(9)事件発生
これから出かけようと、バッグ片手に玄関に向かって歩き出した時、それを妨げる様に鳴り響いた電話の呼び出し音に、貴子は盛大に舌打ちした。
「全く。出掛けに何だってのよ?」
そしてディスプレイに表示された発信者名を見て、不機嫌さを隠す気などさらさら無くなった彼女は、ぞんざいに受話器を取り上げて、如何にも気乗りしなさそうに呼びかける。
「もしもしぃ~?」
「おい! どういう事だ!? 金を振り込んで十日経つのに、まだ分籍していないじゃないか!?」
いきなり怒鳴られたものの、完全に予想された内容であった為、貴子は冷笑で応じる。
「何のお話でしょう?」
「惚けるな!! 金を出せば分籍すると言うから指定の口座に振り込んだのに、まだ手続していないじゃないか!」
「益々、意味不明ですね。私名義の口座には、あなたからの送金なんてありませんが?」
あくまで惚けてみせた貴子に、啓介は歯軋りをしてから呻くように尋ねてくる。
「それなら、あの口座名義人の『カトウハルカ』と言うのは誰だ?」
「さあ? 何の事を仰っているのやら。益々、皆目見当がつきませんわ」
そしてクスクスと貴子が小さく笑うと、電話の向こうから忌々しげな声が伝わってきた。
「名義貸しか……。覚えていろ! 留置所の中で、たっぷり後悔させてやるぞ!!」
そう啓介が叫ぶと、いきなり通話が終了した。そして予想より早く会話が終わってせいせいした貴子は、苦笑しながら受話器を戻す。
「裏金作って脱税してるとかって勘違いするのは勝手だけど、国税局にタレ込んだりしたら、赤っ恥をかくのはそっちだけどね?」
そんな事を呟きながら、貴子は再びバッグに手を伸ばした。
「出掛けにケチが付いたわ。今日は気分良くランチを食べて、気分転換しよう」
そして密かに苛ついた気分を持て余しつつ、それを解消する算段を考えながら、貴子は外出した。
ちょっと贅沢なランチを一人でのんびりと楽しんだ後、貴子は口座を持っている銀行にやって来た。すると受付番号と窓口の呼出番号に結構差があり、落ち着いて待つ事にする。
(二時過ぎに来ちゃったから、結構人がいるわね。意外に時間がかかりそう。でも、まあいいわ。時間潰しに今朝届いた分を、読んじゃおうっと)
そして早速携帯電話を取り出し、今朝孝司から転送されてまだ読んでいなかった小説を読み始めた。しかしそれはものの五分程度で読み終わり、少し残念に思いながら画面を閉じる。
(よくよく考えてみたら、これって最初から繋げると結構な分量よね。一向に終わりが見えないし、どれだけの長編なのかしら? お蔵入りになった作品を、東野薫からあいつがお金を払って譲り受けたって孝司が言ってたけど、分量からしても内容からしても商業誌として十分出せると思うんだけど。あいつも東野薫も、何を考えてるか分からないわ)
そんな事をつらつらと考え、思わず脳裏に浮かんだ隆也の「どうだ、読むのを止められないだろう?」と言うようなしたり顔を、頭を振って打ち消していた貴子の耳に、突然至近距離で発生した女性の悲鳴が届いた。
「きゃあぁっ!」
(え、何?)
反射的に顔を上げた貴子の前方を、いつの間にか店内に入っていた、目出し帽に野球帽をかぶった複数の男達が横切った。まだ暑い時期にも関わらず黒いジャンパーを着込んだその集団を、貴子は呆然と見やる。
(まだ暑いのに、あの格好……、まさか強盗!?)
いつもの彼女らしくなく、その連中が各自手に銃らしき物を持っているのに遅れて気が付いた貴子は、慌てて立ち上がった。しかし強盗の一味は、まっすぐカウンター付近に居た学生らしい二十歳前後の男に近付き、彼を左腕でしっかり拘束して、その眉間に銃を突き付ける。
「な、何? ひ、ひいぃぃっ!!」
「動くな! 通報もするなよ? 余計な事をしたら、こいつの命は無いぞ!!」
「た、助けて……」
人質になった彼が真っ青になって棒立ちになる中、他の犯人が無言でカウンターの中に居る行員に向かって、ボストンバッグを投げ込む。
「このバッグに、ありったけ金を入れろ! 早く!」
「は、はいっ!」
犯人が叫びながら銃を構えた為、行員が何人か立ち上がってボストンバッグを持って奥へと走って行ったが、その他の者は誰一人身動きしないで固まっている店内で、貴子は冷静に状況判断をしていた。
(あらら、今時どこの店も即時通報システムがあるっていうのに、銀行強盗なんか成功する筈もないでしょう? しかもここから徒歩圏内に、警察署だって有るのよ? この犯人達、よっぽど頭が悪いのかしら?)
彼女が冷静にそんな事を考えていると、予想通り外から微かにパトカーのサイレンの音が伝わってくる。
「ちぃっ!! 警察に知らせやがったな!?」
犯人が苛立たしげに叫んだ為、殆どの者は益々緊張した顔付きになったが、貴子にとっては予想していた展開であり、再度椅子に座って事態の推移を見守った。
(そりゃあ、知らせるわよねぇ。恐らく誰かが通報ボタンを押してから、ここまで約三分。合格点ね。人数と装備を揃えた警察官が、この支店を包囲するまで、あと約五分。さあ、その間にさっさと逃げ出すか、諦めて自首しなさい)
すっかり高みの見物を決め込んでいた貴子だったが、ここで予想だにしていなかった事態が発生した。
(ちょっと! どこの馬鹿よ! シャッターを下ろしたのは!?)
貴子の目の前で、静かな起動音を響かせながら正面出入り口のシャッターが上からゆっくりと下り始め、犯人を含む中に居た人間の殆どが、軽いパニック状態に陥る。
「何? どうして閉まるの!?」
「まずい!」
「閉じ込められるぞ!」
「早く金を出せ!!」
(最悪……。どこの馬鹿よ。自分と一緒に、犯人を閉じ込めてどうするの!)
どう考えても行員の誰かがシャッターを閉めたとしか思えない状況に、犯人も待合室にいた客達も狼狽したが、皆が咄嗟にどうするべきか判断が付かない間に、スルスルと出入り口のシャッターが下りきってしまった。
「貴様ら! ふざけた真似しやがって! 全員、手を上げてこっちに集まれ! 早く! あと、ビルの上にいる人間も、全員下ろせ!!」
(やっぱり、あの電話でケチが付いたわね)
そんな犯人達の怒声が響き渡る中、貴子は心底うんざりとして肩を落とした。
結局先に人質を取られてしまっては、警備員も下手に反撃できず、真っ先に梱包用のビニール紐で両手首を縛られてしまった。更に裏口等を探しに行った犯人も時既に遅く、周囲にパトカーの気配を察知して、慌てて鍵をかけた上、手近な椅子や机でバリケードを築いてきた事を仲間達に報告する。
それを耳に挟んだ人質の面々は、犯人達が八方塞がりの状態になった事が分かったが、ここで行員の一人が勇気を振り絞って犯人達を説得にかかった。
「き、君達。馬鹿な事は止めて、自首しなさい。こんな事をして良いと思ってるのか?」
しかしそれなりに肩書きも有りそうな中年男性がそう口にした途端、激昂した犯人の一人に銃のグリップで殴り倒される。
「うるせえ! ガタガタぬかすな!」
「ぐぇっ!」
一階待合室に集められた人質達の中から小さな悲鳴が上がったが、その状態でも貴子は冷静に状況分析を続けていた。
(う~ん、どうしたものかしら? 諦めて投降してくれるのが一番良いんだけど、とてもそんな雰囲気じゃないのよね。犯人達、今は気が立ってるみたいだし)
取り敢えず全員を一階ロビーに下ろし、上層階に誰もいないと確認した後は、犯人達は固まって何事かを小声で相談していた。その一部始終を眺めながら、貴子は軽く眉根を寄せる。
(でも手首を前で縛っているし、やっぱり素人っぽいって言うか、犯罪し慣れていない印象だわ。それに、あの銃って本物かしら? 最近はモデルガンでも高性能の物があるから、手を加えれば素人目には分からなくなるのよね。かと言って、実際に撃たせてみるわけにも……)
堂々巡りになりかけた思考を中断し、ここで貴子は一つ気になっていた事について、考えを巡らせ始めた。
(さっきから主に喋ってるのは、真ん中のリーダー格のあの男。声からすると若い感じだけど……。どうもこの犯人が引っ掛かるのよね)
他の犯人とは一人だけ離れ、自分の傍で人質を見張る様に一人で佇んでいる犯人を見上げた貴子は、ある一つの仮定を導き出した。さらに出がけに不愉快な思いをさせられた事に対する、意趣返しまで思いつく。
(住所の管轄の方面本部長に、あいつが就任したって聞いた時は、本気で引っ越しを考えたけど、今回上手くやればあいつに一泡吹かせてやれそうだわ)
そんな風にほくそ笑んだ貴子の脳裏に、かつて隆也と交わした会話が思い浮かんだ。
『あんたに微塵も関係無い話よね?』
『関係は無いが、少なくてもお前の代わりに一人、優秀な人物が試験に落ちた筈だ。お前は自覚していないかもしれないから、一言言っておこうと思ってな』
(これを知ったら、あいつは絶対に怒るわね。融通が利かないってわけじゃないけど、変な所で真面目だし。……ちょっと、あいつには関係ないわよ! 何を考えてるの!)
その会話と共にその時の状況を思い返した貴子は、一瞬内心で迷いを見せたが、すぐにそれを打ち消して、再度計画内容を頭の中で確認した。
(この支店は他にテナントや住居が入っていない、単独六階建てビル。しかも両側のビルはここよりも高さが無くて間に通路があるから、短時間で多人数の捜査員を突入させる事は困難。面している道路は片側三車線の都道と、交差している片側一車線の道路。地下鉄の出入り口がすぐ近くで、人の行き来と交通量もそれなり。そうすると周囲を封鎖すると言っても、通行量と迂回路の関係でせいぜいワンブロック。周囲が暗くなるまで引っ張れば、何とかなりそうね。後は犯人が、この話に乗って来るかどうかだけど……)
そこで貴子は至近距離に居る犯人を見上げて、覚悟を決めた。
(一か八か、やってみるか)
そして腹に力を込めて、些かわざとらしく喚き立てた。
「ちょっと! そこの犯人のリーダーっぽい人! 仲間内でグダグダ言ってないで、トイレ位行かせなさいよ!」
「なんだ、うるせえぞ!」
苛立たしげにリーダー格の男が怒鳴り返したが、貴子はそれ以上の剣幕で訴えた。
「こちとら生理痛で気が立ってんのよ! ポーチに入れてある、痛み止めも飲みたいんだから! 心配なら、この人にでも見張らせておけば良いでしょ? どうせあんたはこの場を離れないだろうし。行かせないんだったら、喚くわよ! これ以上は無いって位、神経を逆撫でしてあげるから!」
「宇田川さん! 逆らったら駄目です!」
貴子の切れっぷりを見て、近くにいた行員の女性が真っ青になって宥めたが、それが犯人達の興味を引いた。
「何だ。お前ら知り合いか?」
「直接の知り合いじゃないけど、こちらの方は私の顔をテレビか何かでご存じだったみたいね。光栄です」
「ど、どうも」
営業スマイルで会釈した貴子に、同年代の制服姿の女性が強張った笑顔で返す。すると犯人が怪訝な声を出した。
「テレビ? 芸能人か何かか?」
「タレント活動もしてる、料理研究家の宇田川貴子よ。さあ、どうなの? 行かせてくれるの? くれないの? 行かせないとか、非人道的な事をほざくなら」
「ちっ、行って来い。そいつを付ける」
自分の言葉を遮って渋々許可してきた相手に、貴子は軽く礼を言いながら立ち上がった。
「どうも。私の後に、他の人も交代で行かせてあげてよ?」
「分かってる」
盛大に舌打ちした音が生地越しにも聞こえ、周囲の人質達はびくりと身体を揺らしたが、貴子は平然と立ち上がった。そしてまず手首の紐を解いて貰ってからバッグからポーチを取り出し、手が自由になった瞬間から銃口を向けられながらも、悠然とフロアの奥にあるトイレに向かって歩き出す。そして斜め後ろを歩く犯人を意識しながら、考えを巡らせた。
(ここまでは順調。あとは、私の読み通りかどうかよね……)
そして通路を少し歩いて女性用トイレに到達した貴子は、二人で中に入った直後、背後を振り返って満面の笑みで語りかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます