(19)師走の浮気疑惑
「課長、今、宜しいですか?」
「ああ、どうした?」
自分の様子を窺いつつ声をかけてきた西脇に、隆也は手元の書類から顔を上げて応じた。それを受けて、相手が机越しに報告してくる。
「例の結婚詐欺の容疑者ですが、宇田川先生からそれらしい人物が入ったと話があり、該当するコースに入れて貰いました」
それを聞いた隆也は、興味深そうに尋ね返した。
「ほぅ? それはいつの話だ?」
「二週間前です」
「……二週間前?」
それを聞いた上司がピクリと眉を動かしたのに気づかないまま、西脇が話を続ける。
「取り敢えず容疑者を観察してから、課長に報告をと考えたので、少し遅くなりましたが……。あの、まさか先生から、何もお聞きではないとか?」
「全く初耳だ」
「……申し訳ありません。てっきり先生の方から、課長にお話が伝わっているものと」
「それは構わないから報告を」
遅れて気付いた西脇が慌てて頭を下げたが、隆也は(この二週間だったら、四回は出向いてるだろうが?)と貴子に内心で腹を立てつつも、何でもないと言った風情で先を促した。
「結論から言うと、限りなく黒に近いグレーです。容疑者に一週遅れで私が編入したグループの人達が、皆さん奥さんに先立たれている、結構な不動産を所有していたり会社の経営者や一線を退いた重役とかで、要は悠々自適の生活を送っている方ばかりなんですが、俺が入った時、既に全員と懇意にしてました」
「あいつの事だ。どうせ面白がって、餌になりやすい人間で固めた所に、怪しい奴を放り込んだんじゃないか?」
思わず苦笑しながら口を挟んだ隆也に、西脇も苦笑いで返す。
「おそらくは。しかし先生の観察眼はなかなかですね。どうして怪しいと思うのか聞いてみたら、『下手さが不自然』だと一刀両断ですから」
それを聞いて一瞬眉を寄せて考え込んだ隆也だったが、すぐに合点がいったと言う風に頷いた。
「なるほど……。カモを見つける為、あちこちの料理学校に潜り込んでいるうちに、否応なく調理の腕は身に付いていたと言うわけだ」
「はい。先生に言わせれば『全くのど素人がプロの料理人のふりをするのは不可能だけど、ある程度手際が良くなった人間がど素人を装うのもなかなか難しい』だそうです。思わず笑ってしまいそうになったのは、『公務員だが浮気がバレて離婚して、閑職に回された』と自己紹介した途端、奴が清々しい程素っ気なくなりましてね」
そこで隆也は小さく噴き出した。
「それはまた……、随分正直な事だな。薄給から慰謝料を搾り取られている男は、カモにはならんか」
「そのようですね。柳井クッキングスクールからそいつの連絡先を提出して貰いましたので、引き続きその男と、その周辺を調べてみます」
「分かった。続けてくれ」
そこで話を終えた西脇が一礼して立ち去ろうとした時、部下の一人がやって来て報告した。
「課長、リーガルグループ金鉱山融資ファンド詐欺事件の容疑者全員、送検しました」
「ご苦労。長丁場良く頑張ってくれた。今日は打ち上げに飲みに行くぞ。俺の奢りだ。都合のつく奴は何人でも良いぞ?」
「やった! 一仕事終えた後のタダ酒程、美味い物は無いですよね?」
「課長、太っ腹!」
「遠慮無く、ご馳走になります!」
目の前の部下に頷きつつ、室内を見回しながら声を大きくして呼び掛けると、途端に男達の歓声が上がり、それに笑顔で返した隆也は、貴子に対して感じた当初の不機嫌さなど、綺麗に忘れ去っていた。
その日の夜、貴子は都心に出て来た異父弟と落ち合い、繁華街に食事に連れ出していた。
「いや~、旨かった~、さっすが姉貴お薦めの店! 質・量共に最高!」
「満足して貰って良かったわ」
「でも悪いな~、こっちの都合に合わせて貰ったのに、奢って貰っちゃって」
「良いのよ。そっちが出てくるのは滅多に無いし、祐司には時々お惣菜を届けてるしね」
恐縮気味の弟に笑い返した貴子だったが、孝司は益々申し訳なさそうな顔になった。
「それで、姉貴。分かってるだろうけどさ、この預かってきた奴。多分いつもと同じ奴なんだよな……」
そう言って気まずげに自分が手に提げている紙袋を見下ろした孝司に、貴子は苦笑いで応じる。
「あんたが気にする事じゃないでしょう」
「それはそうなんだけどさ……。やっぱり何か姉貴の方から、適当に欲しい物を言ってくれないかな?」
そんな懇願にも、貴子は自分の意思を曲げなかった。
「いい加減、気を遣ってくれなくてもいいって、何度も言ってるのにね」
「別に何も要らないっていう姉貴の気持ちは、俺も重々分かってるけど、お袋の気持ちの整理が付くまで付き合ってくれよ。本人だって自己満足に過ぎないって事は、分かってるだろうからさ」
「うん、分かってる。あんたにも変な気苦労をかけて悪いわね」
「これ位どうってことないさ。あ、そうだ、偶には家にも顔を出してくれよ。もうすぐ正月だし」
「年末年始は忙しいけど、落ち着いたら絶対顔を出すから」
幾分気まずい空気が流れたのも束の間、それからは互いの近況などを話し合いながら、二人は姉弟仲良く最寄駅に向かって歩き続けた。
「あれ? 先生?」
ひとしきり飲んで食べて後、同僚達と固まって歩いていた西脇は、少し前の横断歩道を右から左に渡ってくる人波の中に、見知った顔を見つけて思わず立ち止まった。そして凝視していると、西脇の様子に気付いた周囲も足を止め、途端にざわめき出す。
「うん? どうした、西脇」
「あ、ああ、知り合いがこっちに」
「げ!? 宇田川貴子? しかも男連れ!?」
「おいっ!!」
「黙れ!」
「…………」
思わず大声を出してしまった相川を慌てて他の者が窘めたが、時既に遅く隆也もしっかり足を止め、孝司と腕を組んで上機嫌に何やら話しながら歩いている貴子を見つけてしまった。そして表情を消した隆也がこちらに近づいてくる二人を無言で見つめているのを見て、周りの者達は肝を冷やす。
(彼女と課長って、付き合ってるんじゃなかったのか?)
(あれは間男か? まさか浮気現場に遭遇?)
(ちょっと待て、あんな若造こう見えて腕っ節が強い課長にかかったら、一撃でぶっ倒れるだろ? その場合、俺らが止めるのか!?)
(こんな繁華街で修羅場かよ、おい!?)
部下達はこれからどんな惨劇が起こるかと恐れおののいたが、貴子は隆也達に気が付かないまま横断歩道を渡り切り、最悪な事に彼らの方に曲がって、腕を組んだまま悠然と歩いてきた。そして進行方向に佇んでいた一行に気付き、明るく声をかける。
「あら、西脇さん、こんばんは。皆さんお揃いで飲み会ですか?」
「はぁ。先生も楽しんでいらっしゃるようで……」
「ええ、お酒もお料理も美味しかったわ~」
「…………」
(どうして課長を無視して、西脇に挨拶するんだよ!?)
明らかに引き攣り顔の西脇と、段々不機嫌さを醸し出してきた隆也を交互に見ながら、一行は心の中で悲鳴を上げた。そんな中、西脇が何とか事態を収拾しようと、声を絞り出す。
「あの……、そちらはお仕事関係の方ですか?」
ジーンズにダウンジャケット姿の孝司は、明らかに仕事関係の付き合いとは思えなかったが、西脇は一縷の望みをかけて問いかけた。しかしそれに、無情な答えが返ってくる。
「嫌だ、これがマスコミ関係や、調理師関係に見えます? 私の男ですよ、オ・ト・コ。最近年上は飽きちゃって~。これ位若くて可愛くないと、食指が動かないんですよね~」
そう言ってケラケラと笑った貴子に、その場の空気が凍った。それは間違いなく、無言のまま隆也が放った冷気のせいだったのだが、ここで孝司が慌てて弁解を始める。
「おい、姉貴!! 何つまんない冗談を言ってんだよ!? どんな知り合いかは知らないけど、変な誤解させたら後々面倒だろうが? 万が一、回り回って付き合ってる人の耳に入ったりしたら、どうするんだよ!?」
「ええ~? あんたって変な所で真面目よね~」
「え?」
「姉貴……って」
「そうすると、弟?」
隆也を初めとして西脇達が呆気に取られていると、彼らに向き直った孝司が、真面目な顔で深々と頭を下げた。
「すみません、姉が変な冗談を言いまして。姉の仕事関係の方ですか? 宇田川貴子の弟の、高木孝司と言います。お騒がせして申し訳ありません」
そう謝罪された一同は、却って慌てて相手を宥めた。
「あ、いえ、そう気にしないで下さい」
「確かにちょっと驚きましたが」
「仕事関係での付き合い、というわけでもありませんし」
「そうなんですか? じゃあどういったご関係で?」
顔を上げた孝司が怪訝な顔で尋ねてきた為、どう説明したものかと西脇達が隆也に視線を向け、孝司も何となく彼を見やった。その視線を受けた隆也が口を開きかけた所で、あっさりとした声が割って入る。
「さっき挨拶した西脇さんの上司のその男が、私のセフレだってだけの話よ? だから気にしないで」
「……は?」
サラッと説明した貴子に、孝司は隆也を凝視したまま固まり、隆也は表情を消したまま低い声で応じた。
「おい……、他に言う事は無いのか?」
「そうねえ、でかい図体してるけど、結構マメよ?」
淡々と付け加えた内容を聞いて、部下達が頭を抱える中、隆也ははっきりとした怒りのオーラを醸し出し始めた。そんな隆也と貴子を交互に見た孝司は、はっきりと顔色を変えて貴子に詰め寄る。
「姉貴、本当にこの人と付き合ってるのか? そんな話、全然聞いてないぞ!?」
「付き合い? こいつと? さっきセフレだって言ったでしょ? それにそんな事、そっちだって思ってないわよ。ねえ?」
「…………」
貴子が明るく同意を求めて視線を向けたのに釣られて、孝司も隆也に顔を向けた。そして無言のまま半眼になっている隆也を認めた孝司は、その全身に視線を走らせ、何を思ったか一層表情を険しくして貴子に向き直る。
「何を考えてるんだ姉貴! これはどう考えても駄目だろう!?」
自分の両肩をガシッと掴み、真剣そのものの顔付きで訴えてきた弟に、貴子は不思議そうに問いかけた。
「いきなり何よ、孝司。何が駄目なの?」
「姉貴の男遍歴に、今更口を挟むつもりは無いが、ヤクザだけは駄目だ! お袋が泣くぞ!!」
「はぁ?」
「…………」
すこぶる真顔の孝司の台詞に、貴子は完全に面食らい、隆也は無言を貫いた。そして貴子が話題となっている人物を指差しながら、一応確認を入れる。
「ねぇ……、ちょっと待って、孝司。ひょっとして、こいつをヤクザだと思っているわけ?」
対する孝司は、再度チラッと隆也に視線を向けてから、険しい表情で主張した。
「だってこんな威圧感ありありの人間、堅気のわけ無いだろ!? どう考えてもヤクザか警官だけど、姉貴は警官を毛嫌いしてるし消去法でヤクザじゃないか! あれだろ? この人、今流行りのインテリヤクザとかで、周りの人間は子分で末端の構成員だろ!?」
「確かにこいつがボスで、周りの皆さんが部下なのは、間違ってはいないけどね……」
「やっぱりそうか……」
思わず遠い目をした貴子に、痛恨の表情になった孝司。そんな二人を見ながら、話題にされている面々は、顔を見合わせて囁き合った。
「惜しいな~、なかなかの観察眼なんだが」
「ニ択で外すのが、余計に痛いぞ」
「本物に遭遇時、そんな風に喚くなと忠告してやるべきかね?」
ここで如何にも不機嫌そうな声で、隆也が短く指示を出す。
「……おい」
「了解しました」
そして上司の意図する所を正確に理解した面々は、背広の内ポケットを探りつつ、揃って貴子達の方に足を踏み出した。
「あのね、孝司。心配してくれるのはありがたいんだけど、この人達はヤクザじゃないから」
「は? そんなわけ無いだろ! 気休めは止してくれよ! 俺は親父とお袋に何て言えば良いんだ!?」
「別に、何も言わなきゃ良いじゃない」
「そんなの、どう考えても無理……、はい?」
「失礼。実は私達は、こういう者ですが」
軽く肩を叩かれて振り返った孝司は、至近距離にいた男性が手にしている物を見て、目を丸くした。
「……え? 警察?」
「はぁ……」
何とも言えない顔で各自手にした警察手帳を広げて見せている面々から、孝司が隆也に視線を移すと、彼も徐に自分の手帳を取り出し、ゆっくりと身分証の所を広げてみせた所だった。そしてその記載と隆也の顔を凝視した孝司は、一気に顔を青ざめさせ、勢い良くその場に土下座して謝罪し始めた。
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