14.ハインス


 そこに集まる皆が皆、体から黒い煙を放っていて、近寄るだけで悪しき思いに囚われそうだ。


 自身の左目は恐らく父と同じものが見えているはずだ。

 カラフルで、華やかなこの国の人々。

 そこかしこに笑顔が溢れ、毎日が祭りのようなこの国。


 今もこの広場に集まっている人々には

「今何が起こっているのか知りたい」というような顔しか見て取れない。


 だが、右目は違う。

 本当は皆知っている。

 皆関わりたくないと思いながら、だが普段の不平、不満、鬱憤が堪った、その憎悪に燃える目を休ませようとは思わない。


 この渦の中心にいる人物が何をしたかそのものより、どこか面白がるような、そういう黒さがこの中にはあった。


 私は父と共に馬車を下り、人の渦へと向かう。

 その中で比較的色の白い人物を見つけると、父に促した。

 色の濃さはその人物がどれだけ不平や不満、また悪に手を染めているのかを表している。

 そしてそれはハインスの経験上では大抵、嘘つきかどうかを判断する材料にもなる。

 信に値するかどうかも。


 言葉の端に嘘が混じると、その人は口から大量の黒い煙を吐くようになる。

 人々はこの目は神付きだと言うが、ハインツにはそうは思えなかった。

 両目で見ると、その人が黒い汚濁に飲まれるのを見る羽目になるのだから。

 その様は、さながら人が魔人へと変貌する様子を見ているようで、ハインツはもう何年もこの景色を眺めては時折一人涙していた。

 一番悲しかったのは、今までほとんど白に近かったはずの幼い弟が、ある時を境に黒い煙を吐くようになった事だ。

 それは父もまた同じことだった。

 あれは、母が死んでしまった辺りからだろうか。


 少なくとも摂政バイラムの長男ハインスには、世界はそのように見えていた。

 一つは、色彩豊かに、一つは、モノクロの地獄のような世界に。



「すまぬ、これは何の騒ぎだ」


 父がそう尋ねると、周りの人間よりは比較的白い煙の色のその男は、父の顔と私の顔を見て、それは驚いた声を上げた。


「こっ、これは! 王弟様! ハインス様も!」


 ははぁ、と深々とお辞儀する。

 そも、父のような身分の人間がこのような場にいることはそうある事ではないので、彼の態度は当然の事だった。

 その彼に、父は手を挙げて答える。


「今はよい、それより教えてくれ。

 これは、何の騒ぎだ」


 父が言葉を繰り返すと、それには男は心底困ったような顔をして答えた。


「それが、ギル様が……理由は分からないのですが、あの者にいきなり怒鳴り込んだと聞いております。

 どうやら、お酒も召し上がっておられるようで」


 その名前に驚いた父は、この渦の中心人物を大急ぎで振り返った。

 そこに居るのは、兵士の格好のまま顔を真っ赤に染め上げ、何やら大声で怒鳴る兵長ギル・モントの顔が人々の頭の隙間から見えた。


「な、なんと……!」



 脱兎のごとく、父が渦の中をかき分け、入っていく。

 ハインスも慌ててその後を追った。

 人々は、押された拍子に黒い煙を噴出させるも、相手が誰だかを知った途端、その煙を引っ込めた。


 渦の中心に近づくと、私の足元にコンッと乾いた音を立てて、鎖のついた丸い穴の開いたものが落ちてきた。

 どうやら、中心から飛んできたようだ。

 中心で争うどちらかの持ち物だろうか。

 そう思い、顔を上げると、右目を刺すほどの白さが、ハインスを襲った。


「そこまでだ、ギル! ギル・モント! その手を今すぐに離したまえ!」


 父の声に、はっと意識を戻す。

 右目を手で覆い、左目だけで世界を見ると、兵士長ギルの腕には幼く黒い服を着た少女が今にも腕をへし折られそうな体勢で苦し気な表情を浮かべている。


 父である摂政バイラムが声を轟かせると、人垣が波のようにざっと割れた。

 中央に、少女と兵士長ギルが怒りも露わに取り残される。


「これは……どういうことだ?

 ギル、兵士長のお前ともあろうものが、酒に溺れ、このような騒ぎを起こすとは」


 バイラムの目にはあり得ないという言葉のみが浮かんでいるようだった。

 ハインツもギルとは何度も顔を合わせたことがあるため、父に信頼されているのを知っている。


 潔癖で、正義を重んじる兵士長ギル。


 その名は摂政を冠する父にとって、戦局を一任することのできる拠り所といっても良い程の人物の名であるはずだった。


 しかし今ハインツの左目に映るのは、兵士の格好をした獣だ。

 口の端から涎を流し、興奮し、まるで狂乱者のようだ。


 だが、それも父を見るまでのことだった。

 始めは焦点の合わないような顔で父バイラムの顔を見ていたが、みるみる内に青ざめていく。


「バイラム……殿下……」


 ギルのそれには父の眉根が寄った。


「言ったはずだぞ、もはや私は殿下と呼べぬと。

 次期国王は、すでにアルヤ王妃と決まっている」


 その怒気を含んだ声に、ギルはぐっと顔を項垂れ、そしてゆっくりと手の中の少女を解放した。

 突然解放されたせいか少女が地に鈍い音を立てて崩れるのが見えた。

 慌てて傍へ駆け寄り、少女を抱き起こすと、彼女は困惑の表情で突然自身を離したギルを見た。

 それほど解放されたことが信じられなかったのだろうか。


「ともかく、この件は後で話そう。

 今は自宅で謹慎せよ。沙汰は追って下す」


 父も少女が解放されたのを見ると、いくらか安堵した様子でギルにそう話した。

 兵士が酔っ払って民に暴力を振るうことは、まれにあることだ。

 戦争などで命のやり取りをしたことがある者は、理性を失った時にそういう行動に出る事がある。


 他国ではある程度仕方がないことだと割り切られているらしいが、この国ではほとんど厳しい処罰が下るのが通例となっている。

 なぜならばこの国は海上交易で富を成す、商業国家だからだ。

 もしも相手が国外のものであれば、噂が噂を呼び、信用問題にまで関わるという考えの元、そういう法律が作られている。


 だが、このギルという男の行動に限って父はどうしても信じられなかったのだろう。

 だからこそ、そこを曲げてでも謹慎という対応を取ったのだ。

 それに、少女をよく見てみればどこかを怪我したような様子もない。

 十分、謹慎処分だけで免れることが出来るだろう。


 だが、それにギルはかぶりを振って答えた。


「いえ、バイラム様。それは、なりませぬ」


「……? 何?」


「本日付けで、兵士長の任を解かれましてございます。

 一般人である私めを戒めるためには、謹慎ではいけません」


 ギルは、父にその言葉の意味が伝わるまで、しばらく待たなければならなかった。

 それくらい、父の反応は鈍いものだった。


「なっ!?」


「バイラム様。あなた様とのお約束、お守り出来ず申し訳ございません。

 この場にあなた様がいらっしゃるとは思いもよらないことではございましたが、最後にお会いできて嬉しゅうございました」


 ギルはそう言うと、驚愕の表情のまま固まった父に、深々と頭を下げた。

 その顔には、苦悶とも、悲壮とも取れる思いが刻まれている。

 そしてさっと体を起こすと、ようやくやってきた兵士達の元へと自身のその足でゆったりと歩いて行った。


 途中ハインスと少女の前で止まると、こちらにも頭を下げる。


「すまぬ、娘」


 先ほどまで押さえつけていた黒髪の娘にそう一言だけ残すと、駆け付けた兵士に導かれるように連れていかれた。


 父バイラムは、大柄なギルの小さくなった背中が見えなくなるまで、ずっと、その場に立ち尽くしていた。


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