(14)勝手が違う朝

「こら! いい加減に起きなさい!」

「……何だ?」

 いきなり肩を揺すられた隆也は、不機嫌そうに閉じていた目を開けたが、自分を見下ろしている貴子はそんな事など微塵も気にせず、強い口調で迫った。


「いつまでグースカ寝ているつもり? 国民の税金で養って貰っている公務員でしょうが? キリキリ給料分働きなさい! ほら、さっさと起きるのよ!」

「全く……。無駄に元気過ぎるぞ」

「幸い寝起きは良い方なの」

 勢い良く掛け布団を剥がし、タオルケットも奪い取ろうとした貴子の手を振り払う仕草をしながら、隆也はゆっくりと裸の上半身を起こした。そして眠そうに右手で前髪を掻き上げた隆也を見ながら、貴子が一息に言ってのける。


「昨日の私服で、職場に行けないわよね。家ってどこ? 一度帰って着替えるなら、もっと早く起こさないと駄目だと思ったんだけど、六時に起こしても惰眠を貪っていて起きないんだもの。遅刻しても私のせいじゃ無いから、そのつもりでね?」

 しかし隆也は全く彼女の話を聞いていなかった様に、淡々と問いを発した。


「今、何時だ?」

「六時五十分」

 ムッとしたものの貴子が律儀に教えてやると、隆也は事も無げに言ってのけた。


「じゃあ、昨日の服のまま出勤する」

「えぇ? そんな事、無理でしょう? 私服でなんて、みっともないじゃない」

 さすがに疑念に満ちた声を上げた貴子だったが、隆也は小さくあくびをしてから、その理由を説明した。


「偶々、俺の家の最寄り駅と同じ駅を利用している部下が居る。そいつに着替え一式を家から取って来て貰って、職場の近くの最寄り駅で着替える」

「はぁ? あんた馬鹿? そんな事言われたら、部下の人だってあんたの家族だって『何言ってんだこいつ?』と思うわよ」

「大丈夫だ。今回が初めてじゃないから、部下も家族も慣れてる。今更どうって事ない」

 そう言って早速連絡を取る為か、サイドテーブルに置いてあった自分のスマホに手を伸ばした隆也を見て、貴子は呆れた様に溜め息を吐いてから、半眼になって彼を見下ろした。


「……あんたの下でだけは働きたくないわね。上司の女遊びの尻拭いをさせられるなんて」

「女の家に呼びつけないだけ、気を遣っているつもりだが?」

「はいはい、キャリア様の勘違い気遣い論について論じるのはまた今度と言う事で、取り敢えず下着だけは替えたいんじゃない?」

 不毛な会話を続けるのに嫌気が差したのか貴子が話題を変えてきたが、隆也はさほど気にせずに答えた。


「まあ、それはそうだが……、仕方ないだろう」

 しかしそれを聞いた貴子は、壁際のチェストに歩み寄り、一番下の引き出しを開けて中を漁り始めた。

「おい、何してる?」

「え~っと、これ位かな? はい、取り敢えずそれを着て良いわよ?」

 ポンポンと放り投げられ、自分の膝の上に乗ったそれらを見て、隆也は眠気が吹き飛んだ様に、盛大に顔をしかめた。


「……何だこれは?」

「見ての通り、アンダーシャツとトランクスと靴下。サイズはそれで合う筈よ?」

「だから、明らかに新品で無いこれが、どうしてここに有るのかと聞いている」

 イラッとしながら隆也が問いを重ねると、貴子は彼の予想通りの答えを返した。


「以前の男が使ってて、別れた時に残していった物よ。もしサイズが合わなかったりデザインが気に入らなかったら、他にも色々あるからここの引き出しを探してみて。じゃあご飯を揃えておくから」

 そう言いながら立ち上がり、部屋を出て行こうとした貴子に、隆也は怒声を浴びせた。


「お前! 俺に他の男が着た物を使えと言ってるのか、ふざけるな!」

 しかしその非難する声に、ドアを開けて部屋を出ようとしていた貴子がキョトンとした表情で振り返る。


「どうして怒るの? 今までの皆は『助かった』ってお礼を言ってくれたのに。変なの」

「変なのは、お前等の頭の中身だ」

「意味不明」

 吐き捨てる様に言った台詞にも、貴子は肩を竦めただけで平然と出て行き、隆也は小さく舌打ちした。


「全く……、何て女だ」

 しかし文句を言っていても時間が無駄になるだけだと分かり切っていた隆也は、何とか意識を切り替えて部下と母親への着替えの手配を頼むメールの送信を済ませた。次に洗面所に行って顔を洗った隆也がリビングに向かうと、カウンター横のダイニングテーブルには、既に朝食が準備されていた。


「ほら、早く座って食べて。朝食はしっかり取らないと、良い仕事が出来ないわよ?」

「……ああ」

 貴子に押し付けがましく言われたものの、取り敢えず隆也は大人しく席に着いて箸を取り上げた。するとそれを意外に思った貴子が、片眉を軽く上げながら感想を述べる。


「あら……、仏頂面の割には随分素直ね」

「同じ様な事を、母親に言われて育ったからな」

「へぇ~、それはそれは………………、マザコン」

「親を敬って何が悪い」

 面白がる様にボソリと呟かれた言葉にも開き直って言い返した隆也は、ひたすら無言で食べ続けた。


(ムカつく……。朝飯が美味いのも、余計に癪に障るじゃないか。何だ、あのドヤ顔は!)

 そんな事を考えながら食べ続けていると、暫く隆也を凝視していた貴子が、笑いを堪える様な口調で言い出した。


「ちゃんと髭は剃って来たんだ。着古した下着は嫌だけど、シェーバーやクリームは構わないのね」

「背に腹は代えられないからな。使わせて貰った」

 憮然としながら一応事実関係を述べた隆也に対し、貴子は噴き出したいのを堪えつつ話を進める。


「構わないわよ。職場のトイレとかで、ゆっくり髭を剃ったりするのは難しいでしょうからね。それから……、自分から言う気が皆無の様だから聞いてあげるけど……、美味しい?」

「……ああ」

 テーブルに両肘を付き、にこにこと尋ねてきた貴子に、隆也は面白く無さそうな顔をしながらも相槌を打った。それで貴子の笑みが深くなる。


「大変素直で宜しい。さあ、食べ終わったら気分良く出勤してね。あんたの着替え一式持参で出勤してくる健気で可哀想な部下さんを、その極悪顔で朝からビビらせちゃ駄目よ?」

「五月蝿い。余計なお世話だ」

 益々気分を害した隆也だったが、食事は十分美味しかった為、必要以上に仏頂面もできず、複雑な心境のまま食べ進める事になった。


「……ごちそうさま」

「はい、お粗末様でした」

 ぶすっとしながら隆也が席を立つと、貴子が満面の笑みで食器を片付け始めた。そして昨日の私服姿で立ち上がった隆也が、キッチンで洗い物を始めた貴子に、声をかける。


「……おい」

「何?」

「出るぞ」

「そうね」

「玄関に来ないのか?」

「え? どうして玄関に行かないといけないの?」

 そこで漸く手を止めて、顔を向けて来た貴子に向かって、隆也は舌打ちしそうな顔になりながら、言葉を継いだ。


「玄関の戸は、オートロックなのか? 俺が出て行く時に開いたままだったら、拙いだろうが」

 尤もらしく指摘した隆也だったが、貴子はきょとんとしながら言い返した。


「そんな朝っぱらから、押し込み強盗が入る様な事、言わないでくれる? 考え過ぎじゃない?」

「盗聴器を仕掛けられているかと疑う割には、迂闊だな。とにかく、さっさと来い」

「はいはい。お付き合いします。全く、これだから頭ガチガチのキャリアさんは……」

 ブツブツと文句を言いながら付いて来る彼女に、隆也は切れそうになったが、無言を保った。玄関で靴を履いてから、貴子に向き直る。


「じゃあ、世話になった」

「別に、気にしなくて良いわよ。さっさと閉めたいから、早く行って」

「……他に何か、言う事は無いのか?」

「え? 今日はゴミの収集日じゃないし」

「…………」

 殊勝にも、ごみを捨ててくれる気だったのかと思いながら、貴子が口にすると、隆也は無言のまま部屋を出て行った。


「何なのかしら? 良く分からない男ね」

 軽く首を傾げた貴子だったが、すぐに玄関のドアをロックして、キッチンへと戻って行った。

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