(10)未知の領域
「課長、こちらの報告書のチェックをお願いします」
「分かった。このまま待っていてくれ」
受け取った報告書に隆也が視線を落としてすぐに、それを持って来た西脇が、ごそごそと上着の内ポケットを探り始めた。
「ああ、忘れる所だった。宇田川先生から預かった物があったんだ」
「……宇田川?」
ピクッと隆也が反応して顔を上げ、その場に居た捜査ニ課の面々、特に桜田班のメンバーは、顔色を悪くしながら課長席のやり取りに耳を傾けたが、西脇は不穏な空気に気付かないまま話を続けた。
「ええ。柳井クッキングスクールの内偵の為に、週一で先生の講座を受講している事は、報告していましたよね?」
「ああ、聞いている」
表情を消して静かに相槌を打った隆也に、西脇はポケットから引っ張り出した白い封筒を差し出しつつ説明した。
「柳井調理師学校が参加する、ジャパン・フード・フェスティバルの入場チケットです。『興味が有ったらどうぞ』とか仰っていましたが。それから『この前のお詫びも兼ねて、美味しい物を食べながら面白い話でもしませんか』とも言付かったんですが。課長は宇田川先生と顔を合わせる機会が有ったんですか?」
「…………」
心底不思議そうに尋ねた西脇だったが、一応封筒を受け取った隆也は不機嫌そうに黙り込んだ。それでさすがに西脇が上司の異常に気付いたが、そこで背後から話し声が聞こえてくる。
「そうか……、西脇、あの捕り物の時居なかったよな」
「昨日と一昨日も外回りでしたしね」
「知らないのも無理はないか……」
「うん? この二日で何かあったのか?」
同僚達の話を耳にした西脇は背後を振り返り、困惑気味に尋ねた。それに疲れた様に相川が応じる。
「西脇さん、今庁舎内で囁かれている、榊課長に関する噂を知らないんですか?」
「噂?」
「相川!」
「黙ってろ!」
隆也のこめかみに青筋が浮かび、それを見てしまったベテラン達が焦って相川の軽挙を鋭い声で遮る。驚いた西脇が何事かと目を丸くする中、隆也が冷静に声をかけて話題を逸らした。
「分かった。気が向いたら行こう。それから、内偵の方はどんな感じだ?」
「該当する人物は未だ入っていません。趣味と実益を兼ねて、暫く通ってみます」
「いつの間に、料理が趣味になった?」
思わず笑ってしまった隆也に、西脇が左手で軽く頭を掻きながら笑顔で告げた。
「いや、これがなかなか、やってみると楽しいもんですわ。ご飯と味噌汁から始まって、まだ基本をみっちりと仕込まれてる段階ですが、先生は実技を教える時、その時点で応用が利く事を効率良く教えてくれますし」
「ほう……、そうか」
「実はうちの女房が先週寝込んだ時先生に相談したら、すぐに病状に合わせて私でも作れる内容のレシピをファックスしてくれまして。看病の仕方まで細かく指示して貰いまして、助かりました。女房には凄く感謝されましたし、『見直したわ』と満面の笑みで言われまして。いや、年甲斐も無く照れましたな」
如何にも照れ臭そうにそう言って笑った西脇を見て、隆也は小さく悪態を吐いた。
「どうやらオヤジを誑し込むのは、お手の物らしいな……」
「課長、今何か仰いましたか?」
「何でもない」
上司が呟いた言葉を聞き取り損ねた西脇が問い掛けたが、隆也は素っ気なく回答を拒否した。それに多少違和感を感じながらも、西脇は話を続ける。
「教室自体も、なかなか楽しいですよ? こういう仕事だと、違う職種の人間と係わり合う事がありませんから、同世代の色々な意見が聞けて、思わぬ勉強になります」
「そうか……。これはOKだ。承認印を押して上に上げておく」
「お願いします」
そうして話を終わらせた隆也は、一礼して引き下がった西脇が同僚達に捕まって耳打ちされているのを視界の隅に捉えながら、眉間に皺を寄せて目の前の封筒を凝視した。
(色々腹の立つ女だが、例の喫茶店で口走った内容が、まるっきりの口から出任せとも思えんし……)
封筒を指で軽く叩きつつ、隆也は一人考えを巡らせる。
(取調室で説教がてら問い詰めてみても、しれっとしてとうとう口を割らなかったしな。『面白い話』の内容にもよるが……)
そして数分後、チケットを封筒から引っ張り出して日時を確認した隆也は結論を出した。
「この日は特に予定は無いし、顔だけ出してみるか。こんな機会でもないと出向くような場所でも無いしな」
そんな独り言を漏らしながら封筒を上着のポケットに入れた隆也は、いつも通りの余裕たっぷりの笑顔をその顔に浮かべていた。
※※※
休日に愛車を走らせ、普段なら絶対足を踏み入れないであろう空間に佇んだ隆也は、パンフレット片手にしみじみと呟いた。
「なるほど。ある意味、なかなか新鮮ではあるな」
未だに実家暮らしであり、月の半分ほどはその都度付き合っている女の部屋に入り浸っている隆也としては、料理と言えば母親か女が作った物か店で提供される物であり、当然調理器具、食材などは未知の領域であった。その為元々探究心は旺盛な隆也は、意欲的にフード・フェスティバル会場を回ってみた。
新素材でも一般的な調理器具な用途は分かるが、一見してどうやって何に使うか分からない展示品に首を捻ってコンパニオンに苦笑交じりに説明を受けたり、珍しい輸入食品のブースでグロテスクな代物を発見し、思わず「これは本当に食べられるのか?」と呟いて試食する羽目になったり、各機関での食育プログラムのポスターセッションを興味深く眺めたりして、当初の予想ほど退屈せずに過ごした隆也は、昼を過ぎてから、ここに来た当初の目的を思い出した。
「さて、これによると、あいつは今の時間、デモ中の筈だが……」
パンフレットの各種デモンストレーションの場所と時間を示した一覧表を確認しつつ、そこに表記されていたブースに足を向けると、予定通り貴子が、四十席程の椅子とその周りを囲む様に立っている客に向かって、調理器具片手に何やらにこやかに説明しているのが見て取れた。そこに近付きながら、そこのブースにかかっている看板等を見て、隆也は一人納得する。
「なるほど。調理学校と食品輸入業者と調理器具メーカーがタイアップした企画というわけか」
そうして再び貴子に目を向けると、以前顔を合わせた時より化粧は目立たず、髪はしっかりと纏め上げてピアスや指輪を初めとする装飾品を一切を身に着けていない様子に、隆也は少し意外に思った。
「思ったより真面目に、仕事をしてるみたいだな」
薄手の透明なプラスチックグローブ越しにも、爪は綺麗に短くされ、少なくても色がはっきり分かるマニュキアを塗っていない事が見て取れた為、最初(どうせチャラチャラと仕事をしてるんだろう)と冷やかし半分で見に来たつもりの隆也は、先入観を改めた。そして最後方からブースの中を眺めていると、ふと貴子と目が合う。
一瞬貴子は驚いた顔をしたが、すぐに何も無かった様に説明を続け、隆也も特にめぼしい反応が無かった事に不平を言うつもりは無く、無言で彼女の様子を見守った。
「……それで、従来の調理法ですと、蒸すのに時間がかかり過ぎて、大切な栄養素が破壊されてしまいます。調理を効率良く、しかも栄養素を減ずる事無く仕上げる為に開発されたのがこちらの商品です。論より証拠、これから実際に作ってご覧にいれます」
立て板に水の如く、貴子が説明しながら手早く食材を見慣れない形の鍋に入れ、IHヒーターの上に乗せて火力をセットしながら、顔を上げて観客の方を見やった。
「さて、この様にセットしまして、一度沸騰させたら弱火で十分……」
そこで笑顔のまま不自然に動きを止めた貴子に、隆也は怪訝な顔をした。
(うん? 何か不自然に黙った? 台詞をど忘れでもしたのか?)
すると次の瞬間きつい視線を向けられて、そんな事をされる覚えのない隆也は、内心で反発する。
(何で睨まれる。顔を出せと言ったのは貴様だろうが?)
そんな理不尽な思いに駆られていると、貴子は何でも無かったかの様に、笑顔のまま話題を変えた。
「さて、それでは十分待つ間に、他の作業を進めます。付け合わせの準備ですが、皆さん、こう言った野菜の新鮮度や旬の見極め方はご存じですか?」
さり気なく傍らに置いてあった大根を片手で取り上げ、もう片方の手で指し示しながら問いかけてきた貴子を見て、隆也は益々疑惑を深めた。
(何だ? さっきまでは無駄な動作なんかしなかったのに、急に必要以上に手を動かしてきたな。妙に動き回ってるし、パフォーマンスの一種か? この類の小手先の事なんかするタイプでは無いと思うんだが……)
「……はい、そうです。ここの筋の入り方とか葉の付き方で見分けられるんですよね。そして以外に重要なのが、購入してからの保管方法です」
右手の人差し指を軽く曲げ、野菜に沿ってさり気なく胸の前で右側に引いて見せる動作を何回か繰り返されて、隆也は確信した。
(いや、違う。動きが一定。しかもついさっきまでは全くそんな動きをしていなかったから、癖じゃない。……まさか手話で、俺に向かって何かを言ってるのか?)
それに思い至った隆也は、貴子の動作を注意深く見つめた。そして過去の記憶を掘り起こすが、なかなか該当する物が出てこない。
(あの動き、何だったか……。以前どこかで見た覚えはあるんだが……)
眉を寄せて本気で考え込んだ隆也の表情を見て、貴子は一瞬舌打ちでもしたい様な表情になってから、再び笑顔観客に質問を続けた。
「それでは次に、肉類を柔らかく食べる為に用いられる野菜や果物の類はご存知ですか?」
和気あいあいと質疑応答を繰り返す貴子を見ながら、隆也はひたすら彼女の手の動きを目で追った。すると右手を下に向けて薬指と小指を曲げた状態と、右手の人差し指と中指だけと伸ばした状態で空中を切る様する動作の繰り返しだと分かる。
(動きが変わった? 今度は……、ひょっとして俺が分からないと判断して、単語から五十音の指文字に変更した? 確かあれは……『り』と、次は間違い無ければ『す』……、スリか! どこだ!?)
要するに(仕事は中断できないし、変に騒ぎを起こしたら逃げられるから、あんたが何とかしなさいよ!)という貴子の訴えが漸く分かった隆也が目線で場所を尋ねると、貴子はさり気なく隆也の左斜め後方を視線で示した。
そちらの方向を振り返った隆也が、ここと同じような実演中のブースを覗き込んでいる観客の中に、不自然な動きをしている者を認め、貴子に(分かった)と言う様に片手を上げてから移動を開始する。そして音も無く先程のブースの最後列に歩み寄ると、カメラマンらしき男が一眼レフのカメラを器用に右手だけで持ち上げ、隣に立つ営業マンらしきスーツの男の上着の中に左手を入れようとした瞬間を狙って、その左手をしっかりと捕まえた。
「失礼。ちょっと荷物を改めさせて頂きたいのですが」
「なっ……」
「警察だ、おとなしくしろ」
そして相手が反論する隙を与えず、手を確保したままもう片方の手で肌身離さず持っている警察手帳を開いて見せ、そのまま男のカメラバッグのファスナーを開けてみると、無数の財布が目に入る。
「窃盗の現行犯だな。骨をへし折られたくは無いだろう? 俺も非番なのに、余計な運動をするのは嫌だ」
「…………っ」
酷薄な笑みを浮かべながら脅しをかけると、観念したらしい相手は無言で項垂れ、驚愕した者は周囲のほんの数人に止まり、隆也は目立たない様に警備員の詰所にその犯人を連行した。
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