28.

 バイラムの私室から出てくる黒い渦にハインスが眼を細めていると、徐々に渦が引いている事に気が付いた。ぞっとして、慌てて扉に手をかける。

 渦が引き始めているということは、犯人が目的を達成し、場から立ち去り始めたということに他ならないと思ったのだ。


「父上!」


 勢いよく扉を開けると、そこには開けた空間に置かれた大きなベッドと開け放たれた窓があり、風が吹き込んでカーテンが揺れているところだった。

 辺りを見回しても、もう誰も残っていない。


「ち、父う…え…」


 誰かがバイラムを攫ったようだ。辺りに血が垂れている様子もなく、争ったような跡もない。

 ギルの毒殺を見るに、眠り薬でも入れられて眠っている所を連れ去られたのだろう。


「しかし、それならなぜ私やレベニカには」


 父だけに用があるのなら、父以外の人間は全員まとめて毒殺したほうがどう考えても楽なはずだった。

 すると、誰も居ないと思っていた部屋の中、ハインスのすぐ後ろから突然生々しい声が聞こえた。





「叫び声が聞こえなくては、つまらないではないか」






 その言葉の後に、ガツンという音と共に、頭に何か大きなものがぶつかった。


「ぐあっ!? 」


 堪らず床に倒れると、あっという間に後ろ手に縛り上げられ父のベッドの柱の一つに手も足もくくらてしまった。


「な、何を……」


 血が頭から滴り、視界が霞む中で頭にすっぽりと黒い覆面を被った男と、三人の黒いローブを着た老人の笑う姿が見えた。その姿をどこかで見たような気もしたが、どうしてもハインスには思い出せなかった。


「いや、いや、いや、ご苦労じゃったなぁ。後の二人も探して連れて来るんじゃ」


「まったく。料理から縛りあげから、何をやらせても器用な男じゃて。女が残っていると聞いた。早ような」


「すまんなぁ。バイラム以外は好きにしていいと言われたものでなぁ。ほれ、とっとと行け。だが、ぬかるなよ」


 老人達はそれぞれ好き勝手にハインスと覆面の男とに声をかける。その言葉に、ふいに疑問が浮かんだ。


「ま、て……? 料理……?」



 しかし覆面を被った男は、ハインスを振り返ることなく館の闇の中へ溶けていく。その姿を見送ってから、舌なめずりをするように老人が答えた。


「ほほ、そうそう。この男は、長年そちらへ仕えさせていた料理人じゃよ。他の者はみーんな帰ってきおったが、この男だけはなぜだか大丈夫だったそうでなぁ」


「料理が上手いんじゃ。なんでもな」


「まったくじゃよ。さ、そんなことは良い良い。さっさと始めようぞ」


 右目で見ても左目で見ても、老人達からは何も感じ取れなかった。黒い渦も、清廉な白さも、どちらも無い。少なくともハインスの目には何も見えはしなかった。



 頭の中で、あの悪魔の氷のようなの声が聞こえる。

 ―――――『それは、貴方の言うような都合の良いものではないのですよ?』



 いつの間にかこの力を頼りにしていた自分が居た事に、ハインスは打ちのめされていた。神から授かりし力だと周りの言葉を鵜呑みにし、自身でも吹聴しながらも身近な人間から吹き出すどす黒い何かを見たくなくて、心の奥底で当然のように卑下していたくせに。


 力に、見放されたのだと知った時に初めて縋っていた事に気が付くだなんて。

 呆然としていると、老人の一人がそれを捉えてハインスの顔を覗き込んだ。




「ふむ、我らが見えていないな」


「なんと、それはつまらない」


「ならば、見えるようにしてやらねばのう」




 そう言って一人が鋭利な剣を懐から持ち出すと、何の躊躇も、気負いもなく、ハインスの肌を削ぎ始めた。


「ひっ!? ひぎぃっっ!!!!」

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