22.

 レベニカは仕事人間だ。

 休みをもらうよりも、仕事に精を出していたほうが、ずっと楽しいと思う。そういう人間だった。それは、もしかしたら父と同じなのかもしれないと思う事もあったが、そんなレベニカを母はいつも笑って見送ってくれていた。


 もしかしたら、母は本当は寂しかったのかもしれない。

 家で一人で、日々の暮らしを真っ当していた母は。

 たまに帰ってくる娘を文句も言わず迎え入れる、母は。

 父の帰りを、ずっと待っていた、母は。


 この男が父であると、その時レベニカは思う事が出来なかった。

 到底、認める訳にはいかなかった。そんな優しい母の為にも。



 レベニカの父は何にも負けない頑丈な体をしているのだと思っていた。

 あんなに、ぶよぶよとした血まみれの体では無かった。

 レベニカの父はとても大きな背中をしていると思っていた。

 あんなに丸めて、小さくなっている背中が父のものであるはずがなかった。


 それが父だとは、信じたくなかった。


 だからあの後部屋を移り、看病をせよとバイラム様に仰せつかった後も、レベニカは男を袋と思い続けた。


 袋はそれから、何も言わない。もがくこともしない。目を瞑り、じっと何かを耐えるかのようにただ、息をすることだけを繰り返している。


 上半身の皮膚が蝋燭の明かりに照らされて、じくり、と光って見える。

 見るのも耐え難い程に痛々しい。致命傷になるほどの大きな傷は見当たらないが、可笑しな事に皮膚を拭いてしばらくするとまた血が染み出てくるのだ。


 ヒュー、ヒューという擦れた息に耳を潰される。

 皮膚に染み出る眩むような血に眼を奪われる。

 背けたくなるような血生臭い匂いに、鼻を塞がれる。


 男の命の重みで空気が深海の奥底へと沈みこんでいくような感覚を感じた。


 これは父ではない。


 この震えは恐怖のせいではない。

 沈みゆく世界に、寒気を感じているだけだ。

 ぶんっと頭を振って、背筋を真っすぐに伸ばす。

 傍に、ショアン様が優しくすり寄り、私の手をぎゅっと握った。


 これは父ではない。


 知らぬうちに頬を伝う涙を、ショアン様が布で拭ってくれる。

 もう彼を寝かせなければ、と頭の隅で思った。ぎゅっと彼を抱き、その暖かさに頭を埋めた。


 この涙は父のためではない。

 誰とも知らぬ袋の痛みを思って流す、優しい涙なのだ。

 優しいショアン様を思って流す、嬉しい涙なのだ。


 決して、父を思って流す自分の為の涙などではない。


 だから、どうか。神よ。

 この袋を……この人を、助けてください。


 これは父ではない。と、そう思うことが唯一、レベニカがここにこうしていられる理由だった。そうでなければとっくの昔に、狂ったように叫び出して家へ飛び帰っていた事だろう。


 もしもあれが天使だったなら、神は試練でも与えようというのか。

 あの時、袋を伴ってあの部屋を出ようとしたとき、彼は虚ろな目でレベニカの顔を見ると、掠れた声で言った。


「すまない、母を……助けられなかった」


 一瞬、聞き間違えではないかと思った。

 なぜ、そこで母が出てくるのか、想像もつかなかった。


 しかし、戸惑うレベニカに銀の髪の男がさっと近寄ると、母が普段細い鎖に通して首に着けていたリングをそっと手渡した。隠すように、身に着けていた父との結婚指輪。今でもずっと、本当は待っているという、証。


 銀の髪の男は言う。

「彼は牢獄で拷問を受けていました。

 あちらに着いて早々に休みも無く鞭に打たれ、瀕死の重傷を負っていた所をたまたま通りかかった私が連れ出してきたのです。

 回復の魔法によって表面の傷をふさぐことはしたのですが、これ以上の回復を彼自身が受け付けず、首と腕内部の損傷を癒す術がありませんでした。もしかしたら血がたまり始めているのかもしれませんね。」


「拷問だと!?」

「回復魔法…………?」

「回復を受け付けないってどういうこと?」


 その場にいた人々は、それぞれの疑問を彼にぶつける。しかし、レベニカが思うのはそうではなかった。


 どうしてなのか、教えてもらわなければならない。

 どういうことなのか、知らなければならない。


 母を、父を、こんな目に合わせて、のうのうと暮らしているのは、いったい誰。

 首筋がぞわりとするほどの怖気が走った。


 その時ハインス様が目を背けたのを、レベニカは知らないふりをした。

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