(8)事の顛末
「あんた、衣笠さんだろう?」
「ああ」
一見、自由業と思われる、カジュアルな着こなしの四十代の男が、衣笠のテーブルに歩み寄って声をかけた。それに固い声で衣笠が応じると、苦笑いしながらその向かい側の椅子に腰を下ろす。そして近寄って来たマスターに珈琲を注文してから、衣笠に向き直って早速用件に入った。
「悪かったな。向こうで、急に仕事を頼んだそうで。それでブツは?」
「……止めた」
ボソッと呟かれた内容を聞きのがし、藤川は不思議そうに問い返した。
「あぁ? 今、何て言った?」
「あんたに渡すのは止めた。これを持って警察に自首する」
隣の椅子に置いていたセカンドバッグを引き寄せ、しっかりと顔を上げて自分と対峙してきた衣笠に、藤川は愛想笑いをかなぐり捨て剣呑な視線を向けた。
「てめぇ……、何を言ってる」
「やっぱり美弥子に汚い金は渡せん。俺のせいで泰子共々散々苦労させたのに、結婚にケチをつけさせる様な真似は」
「寝言はいい。さっさとブツを渡せ」
もはや議論する余地は無いと言わんばかりに藤川は衣笠の声を遮り、右手を自分の腰に回してスラックスに挟み込んでいた拳銃を、ジャケットの下から取り出した。そしてテーブルの下に両手を入れて安全装置を外し、不敵な笑いを見せる。
「痛い思いは、したく無いよな? このまま膝を打ち抜かれたいか?」
「…………」
先程の微かな音が何かを悟って衣笠は蒼白になって固まったが、指揮車の中では怒号が湧き起こった。
「課長! セーフティーロック解除音です!!」
「銃刀法違反の現行犯逮捕だ。拳銃保持者には発砲を許可! 直ちに被疑者を確保しろ。店主の安全確保も怠るな!」
「課長! 先程の女性が再び来店しました!」
「何だと!?」
悲鳴じみた声を上げた技官に注意を引かれ、モニターに隆也が目を向けるのと、盗聴しているマイクの音声が携帯電話の呼び出し音を伝えてくるのとほぼ同時だった。そしてその時、店のドアに突進していった貴子が、勢いよくドアを開けつつ呼び出し音が鳴り響いている店内に飛び込んでマスターに叫んだ。
「マスター! ごめんね~、さっき携帯を置き忘れちゃったみたいで~!」
「た、貴子ちゃん!?」
「ああ、鳴ってる鳴ってる。多分、椅子から床に落ちたかと……。あら?」
予想外過ぎる展開に、店内の者が誰一人として咄嗟に動けず固まっていると、貴子はさっさと衣笠のテーブルまでやって来て、屈んでその下を覗き込んだ。そして状況の変化に付いていけず銃を握ったままだった藤川に、笑いを堪える表情で問いかける。
「おじさん、いい年してモデルガンなんか持ってどうしたの? ちょっと立って貰って良いかしら? おじさんの足元に、私の携帯電話があるのよ」
「……っ!」
にっこりと笑いかけられた藤川は顔を強張らせ、反射的に立ち上がって貴子に銃口を向けた。そしてキョトンとしている貴子とは対照的に、周囲の者達が一斉に動く。
「動くな、藤川!!」
「嬢ちゃん、危ない!!」
張り込んでいた捜査員が立ち上り、拳銃を構えながら威嚇するのとほぼ同時に衣笠が立ち上がり、手にしたグラスを至近距離から藤川のこめかみに叩き付ける様に、力一杯投げつけた。
「うわぁぁっ!!」
「おじさん!?」
頑強なガラス製のグラスは砕け散らなかったものの、それは藤川にとってはかなりの衝撃となり、加えてぶちまけられた水が一瞬視界を奪った。その隙を見逃さず、店内中から藤川めがけて捜査員が殺到し、あっという間に取り押さえられる。そんな中衣笠はいち早く貴子に駆け寄り、やや強引に腕を引っ張って捜査員の邪魔にならない場所に移動させた。
そして手早く拘束された藤川が、盛大に悪態を吐きながら店の外に連れ出されるのを見送ってから、衣笠は呆気に取られて黙り込んでいた貴子に心配そうに声をかけた。
「大丈夫か?」
「え、ええ。えっと、でも……、これは何事?」
「それは……」
咄嗟に上手く事情を説明説明できなかった衣笠が口ごもると、桜田が歩み寄って衣笠に有無を言わせぬ口調で迫った。
「衣笠。一緒に来て貰うぞ。荷物はこれだな?」
「はい。お手数おかけしました」
セカンドバッグを持ち上げながら確認を入れた桜田に、衣笠は一切弁解せずに神妙に頭を下げた。そして横から現れた相川が衣笠に手錠をかけると、貴子が驚いた様に彼に食ってかかる。
「え? ちょっと! おじさんに何するのよ? おじさんは、私を助けてくれたのよ?」
「ああ、いいんだ。それより俺のせいで、怖い思いをさせてすまなかったね」
貴子を宥めつつ謝罪の言葉を口にした衣笠に、貴子は少し考えて慎重に尋ねた。
「俺のせいって……、さっきの銃を持ってた人と関係あるの?」
「そうだな。自首しようかと思ったんだが、手間が省けたよ。わざわざ迎えに来て貰えるとはね」
「でも、おじさん、全然悪い人には見えないわよ?」
「それは嬉しいな」
「ほら、衣笠。行くぞ」
嬉しそうに顔を綻ばせた衣笠に、相川が追い立てる様に声をかけた。それに素直に従って歩き出した衣笠の背中に、半ば泣き声の貴子の声がかけられる。
「待って! おじさんの下の名前教えて! 庇ってくれたお礼に、警察に差し入れに行くから!」
それを聞いた衣笠は、思わず足を止めて背後を振り返った。
「差し入れなんて、駄目じゃ無いかな?」
「じゃあ減刑嘆願書を出してあげる!」
真剣にそう訴えてきた貴子に、衣笠は苦笑しながらも自分の名前を口にした。
「衣笠政弘だよ。だけどそんな事しなくて良いから。時間の無駄だろう」
「無駄かどうかは私が決めるわ。おじさん、元気でね。気を落としちゃ駄目よ?」
「ああ」
涙ぐんだ貴子に笑顔で軽く頭を下げ、衣笠が連行されていくと、俯いた貴子はハンカチを取り出し、両目に当てた。それを視界に入れた店内の後片付け要員として残った捜査員は、何となく気まずそうな顔を見合わせたが、すぐに店内に陽気な貴子の声が響き渡った。
「さぁあぁぁって、これで一件落着っと! レシピのイメージが、これでしっかり纏まっちゃったわね~。《酸いも甘いも噛み分ける、大人が選ぶカレーは、涙と粘りの渾然一体》っと。うん、我ながら、なかなかインパクトのあるキャッチコピーだわ~」
そうして顔からハンカチを離した貴子は、つい二・三分前とは打って変わって明るい笑顔でコロコロと上機嫌に笑った為、店内の者達は呆気に取られて固まった。するといつの間にか貴子の背後に立っていた隆也が、鬼神の形相で呻く。
「……何を意味不明な事をほざいてるんだ、お前は?」
「あら、あんた居たの? 容疑者連れて行かなくて良いわけ? 暇なのね」
けろっとした顔で皮肉を言ってきた貴子に、隆也の目つきが益々凶悪な物に変化した。
「あいつの注意を逸らす為に、わざと携帯電話を鳴らしたな? しかも、あれをいつあそこに置いた?」
「ええ~? 自分で意図して置いたなら、忘れていかないと思うけど?」
「しかもどうしてタイミング良く、それを鳴らせたんだ。誰かに頼んだのか?」
「スマホも持っていてね。これは仕事用で、携帯電話は男との連絡用。携帯電話が無いのに気付いて、どこにあるか分かり易い様に店に入る直前に鳴らしてみたんだけど、それが何か?」
「……貴様、さり気なく衣笠を翻意させたかったのか、単に現場を振り回したかったのか、どっちだ?」
「え? 何の事? 世の中怖い話ばかりで物騒ね~。あ、でもこれ、ブログネタになりそう。ちょっと刺激的かもしれないけど」
あくまで無関係で偶々だと、堂々としらばっくれた貴子に、隆也の堪忍袋の緒は完全に切れた。
「さってと、帰ってアイデアを煮詰めて、明日には校内で試食会を」
「人の仕事を、散々邪魔しくさって! 事情聴取だ。ちょっと来い」
踵を返して店を出て行こうとした貴子の肩を、隆也が握り潰しそうな渾身の力で掴んで引き止めた。
「いたたっ! ちょっと、どうしてよ! 私は偶々巻き込まれた、善良な一般人の被害者よ!?」
「どこが『偶々』で『善良』だ、ふざけるな! 例の裏金ちょろまかしの詳細を、吐いて貰うぞ!」
それを聞いた貴子は、小さく噴き出してヒラヒラと片手を振って宥めようとした。
「やっだ~、あれ、あのおじさんの本音を聞き出す為の、口から出まかせなのに。それ位察してよね、キャリアさんなんだから」
「言い分は取調室でしっかり聞いてやろうじゃないか。そのついでにみっちり説教してやるから、覚悟しろ!」
そうして引きずられる様にして店から出た貴子は、腕を掴んでいる隆也を盛大に非難した。
「横暴! 職権乱用! 不当逮捕よ!」
「逮捕じゃない。任意の事情聴取だ。それに取調室は静かだし、考えも纏まるだろ。合間に好きなだけレシピでも書いとけ」
「任意って言うなら、出向く筋合いは無いわよっ!! さっさと離しなさい、この陰険キャリア!!」
しかし隆也は薄笑いを浮かべただけで、目前にやってきたパトカーの後部座席に貴子を押し込み、続いて自分も乗り込んで野次馬が集まって来たその場を後にした。
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