(14)交差する思惑

「じゃあ貴子、風呂を入れて、先に入っていて良いぞ?」

「そう? じゃあお先に」

 自宅マンションに帰り着いて早々、体よく風呂場に貴子を追い払った芳文は、独り言を呟いた。


「さて、あいつに連絡を入れておかないとな。苛々してると思うし」

 そして隆也と幾つかのやり取りを済ませてから、紅茶を淹れてカップ片手にソファーに座り、ニュース専門チャンネルで事件の続報が入っていないかチェックし始めた。そんな事をしているうちに、貴子が身体にバスタオルを巻き付けただけの姿で、リビングに戻って来る。


「上がったか」

「ええ、さっぱりしたわ。気分爽快よ」

「それは良かったな。ああ、着替えを出しておくのを忘れてた。今出すから」

「そんなのは要らないから、芳文もお風呂に入ってきて。私、ベッドで待ってるから」

 腰を浮かせかけた芳文を、貴子は隣に座りながら笑顔で制した。それを聞いた芳文が、途端に嫌そうな顔になる。


「生憎と、今夜はそんな気分じゃ無い。悪い事言わないから、さっさと一人で寝とけ」

 そんな事を淡々と言われた貴子は、驚いた様に目を見張った。


「はぁ? じゃあどうして私を、テレビ局までわざわざ迎えに来たわけ?」

「そりゃあ、理性ぶっ飛ばして暴走しっ放しの、馬鹿妹の回収?」

「グダグダ言ってないで、付き合いなさいったら!」

 茶化す様な物言いに完全に腹を立てた貴子は、両手で芳文の肩を掴んだと思ったら、勢いを付けて相手に伸し掛かった。当然芳文と貴子はソファーに重なって倒れ、女に押し倒された経験など滅多に無い芳文が苦笑を漏らす。


「おいおい、いきなり襲うなよ……」

 その呟きに貴子は勢い良く身体を起こし、芳文の腰に跨って見下ろしながら、憤然として怒鳴りつけた。


「以前だって似た様な事言ってたくせに、最後は散々してたじゃない! やる気が無いなら、その気にさせてやるわよ!」

 そう言って乱暴な手つきで自分のシャツのボタンを外し始めた貴子を見て、それに抵抗などはしないまま、芳文がどこかのんびりと声をかけた。


「あのな、貴子?」

「何よ? 女に手間かけさせるなんて、最低よね!」

「一応忠告しておくが、そろそろ止めておいた方が良いと思うぞ?」

「余計なお世話よ。黙ってて!」

 シャツのボタンを全て外し終えた貴子は、勢い良く前を肌蹴させてから、座る位置を太腿の方にずらしてベルトのバックルに手をかけた。


「そうか? でも、そろそろ来る頃だと思うんだよな」

「来るって、何が?」

 難無くバックルからベルトを抜き去り、芳文のスラックスのファスナーに手をかけた所で、ふと貴子は芳文の台詞の内容が気になった。そして思わず手を止めて自分の下の彼に問いかけると、玄関の方から何故か物音がしたと感じた瞬間、それが近付いて来たのを認識する。


「ああ、来たか?」

「芳文! 回収した馬鹿はどこだ!?」

「……っ!?」

 渡されている合鍵で前触れ無しに玄関から入り、ドアを開けてリビングに踏み込んできた隆也だったが、ソファーの上の光景を見た途端、無表情になって固まった。それは貴子も同様で、明らかに芳文を脱がせようとしている体勢のまま、動きを止める。

 そんな二人を交互に眺めてから、芳文は苦笑で貴子を指差しつつ、隆也に訴えた。


「おう、バッチリ確保しといたぞ。だけどこいつ、ちょっとばかり血の気が多くてな。責任持って相手してくれないか? もしくは、強制猥褻罪で逮捕するとか」

「……なん、で」

「確かに、無駄に元気そうだな」

 貴子が無意識に漏らした声に、隆也がすっと両眼を細めて反応する。その表情をまともに正面から見てしまった貴子は、弾かれた様に芳文とソファーから飛び降り、自分の身体を隠す様にソファーの背凭れの陰に回って、身体を丸めて蹲った。


(なっ、何でこいつがここに来るわけ? それに芳文と以前からの知り合いなの? これは一体、どういう事!?)

 完全にパニック状態になっている、ダンゴ虫状態の貴子を背凭れ越しに覗き込んでから、芳文は隆也に向き直って苦言を呈した。


「おい、隆也。あまり怖がらせるな。後が面倒だ」

「俺は別に」

「心臓が弱い奴なら、あの世直行の顔してるぞ? 俺は見慣れてるから、耐性が有るがな」

「……邪魔したな」

 不機嫌そうに低く呟いてあっさり踵を返した隆也を、芳文は追わずにその場で見送った。そして「やれやれ」と首を振りながら姿を消して一分後、手に何かの書類を持ってリビングに戻って来る。


「おい、貴子。怖い顔した野郎は帰ったぞ。風邪をひくから、さっさとベッドに行ってろ」

 ソファーを回り込んで未だ丸まっていた貴子に声をかけると、彼女はのろのろと体を起こした。


「何で……」

「あ? どうした?」

「何であいつと知り合いって黙ってたのよ!! 二人で今まで、私を騙してたわけ!?」

 恐怖心が何とか治まり、今度は怒りが込み上げて来たのか貴子が掴みかかってきたが、芳文はそんな非難はどこ吹く風で受け流した。


「別に、騙していたわけじゃないぞ? お前だって個人的に付き合いがある全員について、俺に話したりはしていないだろう? それに『榊隆也と知り合いじゃない』なんて嘘は言っていない。俺のガキの頃からの友人と、お前が偶々知り合いだったのが、たった今判明しただけだ。本当に世間ってのは、広い様で狭いよな」

「そんな詭弁、平気で口にしないで!」

「そんな事より明日の朝までに、これを頭の中に叩き込んでおけ」

 そう言って問答無用で押しつけられたホチキス止めの用紙を、貴子は怪訝な顔で見下ろした。


「何、これ?」

「俺とお前の、三年間の愛の歴史」

「はぁ?」

「波間に漂う愛の漂流者の小舟のお前を、いつも寛大な心で受け止める港が俺だ」

「…………頭、湧いてるの?」

 すこぶる真顔で言われた内容に、貴子は相手の正気を疑った。しかしここで芳文がいきなり貴子の肩を掴んでソファーの背面にその身体を押し付けながら、真剣極まりない表情で叱り付ける。


「冗談抜きで、お前はこれから重要参考人になる可能性すらあるんだよ! まさかこの期に及んで、自分がやった事の意味を、分かってないとは言わないよな!?」

「分かってるわ……」

「だから! 黒に果てしなく近いグレーのお前と、あいつが少しでも余計な係わり合いを持つと思われたら、あいつの経歴に傷が付くだろうが!? そんな事は俺が許さん!! 万が一、お前があいつの足を引っ張る真似をしようものなら、あいつの代わりに俺が今すぐお前を埋めやるからそう思え!!」

「…………」

 本気でしかありえないその発言に、貴子は目の前の人物が、隆也の真の友人だと悟った。それと同時に今現在の自分の立場も、正確に再認識する。


「ちゃんと理解したか?」

「……ええ」

「じゃあさっさとベッドに入って、それを頭に叩き込みつつ、一人寝してろ。俺は色々忙しいんだ」

 そしてゆっくりと立ち上がった貴子は、かなり乱暴にリビングを叩き出され、よろめきながら寝室へと入った。しかしベッドまで行かずに、ドアのすぐそばで床にへたり込む。


「……覚えなきゃ」

 何分かそのままの体勢で呆けていた後、貴子は床に落ちた用紙を引き寄せ、自分自身に言い聞かせる様に呟き始めた。


「明日の朝までに、ちゃんと……。あいつはあのろくでなしとは違って、ちゃんとした優秀なキャリア官僚なんだもの。変な傷が付いたら、今後の出世に響く……。あいつと私は、無関係なんだから」

 そこで先程の隆也の表情を思い出してしまった貴子は、両眼から涙を溢れさせた。


「本気で、怒ってた……。絶対、愛想尽かされた……」

 そう口にした瞬間、無意識に手がその下の用紙を握り締める形になり、いびつな形に丸まった。更に滴り落ちた涙で用紙が酷い事になったが、貴何とか気を取り直し、それを広げつつしわを伸ばす。


「ふぇっ……、っぅ……、ぜっ、絶対っ……、お、覚えるんだからぁっ……。明日……、警察、行くしっ……」

 そしてすすり泣きの合間に、書かれた内容をぶつぶつと呟きながら暗記を始めた貴子の様子を、ドア越しに確認した芳文は、静かにその場から離れた。


「全く……。頭は良いのに、底抜けの馬鹿だよな……」

 そして困った様にがしがしと頭を掻きながら廊下を移動し、時間が時間だから戸締まりを確認しようと、何気なく玄関に足を向けた。


「うん?」

 そこでシューズボックスの上に、無造作に置かれている封筒に気が付いた芳文は、その中身を確認して渋面になった。そして早速、隆也に電話をかける。


「おい、隆也。玄関に置いてあったのは、何のつもりだ?」

「迷惑料だ」

 打てば響く様に返された言葉に、芳文は皮肉っぽく言い返す。


「俺とお前の仲で、今更そんな物必要無いだろ?」

「それと……、暫くあいつが世話になるだろうし、生活費と衣類その他の購入費に充ててくれれば……」

 今度は言葉を濁しながら告げてきた親友に、芳文は完全に呆れ果てた。


「あいつの事で、俺が金を出すのがそんなに気に入らないか? ちゃんと本人の前でそう言えよ。心配して慌てて来てみれば、男を押し倒してる真っ最中で、腹が立ったのは分かるがな。鬼の形相で威嚇しなくても良いだろ」

「その金の事は、あいつに言わなくて良い。それから、お前の名前で弁護士を手配した」

 強引に話を変えてきた隆也に、芳文は内心(困った奴だ)とは思ったものの、素直に話に乗る事にした。


「随分、手回しが良いな」

「早速明日、お前かあいつに、連絡か接触がある筈だ」

「了解。さぞかし優秀なんだろうな?」

「親父の事務所でピカイチの、刑事事件専門のヤメ検だ。依頼人はお前になってるが、費用は俺が全額負担する」

 もう皮肉を言う気力も無く、芳文はげんなりとして感想を述べる。


「……お前も大概、阿呆だよな」

「切るぞ」

「じゃあな」

 互いにこれ以上の議論は無駄と割り切った二人は、いつもの調子であっさり通話を終わらせた。そして芳文は再びソファーに深く腰掛け、薄笑いをしながらひとりごちる。


「さて、忙しくなりそうだ。久々に男に纏わりつかれそうだしな」

 そううそぶいた芳文は、封筒の中から一万円札の束を取り出して枚数を数え始め、一人不敵な笑みを零した。

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