く飛翔しているのが見えた。今まさに夜が始まろうとしている空の中にあっても、目立つほどに暗い黒。

 目を凝らしてよくよくみてみると、そこには鳥では見たことが無い色の反射があって、まるで海を泳ぐ魚のような、世に噂される水龍と見紛うような、銀色のキラキラとした輝きを放ちながらファニアの街を天上高くを飛んでいる。


(何かしら。見た事無いくらい、大きな……あれは……)


 それがゆるりゆるりと降りてきて、近づけば近づくほど、確かに翼があるのは分かる。翼の色は、夜の帳と合わさり陰になり、よくわからない。頭の部分は下からの街明かりに照らされ、銀色にキラリと光っている。

 そして、半身に赤黒い袋のようなものがついているのは辛うじて見えた。


 大きな翼で悠々と飛ぶ姿に、レベニカは天使その人の幻を垣間見たような気がした。もしもあれが神か天使だとするならば……とうとう自身に、神の裁きが下る時がきたのか。


 仕事も忘れ、じっと、ただじっとそれを見る。知らずのうちに、手を組み、祈りの姿勢になっているのも気が付かないほどに。


 すると自分自身の耳の奥から、声が聞こえる。

 瞬く間に、まだ何も知らない頃の、拙い少女になっていくのをレベニカは感じた。あれはレベニカがやっと十四になったばかりの時の事だった。死と生の狭間に、立たされる。あの感覚が、舞い戻ってきた。



『ガ……殿下の……へ!』


『お救い……うわああああっ!!!』


『やだっ! 嫌だぁああああああ!! 助げでっ! レベ……ガボッ』


 そして重なる悲鳴と、押し寄せる轟音と、予想以上に冷たい水。

 木のきしむギギギギギという音と、上から降り注ぐ銃弾に、喉を塞ぐ海水の味。

 こちらへ押し寄せる、白い何か。


 埋もれる水を必死に掻き、空を仰ぎ、肺が空気を求め、木片にしがみ付き、

それから最後には、無音だった。



 私がそこに居合わせたのは、ただの偶然だったのか、それとも必然だったのか。どうして私だけが生き残って、多くの人の命が失われたのか。

 あれからおよそ三年たった今でも、答えは出ていない。


 その事実を父が知ることはないだろう。

 母ですら、詳細は知らない。

 ただ父を追いかけたいがために、その背をチラリとでも見たいがために。

 そのためだけに従軍していたなどと、母には口が裂けても言えはしなかった。ただボロボロになって帰ってきた私を見て、母が酷く泣いたことだけは覚えている。もう二度と、父には関わらないと内で誓った事も。


 そこまで考えて、頭を振る。

 もう二度と、思い出さないと決めたのに、自分自身で蒸し返してどうしようというのか。

あの人が牢に繋がれていようと、もう……関係ない、はずだ。離れてから一度だって会いに来てくれた事なんてなかったではないか。

 そして、組んでいた手を解き、再び翼の生えた何かを見つめた。


(随分、近づいてる……?)


 レベニカには、天使に見えるそれが人型の何かだと気づくのには、そう時間はかからなかったように思う。

 だが、そのあまりの異質さに、しばし時を忘れてしまった。


頭が、銀……。顔が……白。


 ぼうっと、見惚れていたと言っても良い。故に、遅れてしまったのだ。この家の主に、危険を叫ぶ事を。気が付いた時にはもう遅く、空を飛ぶ何かは、より一層ぐんとこちらへ近づいてきた。


(っあ!!!! 人っ!?)


「バイラム様っ!!!」


 そう叫びながらばっと主のほうを振り返った直後に、後ろから大地がめくれるような、ドドウッ!!!という重たい何かが勢い良く着地する音と強く吹き込む風、バイラム様とハインス様が椅子から立ち上がり「「ショアン!!」」と二人そろって叫ばれたのは、ほぼほぼ同じ時だったように思う。


 それからザッと音を立ててレベニカのすぐ横を黒い影が流れ過ぎ、続けてバイラムらの腰かけていた細工の良い椅子がガタタンッという鈍い音を立てて床に伏せったのを聞いた時には、その黒と銀と赤い何かは、もう当然のように賓客マルカの前に颯爽と立っていた。



 辺りに黒い羽根がふわり、ふわり、と舞う最中、銀色の頭をした人間は、腕に抱えていた赤い袋を怯え固まっているショアンの足元へ何のためらいも無く投げ落とすと、マルカの方に勢いよく向かってきたワゴンを片足で難なく止めた。


 次いでその上のワインクーラーに入れられていた栓の開いたワインの中身がこぼれそうなのも、くるりと回転させることで一粒も赤い滴を垂らすことなく戻し、もう片方ではその隣にあった様々な種類の刃物や食器類が崩れて盛大な音が立ちそうだったところも一つ一つ全て受け止めてから、手早く元の位置に戻してみせる。

 所作が美しいとか、素早いとか、そういう凡そ人が理解出来る範疇を遥かに超えてしまうような動きだった。


 そして、何事も無かったかのように驚いた顔をして固まっているマルカに膝をついて向き合う。


「失礼、マスター。お怪我はございませんか」


 ぞっとするほど、聞き惚れてしまう声。背にあるはずの翼は、どこにも見当たらなかった。


 マスター?

 彼女は平民ではなかったのか。


「うん……。私は、大丈夫」


 マルカはボソボソとした声で銀の髪をした男にそういうと、ショアン様をチラリと見てから、悲し気に顔を伏せた。それから立ち尽くすショアン様の目の前に鎮座する赤黒い何かに視線が定まる。


「あれ……な……何?」


  銀の髪の男はマルカの視線に気が付き、あぁ、と言った様子で答えた。


「これは失礼を。少々気になったもので途中で拾って参ったのですが、お気に触りましたでしょうか?」


 彼がそう言うと、ずっと袋だと思っていたものが「うぅっ」とうめき声をあげながらもぞりと動いた。ぎょっとして、その場にいた全員が身を引いた。勿論、銀の髪の男は別だったが。


 は放られた衝撃からか、それとも全身が痛むのか、ごろりと顔をあげる。

「あ……」

「あっ!!!」


「ど、どうしてこんなっ!?」


 レベニカ以外の全員が慌てて駆け寄るが、袋のような何かはチラリとも彼等を見ることが無く、一度呻いた後はもう何も言わなかった。放心状態で、床に仰向けに倒れている。それは肌の黒い、男だった。


 男は汚らしい泥と、黒ずんだ血で全身が斑に染まっていた。全身がはれ上がったその姿は、正しくのようだと、レベニカは思った。

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