(3)予定外の負傷
ある日の昼下がり。伊達眼鏡をかけて、とある喫茶店に入った貴子は、さり気なく店内を見回して、店員に頼んで自分に都合の良い席に座らせて貰った。そして観葉植物の鉢植えが並んでいる仕切り越しに、通路を挟んで窓際にある斜め前方のテーブルの様子を、こっそり観察し始める。
(何だかねぇ……。私、こういう覗き見趣味は無いんだけど……)
もし隆也がそれを聞いたら、「弟のデートを尾行した人間が口にする台詞か!?」と一喝されそうな事を真剣に考えつつ、貴子は溜め息を吐いた。
(これがやに下がってる下品なオヤジだったら、ざまーみろって冷笑してやるんだけど……。田崎さんは良い人だから、真剣に存在していない『難病の息子さん』を心配してるし。気の毒過ぎるわ)
そして再度溜め息を吐いてから、今度は相手の女性を冷ややかな目で見やる。
(田崎さん、真面目に遺言書まで作っちゃったしね。『息子の病気治療の為の生前贈与』なんて文言がばっちり入ってるから、後から言い逃れできないのに、平気で誓約書に承認の署名捺印しちゃうんだ……)
苦々しく思いながら貴子は頼んだカフェオレを一口飲んでから、心の中で自分自身に言い聞かせる。
(まあ、先に貰う物貰ってトンズラすれば良いと思ってるんだろうけど、今回はそうはいかないわよ?)
そうこうしているうちに、向かい合って座っている男女のうち、女性だけ紙袋を手にそそくさと店を出て行った為、貴子は小さく舌打ちした。
(全く、しおらしい顔して。どうやって先に出る旨の説明をしたんだか。差し詰め『一刻も早く、手術の費用の工面ができたと、息子に知らせてやりたい』とか? しかも口座から足が付かない様に、大金を現金一括払いとはね。……少しは疑って下さいよ、田崎さん)
多少呆れながら貴子が目を向けると、1人テーブルに残った田崎は、妙にすっきりとした顔で、コーヒーを味わっていた。そしてカップの中身を飲み終わったのか、伝票を手にしてゆっくりと立ち上がった。そこで貴子も冷めたカフェオレを勢い良く喉に流し込み、伊達眼鏡を外してバッグにしまってから、伝票片手に立ち上がる。
(やれやれ。わざと田崎さん達と同じグループに突っ込んだのは私だし、最低限の責任は取らないとね)
そんな事を考えながら、貴子はレジの前で会計を済ませようとしていた田崎に声をかけた。
「田崎さん」
その声に振り向いた田崎は、貴子の姿を認めて驚いた顔になった。
「あ、宇田川先生。奇遇ですね。今日はこちらの方にお買い物か何かですか?」
「いえ、偶然ではないです。実は先程から田崎さん達の様子を窺ってまして」
真顔での台詞に田崎は当惑したが、すぐに自分なりに好意的に解釈した。
「それは……。先生にはこのひと月程、個人的な事で色々とご心配かけてしまったみたいで、申し訳ありませんでした。幸い娘達も納得してくれて、円満に解決を」
「いえ、円満なんかじゃありません。実はあの女は、詐欺グループの一員です。田崎さんに彼女を紹介した末永さんも、その一員ですし」
「え?」
貴子の言った内容をすぐに理解できず、田崎は混乱した。しかし徐々に理解すると同時に、あっさりと認めたく無かったのか、引き攣った笑みを見せつつ問い返す。
「嫌だな、先生。今の話は、何の冗談ですか?」
「私としても、冗談で済ませられるなら良いんですが。末永の後に同じグループに編入した西脇さんが、警視庁の刑事だと言ったら、納得して頂けますか?」
そうとどめを刺された田崎は中途半端な笑いを消して、その顔にはっきりとした怒りの色を浮かべた。
「……つまり? 私は餌になったわけですか?」
「平たく言えばそうなります。警察は原則囮捜査はできませんが、この場合、偶々捜査官の間近で詐欺行為が行われていたのを発見したという事に」
「ふざけるな!!」
「……つぅ」
「お客様! お止め下さい!」
淡々と話していた貴子を田崎は怒声と共に突き飛ばし、彼女は背後の仕切りの壁にぶつかった。そしてウエイトレスの悲鳴が店内に響く中、貴子は田崎に胸元を掴まれて恫喝される。
「詭弁もいいところだろうが。貴様、親身になって相談に乗るふりをして、陰で笑ってやがったな!?」
「そんな事はありませんが……。普段理性的な田崎さんが、どうしてああも簡単に騙されるのか、不思議に思っていました。何かの折りの参考になるかも知れないので、あの女との詳細なやり取りを、教えて頂けませんか?」
「……何だと?」
「お客様! 暴力行為はおやめ下さい!」
段々田崎の顔が怒りで赤くなってきたのは分かってはいたものの、貴子は敢えてそのまま話を続ける。
「例のお金を持って行った女は、今頃捕まっている頃ですし、後から捜査員が田崎さんに事情を聞きに来ると思います。その時に被害届を」
「黙れ!!」
「……つうっ!!」
「きゃあっ!!」
あくまでも冷静に語る貴子の態度にとうとう怒りが振り切れたのか、田崎が貴子の服から手を離し、その顔を勢い良く殴りつけた。それをまともに受けて倒れ込んだ貴子は、咄嗟に床に手を付こうと両手を伸ばしたが、その前にレジを乗せてある会計用の台が至近距離に有ったのを失念しており、その角で額の生え際を強打する。
「お客様! 大丈夫ですか!?」
ガツッと鈍い音がその場に響いた為、貴子が額を押さえて床にうずくまった事も相まって、ウエイトレスが顔色を変えて貴子同様床に座り込んで状態を尋ねてきた。しかしその問い掛けに、すぐ答えられる精神的余裕は、その時の貴子には無かった。
(痛っ……、血が出てる? 失敗したわ……)
反射的に押さえた手をゆっくりと外してみると、しっかりと流れ出た血が付いていた為、痛みもあって貴子は顔を歪めた。そこに慌てた感じの、新たな人物の声が割り込む。
「先生!? どうしたんですか、その怪我は?」
「西脇さん……」
(面倒な所で、出て来ないでよ……)
思わず見上げた先に西脇の顔があった為、貴子は溜め息を吐きたくなった。対する西脇は貴子の手と額を見てはっきりと顔色を変えてから、些か険しい顔付きになって、真っ青になって立ち尽くしている田崎を見やる。
「まさか……、田崎さん?」
「あ、いや……、これは、その……」
そこでしどろもどろで弁解しようとしている田崎を尻目に、貴子は内心で気合いを入れて立ち上がり、伝票をレジの横に置きながらウエイトレスに声をかけた。
「すみません、お騒がせしました。お会計をお願いします」
そこで指名を受けたウエイトレスが、伝票を手にしながら恐る恐る確認を入れてくる。
「あの……、お客様、大丈夫ですか?」
「ええ。ちょっと皮が剥けて血が出ただけよ。見た目ほど痛くは無いから、気にしないで」
「はぁ……」
まだ幾分心配そうな顔付きの彼女相手に、貴子が会計を済ませると、西脇が申し出てきた。
「先生、病院までお送りしますか?」
しかし貴子は笑って手を振る。
「嫌だ、パトカーで病院に乗り付けたら、何事かと思われますから。これから仕事だから仕事場まで移動して、その近くの病院で処置して貰う事にします。西脇さんは自分のお仕事をして下さい。それでは失礼します」
「はぁ……、お大事に」
まだ若干懸念を含んだ眼差しで見送られた貴子は、その店から外に出て、完全に店から見えなくなる位置まで歩いてから、取り出した綺麗なハンカチで傷の周囲を軽く押さえつつ呻いた。
「……いったぁ」
そして、結構な痛みを実感しつつ、疲れた様に愚痴っぽく呟く。
「皮膚が相当抉れたかも。跡、残っちゃうかしらね」
しかしそこで溜め息を一つ吐いた後は、貴子はちらりとも愚痴めいた事は口にせず、痛みを堪えながら病院に向かった。
夜になって所轄署から戻った部下を出迎えた隆也は、早速その西脇から、日中の首尾についての報告を受けた。
「課長、例の広域結婚詐欺グループの捜査ですが」
「ああ、逮捕状は請求できたし、今日現場を押さえると報告を受けていたが。どうなった?」
「主だったメンバーは、全員身柄を確保しました」
「そうか。それは何よりだ。これで上への面子も立つだろう」
そこで満足そうに頷いた隆也だったが、西脇が多少言い難そうに報告を続ける。
「それが……、課長」
「何か問題でも?」
「何故か現金の受け渡し場に、宇田川先生がいらしてまして……」
「何だと?」
思わず目を細めて問い返した隆也だったが、目の前の相手はブツブツと自問自答する。
「いや、そもそも、被害者と容疑者が顔を合わせる日時を、言葉巧みに先生が聞き出して、こちらに情報提供して貰ったから、ご存じなのは当然と言えば当然なんだが……」
「西脇、さっさと話せ」
口調に僅かに苛つきを滲ませた上司に、西脇は慌てて意識をそちらに向けて報告を続けた。
「申し訳ありません。喫茶店で金を受け取った容疑者を店の外に出たところで確保してから、被害者に説明がてら被害届を出して貰う為、所轄署に同行して貰う旨をお願いする為に店に向かいましたら、先生が被害者に、殴り倒された所に遭遇しまして」
「……それで?」
それを聞いた隆也は一瞬目つきを鋭くしたが、すぐにいつもの表情に戻って続きを促した。
「一部始終を見ていた店員の話では、二人がレジ付近で揉めた後、被害者が殴りかかって、先生が倒れた拍子にレジ台の角で頭を強打したそうで」
「怪我でもしたか?」
「額の打ち付けた所の皮膚がえぐれて出血して、周囲も結構腫れていましたが、本人は割と平気な顔で『病院で処置して貰ってから仕事に行く』と仰るので、そのまま別れました。被害者はそれで動揺したのか真っ青になって、こちらが申し出た通り署まで同行してくれて、被害届も素直に出して頂きましたが」
そこまで聞いた隆也は、軽く溜め息を吐いて部下を労う言葉をかける。
「そうか。ご苦労だった。詳細を纏めて、後日報告書を上げてくれ」
「分かりました。それでは失礼します」
(あの馬鹿、何をやっている……)
目の前から西脇が姿を消すと同時に、隆也は舌打ちしたいのを堪えつつ、こっそり貴子にメールを送ってみたが、何故かその日に限って返信がないまま、時間が過ぎて行った。
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