2.マルカ


 目を覚ますとマルカが寝ていたベッドの横には、それは立派な鏡が置かれているのが目に入った。


 マルカは気重い心持で体を起こすと、まるで怯える子ザルのようにそうっと音も立てずにベッドから降りて、ゆっくりとその鏡を覗き込んだ。

 なにせ、あんなに酷い目にあったのは初めての事だったから、自分の姿を見るのがすっかり怖くなっていた。


 体を起こしても、マルカの皮膚はちっとも痛くなかった。

 しかしあれだけの火事があったのだから、肌はすっかり爛れてしまっただろうと少女は悲しい気持ちでいっぱいだった。


 だから鏡を見た時マルカは、思わず自分の目を疑った。


 とても美しいその鏡はマルカをありのままに映し出したが、倒れる前と比べても、見た目にはさほど特筆すべき所はなかった。

 むしろ、今までこんなに綺麗な鏡で自分を見た事が無かったから、そこにいる少女のはっきりとした輪郭に驚いたくらいだ。


 だがそれ以外は、マルカは相変わらずの少女で、貧相で、貧弱だった。

 裏返しても、表替えしても、増えても減ってもいなかった。


 体は小さく、生まれた時から一度も切っていない黒の髪はボサボサで、皮膚はあの火事の灰のせいでとても人族とは思えないほどに黒くも、灰色にも汚れていた。


 あえて言うのならば、看病のために拭われたのであろう顔の部分の肌の色だけが、若干いつもより白くなったと思うくらいだったが、それは多分かなりの時間寝込んでいたせいだと、マルカは思った。


 何も、差異はない。何も、変わらない。

 それだけ分かるとマルカは心底ほっとした。


 (奇形では、いくら生き残ってもこれから先、生きていくには辛すぎるもの)


 村の教会の傍に住む不親切なマーテルおばさんを思い出して、そう思った。

 彼女はマルカの知っている限り、ずっと奇形で、マルカはその事を可哀想に思っていたが、マーテルおばさんは、マルカのその悲し気な顔を見るたびに杖を振り上げた一人だった。

 デブでのろまで、欲しがり屋のアブルでさえ、彼女の持ち物は何一つだって欲しがらなかったくらいだ。

「私の顔がこうでなかったら、あんたなんかきっと」が、いつもの彼女の口癖だ。


 そこまで考えたマルカが安堵して上を仰ぎ見ると、途端にぎょっとする羽目になった。

 それは、間違っても見なければ良かった、と後になって心底後悔するほどだったから。


 天井に、それは美しい紋様が彫られていた。

 天井に紋様、それは、昔から貴族の家を表すもっともわかりやすい印の一つだった。

 そんな部分に財を掛けられるのは、貴族か、貴族になりたがっている騎士くらいだと大人が話しているのを聞いたことがある。


 それから、周りを見て、さらに飛び上がった。


 まず、部屋は思いのほか広く、窓が二つと、扉が一つ。

 部屋は隅々まで手入れが行き届いており、鏡と、大きなベッドと、サイドテーブルまで置かれていた。

 流石にクローゼットはついていなかったが、そこまでそろっていたら、本当に完璧な部屋だったが、それを抜きにしてもこの部屋の美しさが損なわれることはなかった。


 よくよく見てみれば、家具の一つ一つ、調度品の一つ一つにそれは細やかな装飾がなされている。

 決して華美な物ではなかったのに、それがかえってこの家の主の品の良さを思い起こさせた。


 ベッドはフカフカだったし、もしかしたら、シルクかもしれなかった。

 テーブルには済んだ色の飲み水(この辺りでこれほど綺麗な水は飲めない)が入っていたし、最初は気にしなかった鏡ですら、細部まで装飾がなされた上に、この辺りの村ではとても見られないほど美しく磨かれた鏡で、マルカの姿をそれは正しく映し出している。


 マルカは今まで鏡は神父様の部屋にあるくすんだ小さな手鏡しか見たことがなかったが、この部屋にあるそれは、マルカの全身を映すのも容易いほどに大きいかった。


 そして最後の最後に窓の外を見た時、マルカは心底ぞっとした。

 これは、きっとお貴族様の家なのだと、とうとう確信を持つことになった。


 マルカはどういう訳か二階建てのお屋敷の一角に居た。

 寝込んでいる間、どこかに出された覚えは無かったから、きっとマルカは一番最初入った時にこの立派な屋敷を、小さい小屋か何かとすっかり勘違いして戸を叩いてしまったに違いないのだ。


 その上、お貴族様から手当てを受け、さらにこのフカフカのベッドを自らが持ち込んだ汚れで、端から端まで汚してしまったらしい。

 ベッドのシーツは、マルカが苦しさに喘いだ分だけ、真っ黒に染まってしまっていた。


 あまりの恐ろしさににマルカは一度自分の灰に染まった服をぎゅっと握ると、後は何も考えずに、気が付いたら屋敷を飛び出していた。


 屋敷の中のどこをどう走って出たかは思い出せないが、とにかく外へ出る事は出来たから、ただ一直線に真っすぐと、駆けて、走って、転んで、また駆けた。


 貴族に捕まって、優しくされたとして、後には何が残る?

 良くても一生奴隷。

 悪ければ、王都の貴族で流行っているという、可笑しなマジナイの生贄にされるのが、目に見えていた。


 だから、マルカはもはや駆けるしかなかった。

 もし礼を求められて捕まるにしても、せめて、最後に一目兄弟に会いたいと思った。


 白く、黒く、所々が朱く燻る木々が、マルカの後を追う。

 ただただ、村へ向けての道を思いだそうと、ほとんどやみくもに駆けずり周った。

 だがどんなに進んでも焦げた森が終わることはなく、その大半は焼け落ちて、マルカにはもうどうやってもこの森が、あの瑞々しいベリーの取れる森であった頃を思い出すには至らなかった。


 そもそも、マルカの村はほとんど森の木々と共に在った。


 家も、無理やりに木々を切り開くのではなく、太い幹に寄り添うようにして一軒一軒が建っていた。

 素材として樹木を狩るときには、神への祈りのように木の精霊を感謝しながら倒したし、村の子供が悪さをして寝る場所に困ることがあれば、木々の上や、根の間で寝るのも当たり前だったほどだ。


 森には狼などの動物も暮らしていたが、大抵の場合、森の木々が彼らをけしかけるようなことはしなかったから、マルカ達村人は誰一人としてむやみに森を傷つけることはしなかった。


 だから、マルカが焼け落ちた村を見失ったとしても、もう仕方がなかったのだ。

 彼らは森と生き、森と死ぬ運命にあった。

 彼らは全員が、それも神様に仕えていたはずの神父様までも含めて、どこまでも森の民だったのだから。


 そうしてとうとう真っすぐに、崩れた森の残骸をつき抜けてしまうと、ようやくマルカは止まって、一つ、泣いた。なぜだか涙は出ない。

それでも心の底から、マルカは泣いた。




 兄のブランを想い、一つ。


 弟達、特にクエインと、マイリーを想い、一つ。


 神父様を想い、一つ。



 マーテルおばさんと、アブル、そして多くの村人達を想い、一つ。


 燃えた木々を想い、一つ。


 燃えた数多くの魂を想い、一つ。



 そして最後に、尊い精霊を想い、また一つ、泣いた。

 どうぞ皆を導いてくださいと、願って、泣いた。


 マルカの祈りは風に乗り雨を呼んだ。

 ポツリ、ポツリと始まり、それはさめざめと、それはざあざあと、音を立てて、マルカの世界を濡らした。マルカの代わりに空が泣いた。


 それからようやっと灰は地に落ち、森の最後の燻りを全て彼らの身の内に収めさせた。

 マルカはそれが自分の力だとは思わなかったが、森が、木々の精霊が、自分の願いを最後の力を使って聞き届けてくれたのだと、そう思った。



 そして、ぼんやりと雨に打たれながら黒焦げになった森跡を見つめるマルカを、ついに一人の男が肩を叩いた。


 マルカは、あの家の貴族が迎えにきたと思ったし、それはほとんどその通りだった。

 もうどこにも居場所がなかったマルカは、今度こそ彼に従うほかは無かった。いや、それ以外はもう考えようとは思わなかった。


 どうせどこにも居場所がないのだから、生贄でもなんでも、構わないではないか?


 彼は、力を抜いたマルカが身を預けたのを知ると、唐突に背中に翼生やし、それを大きく広げ、マルカを連れて悠々と飛び立った。

 まるで黒いカラスのような、または悪魔のような姿だったが、それでも、正直な所マルカはあまり驚きはしなかった。


「おかえりなさいませ、マイ・マスター」


 屋敷に戻った時に言った、彼の言葉に比べれば、ずっと、なんてことないと思ったからだった。

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