(4)合鍵

「はぁ……、流石に今日はちょっと疲れたわね。……え?」

 その日、貴子が仕事を終えてマンションに帰り着くと、エントランスの壁に寄り掛かる様にして、仏頂面で腕組みしている隆也の姿を認めて面食らった。

 対する隆也は、貴子のこめかみの辺りに割と大きく貼られているガーゼを見て不機嫌さに拍車がかかったが、その事には言及しないまま相手を盛大に睨みつける。


「遅い。この俺を一時間近く待たせるとは、良い度胸だな」

「何やってるの? 今日来るなんて、言ってないわよね?」

「連絡はした。電話もメールも繋がらなかったのは、そっちの怠慢のせいだ」

「電話とメール?」

 怪訝な顔をして考え込んだ貴子だったが、その理由をすぐさま思い出した。


「そう言えば、病院に行った時、電源を落としてそのままだったわね」

「そう言えば、じゃあないだろう。さっさと開けろ」

 貴子の口にした理由を聞いて、心底呆れた表情になった隆也は組んでいた腕を解き、自動ドアを指差しながら催促したが、貴子は眉を顰めて相手を手で追い払う素振りをした。


「あのね……、生憎と、今日は疲れてるから、あんたの相手をする暇はないの。さっさと帰ってくれる?」

「そうはいくか。こんなみっともないヘマしやがって。西脇から聞いたぞ。頭を打ち付けた挙句、顔に傷をつけるとは何事だ。この間抜け女」

(そう言えば、上司だったのよね……。洗いざらい報告済みか)

 自分でも(確かに間抜けだったかも)と冷静に考えつつ、(でもこいつに馬鹿にされるいわれは無いわよ)と内心で腹を立てた貴子は、冷たく相手を見やった。


「だから何。あんたは医者じゃないし、この場合、全くお呼びじゃないんだけど?」

 しかし隆也は淡々と言い返す。

「お前が誰かと同居してるなら話は別だが、一人暮らしだろうが」

「それが?」

「頭の怪我は後から症状が出てくる事もあるんだ。一人でいて、急に具合が悪くなったらどうする」

「はぁ?」

 思わず間抜けな声を出し、(何か変な事を聞いたわ)と怪訝な顔をしてから、貴子は疑わしげに確認を入れた。


「何? あんた、もしかして、私の事を心配して、ここまで様子を見に来たわけ?」

「そんなわけあるか。自分の部下と被害者を庇った挙句怪我をした、とんでもなく馬鹿な女を笑いに来ただけだ」

「何の事かしら?」

 素っ気なく言い放った隆也に、貴子はすっとぼけたが、隆也は気にする事無く平然と話を続けた。


「この場合、西脇の代わりに殴られたのはついでだな。詐欺事件は、被害者が被害届を出さないと立件できない。だが結婚詐欺にあったなんて外聞が悪いと、被害届を出さないケースが多々あって、なかなか送検できないのが実態だ」

「一般的にはそうでしょうね」

「加えて、手続きを要請した場合、騙されたと知って逆上した被害者が、説明する立場の西脇に暴行を加える可能性もある。その場合最悪、公務執行妨害に問われる可能性もあるが、お前相手に逆上したら単なる傷害罪。更にお前が申告しなかったら、そもそも罪には問えない。……お前、暴行を受けたと、訴える気は皆無だろう?」

 そう言って貴子の顔を窺いながら確認してきた隆也だったが、彼女は平然と言い返した。


「何の話? この怪我は偶々、荷物を持って階段を下りていた時、足を踏み外して手摺に額をぶつけただけよ。箱の中身が愛用の調理器具だったから、咄嗟に手を離せなくてね」

 そう言って肩を竦めた貴子に、隆也もこれ以上突っ込むのを止めた。


「そうか。ところで例の被害者、どうしてだか真っ青になりながら、西脇の要請を受けて被害届を出してくれたらしいぞ。勿論、詐欺グループも、一網打尽にできたしな」

「そう。じゃあこれ以上、詐欺の被害が出なくて良かったわね。お休みなさい」

 そう言ってさっさと隆也の目の前を通り過ぎようとした貴子だったが、素早く片手を掴まれて、軽く引っ張られる。


「本調子じゃないのは分かってる。今日は何もしないから泊めろ」

「……分かったわよ」

 すこぶる真面目に、半ば脅迫された貴子は、それ以上突っぱねるのを諦めて、溜め息交じりに了承した。そして自動ドアのロックを解除し、ガーゼで保護してある部分を隠すかの様に、不機嫌そうに隆也から顔を逸らしつつ、無言でエレベーターに乗り込む。

 対する隆也も怪我の具合を尋ねる事などせず、無表情で彼女の後に付いて行き、いつも通り部屋に入った。


 それからは無駄口を叩かず、二人は手際良く寝る準備を済ませたが、隆也が遅れて寝室に入ると、先にベッドに腰掛けていた貴子が、面白く無さそうな表情のまま、壁際の方を指差しながら促した。

「ほら、さっさと向こうに行って」

 それに隆也は思わず渋面になる。


「お前……、この期に及んでも、俺より先に起きるつもりか?」

「起きるんじゃない?」

 当然の如く言われた為、隆也は溜め息を一つ吐いただけで、それ以上何も言わずにベッドに上がった。そしていつも通り奥に隆也が横になり、彼に背を向ける形で手前に貴子が横になって寝ようとしたが、身体に布団を掛けたところで、背後から不機嫌そうに隆也が声をかけてくる。


「……おい」

「何? 眠いんだけど?」

「今度、ここの合鍵をよこせ」

 背中を向けたまま応じた貴子だったが、予想外の事を言われた為、身体を半回転させて隆也と向き合いながら、怪訝な顔で尋ねた。


「どうしてあんたに、そんな物を渡さなくちゃいけないのよ?」

「これまでの男には、渡していたんだろうが?」

「どうして男にそんな物、渡さなくちゃいけないのよ?」

「渡した事が無いのか?」

「……ここに来てからはね」

 微妙に噛み合わない会話に、隆也は思わず戸惑った表情になった。そしてふてくされている様にも見える貴子に、少々険しい口調で質問を続ける。


「じゃあ、誰もここの合鍵は持っていないのか? 本当に何か不測の事態があったら、どうするつもりだ。ここは分譲マンションだろう? 管理室や管理会社で、マスターキーは保管しているとは思うが」

 そう隆也が問い詰めると、貴子は不承不承と言った感じで答える。


「一応……、弟は持っているわ」

 それを聞いた隆也は、すかさず考えを巡らせる。

「弟? 母方の上の方だよな? 都内で独り暮らしをしている筈だし」

「ええ。祐司の方。でも……、そうか。この機会に、鍵は返して貰おうかな……」

「どうして鍵を返して貰う必要がある?」

「え?」

 誰に言うともなく小声で呟いた貴子に、隆也が怪訝な顔で問い掛けた。そこで貴子は自分が考えていた事を、無意識に口に出していたらしい事に気付き、小さく舌打ちしてから神妙にその理由を告げる。


「だって……、暫く連絡が付かないって様子を見に来たら、姉の変死体を見つけた、なんて事になったら気の毒過ぎるわよ。後始末を頼む為に、鍵を渡した訳じゃないんだし」

 貴子は正直に考えていた事を口にしたが、それを耳にしても隆也はドン引きする事無く、事も無げに言ってのけた。


「何だ、そんな事を気にしているのか。それなら尚更、返して貰った鍵を、そのまま俺によこせ」

 如何にも(何をつまらない事を言ってる)的な空気を醸し出しながら告げてきた相手に気分を害しつつ、貴子は刺々しい声で言い返した。


「だから、どうしてあんたに鍵を渡さなくちゃいけないのよ?」

「俺は一般人と違って、死体を見ても動揺しない」

「はぁ?」

 ベッドの中で向き合ったまま、真顔でそんな事を断言されて、貴子は本気で面食らった。しかし隆也の主張は更に続く。


「刺殺や殴打による死体なんか、資料や現場で何体見たか覚えていないし、焼死体に轢死体、溺死体に転落死体、一通り見た経験はあるからな。流石に最初の頃は、物が食べられなくなった時期があったが、最近は焼死体を見たその日の帰りに、焼肉も食べられるぞ。お前がここでミイラ化してようが、腐乱してようが、責任を持ってきちんと後始末してやる。心配するな」

 堂々とそんな事を保証されてしまった貴子は、呆気に取られてから小さく噴き出した。そして笑いを堪えながら、皮肉っぽく呟く。


「なるほど。本職だものね。どんな死体でもどんと来いか」

「だからグタグタ言わないで、さっさと渡せ」

「そうね。そのうち、考えておく事にするわ……」

「おい」

 クスッと小さく笑ってから目を閉じた彼女に、隆也は不機嫌そうに声をかけたが、どうやら相当眠かったらしく、貴子はすぐに寝息を立て始めた。その為、隆也はそれ以上話を詰めるのは諦め、貴子の寝顔を眺めながら、苦々しく呟く。


「考えておく、か……。こいつ、全然その気が無いくせに」

 そんな悪態を吐いたものの、隆也はきちんと彼女の肩まで覆う様に毛布と掛け布団を直してから、自分も目を閉じて眠りについた。

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