(3)芳文の趣味

「……ねえ、芳文」

「何だ?」

「ここを出たらホテルに行かない?」

 それを聞いた芳文は、ちょっと驚いた表情になった。


「はぁ? まさか憂さ晴らしに、これからお前とやれってのか?」

「何か不満?」

「俺は近親相姦の気は無いんだが?」

 真顔で言われた内容に、貴子が意外そうな顔を見せる。


「あら、完全に妹扱いだったのね。じゃあ無理にとは言わないわ。今言った事は忘れて頂戴」

 そう言って溶けかけたシャーベットを平らげにかかった貴子だったが、芳文が渋面になりながら確認を入れてきた。


「おいおい、まさか俺が相手しないなら、ここを出たら通りすがりの男に、適当に声をかけるわけじゃ無いだろうな?」

「別に芳文には関係ないでしょう?」

 素っ気なく答えて緑茶を飲んだ貴子に、芳文は忌々しげに告げた。


「拗ねるなよ。本当に面倒臭い奴だな。せっかくの料理も、さっきから仏頂面で食いやがるし」

「…………」

 思わず愚痴っぽくなった相手の話を貴子は無言で聞いていたが、ここで芳文が諦めた様に溜め息を吐き、ある事を提案してきた。


「分かった。今夜はお前の相手をしてやるから。その代わり、俺のマンションまで来い」

「どうして?」

 まさか場所を指定されるとは思っていなかった貴子は、不思議そうに尋ねたが、対する芳文は真っ当な理由を口にした。


「お前はどうか知らんが、俺は明日も朝から仕事だ。九時の開院に合わせて、八時半には揃う看護師や医療事務、他の勤務医との申し送りや打ち合わせの準備の為に、俺は八時十五分までには出勤しておかないと拙いんだよ」

「……意外に真面目ね」

 思わず正直に口に出してしまうと、芳文が軽く貴子を睨み付ける。


「俺はいつでも真面目だ。と言うか、仕事に穴をあけないのは、社会人の基本だろうが」

「ごもっともです」

 全く反論できない貴子がすまなそうに頭を下げると、ここで芳文は表情を緩めて問いかけてきた。


「幸い、職場は俺のマンションの下層フロアにあってな。ドアからドアまで三分だ。どうだ。羨ましいだろう?」

 その自慢する口振りに、貴子の顔も自然に綻ぶ。


「最高の職場環境ね。本当に羨ましいわ」

「そういう訳だから、朝バタバタしない様に、場所は俺が指定させて貰う。何か異論はあるか?」

 そこまで言われて、反論などできようもない貴子は、神妙に頭を下げた。


「いえ、ありません。急で申し訳ありませんが、お邪魔させて頂きます」

「素直で宜しい」

 そして話が纏まり、貴子は再び湯飲み茶碗を持ち上げたが、ここで芳文が思い出した様に言い出した。


「そう言えば……、明日休みを取ってた医師に、確認しておく事が有ったんだ。せっかく思い出したから、今日のうちに電話で聞いておくか。個人情報に触れる内容だから、一応店の外で話してくる。ちょっと待っていてくれ」

 そう言いながら立ち上がった芳文に、貴子が鷹揚に頷く。


「分かったわ。行ってらっしゃい」

 そうして貴子に見送られて個室を出た芳文は、そのまま店内の通路を抜け、出入り口から外へと出た。


「全く……、本当に面倒臭い奴」

 そんな悪態を吐きながら、芳文は素早い動きで取り出したスマホである番号に電話をかけ始める。そして相手と繋がったと判断できた瞬間、相手の確認もせずに一方的に話し出した。


「俺だが、今暇か? これから何か用事があっても即刻キャンセルしろ」

 いきなりそんな要求をされた隆也は、さすがに電話越しに困惑した声を出した。


「芳文? お前藪から棒に、いきなり何を言い出すんだ」

「いいから黙って俺の話を聞け」

 舌打ちしたい気持ちを何とか堪えつつ、それから芳文は手短に隆也にある事を伝えて通話を終わらせた。そして何食わぬ顔で貴子の元へと戻り、食事を済ませてから二人で自宅へと向かった。



「さあ、入ってくれ」

 芳文がそう言いながら、通されたリビングは十分な広さがある上、インテリアも落ち着いたアースカラーで統一されていた為、貴子の予想は良い意味で外れた。


「へえ? 思ったより、片付いてるのね。男の独り暮らしなんだし、もっと雑然としてるのかと思ってたわ」

「期待にそえなくて悪かったな。じゃあちょっと珈琲でも淹れるから、座っていてくれ」

「分かったわ」

 貴子の率直な感想にも気を悪くした風情を見せず、芳文はおかしそうに笑ってキッチンに消えた。その為遠慮なく室内をぶらついて観察していると、ガラス戸の付いた本棚の中段に、フォトフレームが立ててあるのに気が付く。


(家族写真? 三兄弟の末っ子だって言ってたから、そうよね)

 夫婦と息子三人と思われる、どこか同じ血の繋がりを感じさせる集団の写真を眺めた貴子は、一瞬それを投げ捨てたい衝動に駆られたが、扉を開けようと手を伸ばした所で背後からかけられた声に、瞬時に平常心を取り戻した。


「待たせたな。ほら、珈琲を淹れたから飲め」

「ありがとう。貰うわね」

(危ない……、何いきなり切れかけてるのよ、私)

 本棚に背を向けた貴子は、キッチンから両手にマグカップを持ってやって来た芳文に礼を言い、何食わぬ顔でカップを受け取った。そして二人で向かい合って飲み始めたが何となく無言になってしまった為、多少居心地の悪さを感じた貴子が、先程の写真を指差して尋ねてみる。


「そう言えばあの写真って、昔、家族全員で撮った物?」

 それに芳文は、一瞬躊躇う素振りを見せながらも答えた。

「うん? ……ああ。今では滅多に実家には帰らないが、一応な」

「滅多にって……、どれ位の頻度で帰ってるの? 実家が遠いとか?」

 いつもの彼らしくない歯切れの悪さに、貴子が思わず質問を重ねてしまうと、芳文は些か困った様に説明した。


「そうだなぁ……。確か最後に顔を合わせたのが、下の兄貴の結婚式の時だったから……。ここ十年位、顔を見てないか? 実家は都内だが」

「……色々、複雑そうね」

 本能的にこれ以上踏み込んだら拙いと察した貴子は、それ以上の追及を止めた。対する芳文も笑って誤魔化す。


「まあな。でも家族仲が険悪って訳じゃないし、俗に『便りが無いのが良い便り』とも言うだろう?」

「確かにそうね」

 それ以上貴子は問い質す事なく、カップを口に運んだ。そして飲み終わったのを見て、芳文が声をかける。


「じゃあ貴子、風呂はセットしてあるから、先に使って良いぞ。着替えは上がるまでに、脱衣所に置いておいてやるから」

「ありがとう。じゃあ、そうさせて貰うわ」

 そう言って立ち上がった貴子を見送り、芳文はメールを一件送信してから自身も立ち上がった。そして彼女の着替えを脱衣所に準備してからリビングに戻り、溜まっていたダイレクトメールなどの整理をしていると、ドアを開けて風呂から上がった貴子が顔を覗かせる。


「芳文?」

「ああ、上がったか」

「かなり強引に押し掛けておいて、文句を言うのもなんだけど、シャツ一枚だけってどうかと思うの」

 着込んだブカブカのサイズのコットンシャツの裾を摘まんで軽く引っ張りながら、ちょっと困惑顔で告げてきた貴子に、芳文は苦笑した。


「悪いな。普段女は連れ込まないから、女物なんか用意してないんだ。だが、それほど不自由はないだろ? すぐベッドに入るんだし」

「まあ、それはそうなんだけど……」

「ほら、体冷やすぞ? ベッドに案内するから、さっさと毛布にくるまってろ」

「はいはい」

 少し呆れ気味に頷いた貴子は、湯冷めしない様に大人しく芳文に付いて歩き出した。そして寝室に案内されてさっそくベッドにもぐりこんだが、芳文が何やら棚の引き出しを開けてゴソゴソしていたと思ったら、目的の物を取り出してそれを貴子に向かって差し出す。


「ちょっと言い忘れてた。今日はこれを使え」

「……何、これ?」

「見ての通り、アイマスクと耳栓だが?」

 軽く目を見張った貴子に芳文は事も無げに答えたが、それを聞いた彼女は益々疑わしげな表情になった。


「私が聞きたいのは、どうしてこの場面で、こんな物が出てきたのかって事なんだけど?」

 その問いかけに、芳文は真顔で説明を加える。

「外部からの刺激が少なくなると、残った感覚が鋭敏になるって話を聞いた事は無いか?」

「それは、確かに何かで聞いた事はあるけど……」

「お前明らかに欲求不満で、普通のセックスじゃ満足できなさそうだものな。こういうのを使えば普段と感じ方が違って、これまでとは違った方向に、開眼できるかもしれないぞ?」

 どこまでも真顔で告げてくる芳文を、貴子は思わず半眼で見やった。


「そういう趣味だったんだ……」

「こら、何をドン引きしてる! 断っておくが、俺は変な性癖の持ち主じゃないぞ? 手錠もロープも持ち出して無いだろうが!」

 軽く拳で自分の頭を小突いてから、堂々と主張してきた芳文に、貴子は軽い頭痛を覚えた。


「それ……、威張って言う事なの?」

「当たり前だ。声を大にして主張させてもらうぞ。どうしても嫌だったら、さっさと自分で外せば良い状態でやるんだからな。下手だって言うなら、殴っても構わないぞ。言っておくが、それなりに自信はあるがな」

 そう言って不敵に笑った目の前の男に、貴子は思わず失笑し、小さく頷く。


「分かったわ。じゃあせっかくだから、今回は使ってみようかしら」

「最初から素直にそう言え。じゃあ、ちょっと休んでてくれ。俺はちょっと明日の準備をしてから、風呂に入って来るから」

「はぁい。分かりました」

 楽しそうに軽く手を振って、部屋の照明を常夜灯にしながら出て行った芳文を見送ってから、貴子は受け取った代物を見下ろし、呆れ気味に溜め息を吐いた。


「いきなり、何かと思ったわよ。全くもう」

 そう文句を言いつつも、貴子は面白半分で大人しく耳栓とアイマスクを装着して、再び毛布の中に潜り込んだ。

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