(18)事の代償

 警察署から芳文のマンションに戻ってすぐ、貴子は職場である柳井クッキングスクールに電話をかけ、理事長である柳井に繋いで貰った。そして一通り事情を説明した上で自分の考えを述べると、予想通り相手が難色を示してくる。


「でも宇田川さん。それは完全なとばっちりでしょうし、あなたに非は無いのよ? 確かに午前中、ここに新野署の方があなたの話を聞きに来たけど。別に後ろ暗い事など何もないから、話すだけ話して丁重にお引き取り願ったわ」

 電話越しに伝わってくる困惑と怒りを内包した恩師の声に、貴子は譲原達の勤勉さに少し感心し、同時に職場で親しくしている者達に心底申し訳無く思いながら、改めて自分の意見を述べた。


「勿論そうですが、警察が事情を尋ねてきたという事実だけでも、そちらのイメージダウンに繋がりかねません。こちらから個別に連絡を取ってはいませんが、他の講師や職員の方にも迷惑をかけたかと思います」

「確かに話を聞かれた人は何人かいますが、皆さんあなたと親しい方ばかりだから、あなたの人となりを十分承知しているし、気を悪くはしていないわよ?」

「例えそうであっても、こちらの気がすまないんです」

 堂々巡りの議論に、柳井は諦めて妥協案を提示した。


「せめて普通に辞職する形にして貰えれば、所定の退職金は」

「いえ、法人内での理事長の立場を、これ以上悪くする訳にはいきません。是非、そちらの経営上看過できない不利益を被ったとかの適当な理由を付けて、懲戒解雇でお願いします」

 自分の言葉を遮って断言した貴子に、これ以上の説得は無理だと悟った柳井は思わず愚痴を零した。


「それだと確かに、上層部への私の面目は保てるけど、一般職員や生徒さんに対しての、私の立場が無いのよ……」

「柳井先生、最後まで私事でご面倒をおかけして、本当に申し訳ありません」

 調理師専門学校に入学する際の揉め事に加え、在学中やクッキングスクールの講師生活中も、折に触れ自分を庇ってくれた柳井に対し、貴子は電話しながら深々と頭を下げた。すると完全に説得を諦めたらしい柳井が、溜め息交じりに言ってくる。


「これ以上の説得は無理みたいね。分かりました。解雇という事で通達を出します」

「ありがとうございます。その様に取り計らって下さい」

「だけど、これからどうする気? タレント業も辞めると言っていたし」

 本気で心配している口調での問いかけに、貴子は苦笑気味に告げた。


「暫くは充電期間のつもりで、のんびりしようかと。調理師免許は保持していますし、仕事を選ばなければ働けます。幸いマンションのローンも、今年完済しましたし」

 その言葉に、柳井がしみじみとした声で応じる。


「本当に、これまでがむしゃらに働いていたものね……。そうね、暫くはのんびりするのも良いわね。少し羨ましいわ」

「はい、こんな事が起こらなければ、そういう気分にもならなかったと思いますし、予想外の休暇と思って満喫する事にします。それでは失礼します」

「ええ、元気でね。何かあったら連絡を頂戴。こんな事になったお詫びに、紹介状なら幾らでも書くから」

「解雇した人間にそんな物を書くなんて、人が良過ぎですよ、先生」

 再度苦笑いして通話を終えた貴子は、自身の携帯を閉じてソファーに座り直した。そして脱力した様に天井を見上げて、独り言を呟く。


「さあて、暫くは無職かぁ……。調理師学校卒業直後以来よね。新鮮だわ」

 そして何気なく、握り込んでいる携帯電話に視線を落とす。


(そう言えばあの小説の続き、今朝は転送されてきて無かったわね)

 荷物を引き取った際に手早く確認していた事柄を思い返し、貴子は自分の涙腺が緩んでいるのを自覚した。しかしそれを認めたくない様に再び顔を上に向け、見るともなく天井を見遣った貴子は、暫くそのまま座り続けてから、徐に立ち上がってキッチンへと向かった。


「お帰りなさい」

「ただいま。ああ、飯を作っていてくれたのか」

 帰宅した芳文は、ダイニングテーブルに並べられていた料理の数々に、挨拶をしながら軽く目を見開いた。その反応に、貴子は怪訝な顔になる。


「居候状態だし、これ位するわよ。何? その本気で驚いたリアクション」

「いや、お前に作らせるって考え、全く無かったからな。それに冷蔵庫とかに、大した食材は無かったんじゃないか?」

「そこはそれ、プロの料理人の面子にかけてどうにかしたわ。だけどこれまで引っ張り込んだ彼女とかに、料理を作って貰った事が無かったの?」

 茶化す様に言ってみた貴子に、芳文も笑いながら返す。


「基本的に、女はプライベートエリアには入れない主義なんだ」

 それを聞いた貴子は、ちょっと意外そうな顔になって謝罪の言葉を口にした。

「それは悪かったわ。私が転がり込むのは想定外だったのね」

「お前は構わないぞ? 女じゃなくて妹だし」

「ありがとう」

 ちょっと照れくさくなりながら貴子が礼を述べると、芳文が軽く肩を竦めながら言い出す。


「第一、今お前を一人でマンションに帰せるか。知り合いに頼んでこっそり見てきて貰ったら、案の定ばっちり張り付いていたそうだ。尤もここもそうだが。好き好んで、刑事なんぞにまとわりつかれたく無いだろ?」

「……ごめんなさい」

 現状を再認識して貴子は面目なさ気に頭を下げたが、芳文は豪快に笑い飛ばした。


「そんな事、一々気にするな。滅多に出来ない経験だし、徒労に終わる行為をしている連中を高みから見物するっていうのは、なかなか心地良い。好きなだけ居て良いぞ」

「そう言うと、ちょっと悪趣味に聞こえるわ」

 笑いを誘われた貴子が微笑むと、芳文は尚も明るく言い聞かせる。


「そうか? 気を付けよう。可愛い妹に嫌われたく無いからな。そういう訳だから、好きなだけここにいろ」

「そうさせて貰うわ。冷めないうちに着替えて来て」

「分かった。ちょっと待ってろ」

 そうしてスーツから楽なルームウェアに着替えてきた芳文と一緒に、貴子は夕食を食べ始めた。


「うん、美味い。やっぱりプロの腕前だよな。味が濃いって言うのとは違うが、旨味がしっかり感じ取れるし。火の通し方も絶妙だ」

「……うん」

「どうした?」

 上機嫌に食べ進めた芳文だったが、何故か貴子は手元の皿を見下ろしながら、心ここに在らずと言った風情で相槌を打った。その反応を怪訝に思った芳文が声をかけたが、貴子は小さく首を振っていつも通りの口調で返す。


「ううん、なんでもないの。でも、私が作ってるんだから、美味しいのは当然よ? 口に合わないなんて言ったら、力ずくで合わせてやるわ」

「おいおい。力ずくで合わせるって何だよ」

 苦笑いしながら話を合わせた芳文だったが、先程の彼女の様子を思い返して、内心首を傾げた。


(何だ? さっき一瞬、反応が変だった様に感じたが…。料理を睨みつけていた様な……)

 しかし自分から口にする気もないだろうと割り切った芳文は、あっさり話題を変えた。


「そうだ、貴子。今度の休みはいつだ? ウザいおっさん達に付きまとわれてうんざりしてるだろうから、どこかに気晴らしに行くか?」

「芳文に合わせるわ。こっちは当面、仕事は無いし」

 さらりと返された台詞に、芳文が手の動きを止め、軽く眉を寄せながら確認を入れる。


「仕事が無いって……。タレント活動は九月で止めるとは言っていたが、クッキングスクールも辞めたのか?」

「辞めたって言うか、解雇して貰ったの。捜査員が職場に私の交友関係を聞きに来て、絶対騒ぎになっているしね。対外的なイメージとか、色々あるのよ」

 その含みのある言葉に、貴子のクッキングスクールでの立場を容易に想像できた芳文は、小さく笑いを漏らした。


「そうか……。どこにも、そういうのに五月蝿い、小心オヤジが居そうだしな」

「そう言う事。だから当面は遠出しないで、のんびりするつもりだったから気にしないで。あ、でも、芳文がどこか出かけたいなら、構わず行ってきてね。それから生活費も入れるし」

「阿呆。お前一人住まわせた位で、手元不如意になるような稼ぎ方はしてないぞ。暫くここでゴロゴロしながら、おとなしく飯でも作ってろ」

「でも……」

「ただし、不味い飯を作ったら、即刻叩き出すからそのつもりでいろよ?」

 反論しようとした貴子だったが、ここで芳文が真顔で言い聞かせてきた為、笑いを堪える表情になって頷いた。


「ありがとう。暫くそうさせて貰うわ」

「よし、交渉成立だな」

 それからは世間話などをしながら何事も無く夕食を食べ終え、貴子は後片付けの為にキッチンに向かい、芳文は持ち帰った仕事をするからと、机を置いてある書斎に籠った。


「さて……。あいつ、今頃は異動直前できりきり舞いしてやがるか?」

 書斎に入るなり思案顔で携帯を操作した芳文だったが、想像したよりはかなり早く相手が応答した為、茶化す様な口調で声をかけた。


「おう、随分早く出たじゃないか。異動直前だってのに、引き継ぎとかもする必要が無い位暇だとか?」

「誰に物を言ってる。偶々休憩中だっただけだ」

「何だ、まだ職場か。それなら休憩中とはいえ、誰に何を聞かれるか分からんから、黙って俺の話を聞いて頷いてろ」

「どうした?」

 若干不機嫌そうな声の隆也に、さすがに芳文もこれ以上からかう事は得策では無いと判断し、早速本題に入った。


「貴子が柳井クッキングスクールを辞めた。どうやら解雇扱いにして貰ったらしい」

「だろうな」

 その淡々とした口調に、芳文は些か拍子抜けした。


「驚かないな。予測済みだったか?」

「あの性格ではそうするだろうと、見当をつけていただけだ。一応、それへの対策も考えている。後日、明らかにするつもりだ」

 それを聞いた芳文が、思わず小さく口笛を吹いて応じる。


「相変わらず手回しの良い事で。それから、当面は俺達に下っ端が纏わり付くんだろうな?」

「そうだな。一ヶ月強と言うところか? それ以上の期間成果を出せ無いままへばりついていたら、さすがにストップをかけざるをえないだろう」

「上の奴らは、自分の尻に火をつける羽目になりそうだな。自業自得だ。ところで、あいつに代わるか?」

 しかしその芳文の申し出に、隆也は幾分考え込んでから、静かに断りを入れてきた。


「あいつが素直に出るとは思えんな。無駄だ」

 それを聞いた芳文は、呆れた口調を隠さずに言い返す。

「お前……、いい加減にしないと、本気で愛想を尽かされるぞ? あいつは暫くはうちでゴロゴロする事になるから、マメに暇潰しになる物を貢ぐ位しろ。らしくなく、微妙に気落ちしてる風情だしな」

「暇潰し……」

 無意識に呟いたらしい言葉を発してから黙り込んでいた隆也だったが、すぐに別れの言葉を口にした。


「分かった。それは考えておく。じゃあな」

「ああ」

 そして素直に通話を終わらせたものの、芳文は(あいつ、本当に何考えてやがる)と、長年の友人の頭の中をかち割って調べてみたい衝動に駆られた。

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