8.エバンス

 もちろんリューもエバンスも、館に忍び込むなんて真似は今まで一度だってしたことがなかった。

 リューの戦場はいつだって馬上のものだったし、エバンスの生活にはこっそりとした動きなんてものは存在してこなかった。

 まして全く音を立てずに扉を開けるなんて手段は、彼等には考えつきもしないことだった。


 だが、それにしたってこれでは、如何にしてもひどすぎると思わずにいられない。


 リューが剣を片手に大扉にそっと手をかけると、扉はまるでリューの手を避けるかのように大きな音を立てて開いた。

 それも勢いよく盛大に。

 バァアアアアアアン!! という豪快な音が、入口から屋敷の中を順繰りに伝わり、嫌でも耳に残る。


 その音に心底驚いたエバンスは目をひんむいて無言の抗議をリューに送ったが、彼からしたら正直どうでもいい王子様のご機嫌伺いをしている余裕なんて全くなかった。屋敷の外にいる時から感じていた濃厚で重圧的な気配が、扉を開けた瞬間から全力でリューに圧し掛かったのだから。


 リューは騎士副長という立場で、今まで何度も戦場を駆け巡ってきた武人だった。 それこそ、死線なんてものは何度もくぐってきている。だからこそ、だろう。その感こそが彼に告げるのだ。


 今すぐにここから「逃げろ」と。


 だが、彼はもはや動く事すら出来なかった。

 扉に手をかけたときの姿のまま、恐怖に全身の穴という穴が総毛立ち、冷や汗すらつっと頬を伝う。剣を握る手も定まらない上に、歯もカチカチと音が鳴る始末だ。


 そういう意味では、エバンスは全くもって大物然としていると言って良かった。

 リューが大きな音を立てて開けた扉の音にはそれは驚いて腰を抜かすかどうかといったほどだったが、その後の何処から来ているのかもわからない、舐めるような視線には一切何も気付く事はなく、動かなくなったリューにただただ不思議そうな目を向けるのみだったのだから。


 余りにも動かないリューにしびれを切らしたエバンスは、彼の横をすり抜け、さっさと先へ進もうとする。

 その動きに、流石の武人であるリューは恐怖の中であっても険しい顔で彼の腕をつかんで、首を大きく左右に振り静止を訴えるが、エバンス王子がそんな心遣いに気付くはずは勿論なかった。


 結局王子はいつまでたっても動かないリューの腕を面倒そうにさっと払うと、一人スタスタと、入ってすぐの拓けたホールの中央へと進んでいってしまった。


 ホールは、二階までの吹き抜けとなっていて、それは高い天井が彼等を見下ろしている。

 建具には端から端まで凝った装飾が施されており、前方には扉が一つと、上へと続く美しい赤のカーペットが敷かれた階段が見えた。


 入口から左右にも扉がある。

 どこもかしこも手入れが行き届いており、いかに教養の無い王子と言えど、この家の完成度には舌を巻くばかりだった。


 辺りをうろうろと見回してから、あれだけの音があったにも関わらず何の反応もない屋敷に眉を上げて肩を竦めた。


「なぁ、この屋敷、本当に魔物なんて」と言いかけたところで、再び、未だに動かないリューに視線を向けると、エバンスはとうとう尻もちをついた。

 固まる騎士副長の横に、銀髪の、それはすらりとした男がまるで影のように立っていたのだ。


 ―――――『銀髪の魔物が屋敷から飛び立つのを見た』―――――


 街で囁かれた噂がその男を見た瞬間に頭の中で駆け巡り、王子は撃たれたようにその場にへたりこんだのだった。


 エバンスが尻もちをついたまま唖然として視線を向けると、彼は一瞬微笑むように目を細めてから、勿体ぶった動作で、ゆっくりとお辞儀をした。


「いらっしゃいませ、お客様。当家へ、ようこそおいで下さいました」


 丁寧に、時間をかけたそれは、まるで王宮に仕える高位の執事そのものの所作であり、太くもあり細くもある艶やかな彼の声は恐らく男女を問わずしてその心地の良さに震え上がらせんばかりだ。

 彼の銀の髪がその動きに合わせてサラリと動く様は、思わず手を伸ばして触りたくなるような、そんな代物だった。


 360度どこにも死角が無いその様に、呆気に取られて尻もちをついたままのエバンスは一瞬にして頭に血を上らせ、誰がどう見ても場違いな怒りを露わにした。


 こんなにも美しい屋敷、これほどにも完璧な執事を王子は生まれてこの方見た事も、聞いたこともなかった。

 その上、このクノープスの次期王となるはずの自分が地に座り、彼がそれを見下ろす形であるのにも納得がいかなかった。

 なぜ自分が恐怖しなければならないのか。


 自分はこの国の王子であり、この国に住まう者が所有する、全ての所有物を没収する権利がある。


 勿論その権利は、彼が王になって初めて行使することのできる、罪人の為の法律だったのだが、この王子はそんな事は考えてはいなかった。

 今はまだ王ではないとか、目の前のこの男やその主が罪人かどうかとか、そういうことは関係ない。

 大事なのは、自分が無理やりにでも全てを奪うことの出来る権力者であるという事実だけだ、とエバンスは無い頭を懸命に巡らせて思うのだ。


「わ、私はクノープスの第一王子、エバンス・トワイライトである。

 今日はこの屋敷の主人と話をするためにこうしてわざわざ、やってきたのだ。

 今すぐにここに主人を連れてこい。今すぐに、合わせるんだ!」


 今の彼には、なんとか抜かした腰に力を入れて立ち上がり、抜いていた剣を鞘に戻してから、目の前の美しい執事と向き合い、最後にそう声高に宣告する声を震わせないようにするのが、もうどうしたって精一杯だった。


 だからリューがその隣で立ったまま、すでに息も絶え絶えに白目を剥いて口から泡さえ吹いていることには、まったく、全然、ちらりとも、気が付くことはなかった。

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