盲目の傀儡

第33話 盲目の傀儡⑤

「危ない!」

 急に外が明るくなり、膨大な熱を感じた。

 アンはとっさにドレスを拾い、サーシャの肌を隠す。その手を引いて幕から飛び出した。

 零れた涙が蒸発し、次の瞬間にはベッドが炎に包まれて灰と化す。

 崩れ落ちる天蓋の向こう側から乾いた音が鳴り響いた。

 煙を払って現れたのは黒騎士、もとい、人面じんめんを被った人ならざる者――ストーリーテラーだ。それは嗤いを堪えるように顔を歪め、柏手かしわでを打っている。

「やあやあ、百合ゆり衆道しゅうどうにゃとんとうといが女同士が抱き合ってる姿はなかなかどうして、見世物みせものとしちゃあいいおわらぐさだ。だけどよ、お嬢ちゃん。人の恋路を邪魔するってのは少々いただけないな」

「人ならざる道を歩む者に云われたくないわね」アンが云った。

外道げどうにゃ外道の作法があるのさ」

「貴方の一方的な押しつけよ。こんなの詐欺さぎだわ」

「そんなことはねえ。すべて合意のうえだぜ。そうだろう、お嬢ちゃん?」

 ストーリーテラーはサーシャに向けて云った。爬虫類のように舌を舐めるその様は生理的に拒否したくなる仕草だ。

 だが返す言葉はない。すでにちぎりは交わしているのだ。約款やっかん捺印なついんを押してしまった以上、契約を反故ほごにすることは難しい。くつがえせるだけの理由を見つけられずにいるのだろう、サーシャは黙り込んでしまった。

「違法も法のうちというわけね」毅然きぜんと立ち上がり、アンが云う。「なら私にも考えがあるわ」

「止めなさい。貴女が太刀打ちできるような相手じゃないわ。なんとか逃れる方法を考えましょう」

 サーシャがアンのそでをつかんで引き止めた。

 アンはその手をやさしく包み込む。

「大丈夫、貴女にかかった呪いは必ず私が解いてあげるから」

「なにか方法があるの?」

「サクヤ様から『解呪かいじゅの魔法』を授かってきたの。私でもあんなやつ、かんたんに追い払えるわ」

「ほんとうに? だけど貴女、魔法が使えるの?」

「私も耳を疑ったけれど――見て、眼が合っているのが分かるでしょう?」

 アンはサーシャの眼を覗き込む。その両の眼にはたしかに光を宿している。呪いが解けている証拠だ。

「ね? だから私を信じて。すこしの間だけ眼を閉じて、耳を塞いでいてちょうだい。それは貴女を護る結界となるから」

「……分かったわ」

 サーシャは肯き、アンの言葉に従った。

 アンは一歩前に出て、ストーリーテラーを睨みつける。

「さて、物語もいよいよ大詰めってところかしらね」

土壇場どたんばで主人公が不在ってんじゃあ、ちょいと締まらねえけどな」

「私にだって主役を張るくらいの度胸はあるわ」

「しかしどうする。ほんとうにお嬢ちゃんにも魔法が使えるのかい?」

「どうかしら?」アンはシニカルに嗤ってみせた。「さあ、もう一度警告するわよ。サーシャにかけた呪いをいますぐ解いて、さっさとハクロ様の躰から出ていきなさい!」

「厭だと云ったら?」

「力尽くで追い出すしかないわね」

「おお、怖え。言葉で勝てなきゃ暴力に訴えるわけだ」

「貴方だって使っていいのよ?」

「あいにく俺は博愛主義者フィランソロピストでね。暴力は嫌いなんだ」

「どうだか」

「ふん、どうやって解いたか知らねえが、何度でも呪ってやるさ。耳を塞ごうが、眼を閉じようが俺の魔法から逃れることはできねえ。直接脳に語りかけてやる。さあ、ふたりで――」


 コ ロ シ ア エ


 ストーリーテラーは躰を震わせ、音の波をつくった。

 脳を揺さぶるような不協和音。

 耳を塞いでいてもそれは大音量で鳴り響く。

 だが――

「えいッ!」

 と、それを掻き消すような破裂音が重なった。

 アンがストーリーテラーの呪文を無視して歩みを進めてその眼前に立つと、顔面を拳で殴ったのだ。

「な――」渾身こんしんの右ストレートをもろに受けたストーリーテラーは鼻を押さえ、唖然あぜんと眼を丸めた。「なにしやがる!」

 アンはさらにストーリーテラーの胸倉むがぐらをつかんで引き寄せる。

 さらに目と鼻の先まで踏み込んで睨みつけた。

うるさい、黙れ」

「手前……放しやがれ」

「厭よ」

「俺の言葉が聞こえねえのか!」

「ちゃんと聞こえているし、聞いているじゃない」

「いったいどんな魔法を使いやがった!?」

「まだなにも使っていないわ。だいたい、私はただの医者よ。ほんものの魔法なんて使えるわけないじゃない」

「なら……あのロザリオか!?」

「あれは彼女のものよ。私にはなんの加護かごもないわ」

「ならどうして呪文が通じないんだ!」

「どうしてって……」

 アンは『こいつはなにを云っているんだ』とばかりに小首を傾げ、解呪の魔法を放つ。

 それはすべてを無に還すような滅びの言葉だった。

 それはすべてをご破算に願うような最低の発言だった。

 それはすべての前提条件を覆すような最悪の呪文だった。

 それは――


 ただの言葉じゃない。


 とアンはそう云った。

「あ……」ストーリーテラーは絶句し、言葉を失う。

言葉と云い換えてもいいかもしれないわね」

 時間が止まったように静寂が訪れる。

 そして、凍りついた空間を溶かしたのは怒り狂ったストーリーテラーの怒号どごうだった。

「て、手前――それを云っちゃあお仕舞しまいだろうがッ。空気読みやがれ、この阿魔アマ!」

「だってほんとうのことじゃない。脳に直接語りかけるですって? あり得ないわよ、そんなこと」

 人体の構造はそんなふうに出来ていないのよ、とアンはうそぶく。

鼓膜こまくで受けた空気の振動を電気信号に変換し、脳がその周波数を音として認識・処理しているの。心臓ハートは音をキャッチしたりしないのよ」

「さっきそこの女に語っていた台詞セリフと違うじゃねえか!」

「相手によって言葉や態度を変えるなんて当たり前のことじゃない」アンは悪びれもせず続ける。「言葉として届いているし、意味も充分理解している。私には視えないけれど……言霊ことだまだって在ると云えばきっと在るのでしょう。だけどやっぱりそれは、たんなる言葉のあやにすぎないわ。呪文なんて、無いと云えば無くなってしまう、解釈の仕方によっていくらでも変化してしまう、いい加減で脆弱ぜいじゃくな道具なのよ。理解できるからといって、悪意を持ってかたる者の言葉にまで真剣に耳を傾けてやる道理はない。そんなやつには、目には目を、歯には歯を――無法には無法で返す。それだけよ」

「神に逆らう気か! 俺はすべてを内包する全知全能の神の化身だぞ」

「だから何だと云うの? そんなに偉いなら、逆に答えてよ。貴方が全知全能だというなら何故――世界の内側に存在しているの?」

「それは……」ストーリーテラーは言葉に詰まった。

「神様なんて存在しないわ。貴方はただステリックで、他人のミスが許せないだけの小者。傀儡よ。貴方に世界を語る資格なんてない。神の名を騙る、ただの偽物だわ。そんなやつの術中にはまっていたなんて、思い出すだけでも自分が情けない」

「救えねえ魔女は殺して無に還してやる!」

「あら、やっぱり都合が悪くなると手をだすのね」

「うるせえ! その減らず口利けなくしてやる!」

「やれるものならやってごらんなさい。そうだ、どうせならこの大鎌を使いなさいよ」アンは両手で鎌を持ち上げる。「私の細腕ででも運べたんだもの。貴方がほんもののハクロ様なら難なく扱えるでしょう」

「そ、そんなもの必要ねえ」

「まあ遠慮せずに。あらよ――っと」

 アンは勢いよく躰をひねってはずみをつける。

 振り回すようにして鎌を手放した。

 大鎌は弧を描きながら回転し、飛んでいく。

 ストーリーテラーは慌てて手を前に出したが、受け損なって柄が直撃する。そのまま仰向けに倒れて下敷きになった。

「手前、殺す気か!?」

あきれた。とんだへっぴり腰じゃない」

「俺は本より重たいものは持てねえんだ」

「あ、いまの言葉で思い出した。貴方にも渡すものがあったわ」

「俺にだと?」

「これなんだけど」

 アンは懐から洋綴ようとじの本を一冊取りだした。

 本革ほんがわでできた装丁そうていにタイトルはなく、びょう穿うがたれ固く閉じられているためになかは見えない。だがストーリーテラーはひと目それを見て青褪あおざめた。

「まさか、それは――ネクロノミコン!?」

 アンが手にしているのは膨大な数の術式が記されている魔導書だった。

 その奥付おくづけに挟まれているしおりを引き抜く。するとネクロノミコンが手から離れ、妖しい光を放って宙に浮いた。

 封印が解かれ、ページが開く。

「手前、それをどこで?」

「此処の書架しょか所蔵しょぞうされていたらしいわ。これ、私でも使えるかんたんな呪文らしいんだけど……『いみな』っていうのね。なるほど、名前も言葉の一種ということなのでしょう。これで呼べばその者の人格を支配できるそうじゃない」

 諱は転じてに替わる。

 それは本名を指す言葉であり、親や主などしか呼ぶことが許されない。諱を口にするとその者の霊的人格を支配できるという考えがあるためだ。したがって、普段は字で呼ぶことが習わしとなっている。

実名敬避俗じつめいけいひぞくは貴人や死者を敬うものだけど、貴方に遠慮する必要はないわね」

「やめろ――その名で俺を呼ぶな!」

 ストーリーテラーは慌てふためく。身を翻して逃げようとするが、鎌が重しになっている。尻を突いたまま両手を広げて云った。

「分かった、俺の負けだ」

「もう遅いわ」

「なんでも云うことを聞くから」

「なんでも?」

「そう。俺は全知全能のワイルドカードだぜ。だから死者にだって逢わせてやれる」

「私に逢いたい人なんていないわ」

「強がるなよ。ひとりやふたりくらいだろう? よく思い出せ」

「うーん……それは無理な相談ね」

「手前には情ってものがねえのか!」

「失礼ね。そんなんじゃなくて、物理的に思い出せないだけよ。私、全生活史健忘ぜんせいかつしけんぼう――いわゆる記憶喪失ってやつだから」

「なんだと!?」

「あら、全知全能のくせにそんなことも知らないんだ……」

「無いものは知りようがねえだろうがッ」

「それこそ私の知ったことじゃないけれど……まあ、とにかく。私は、医者になる以前の記憶が完全に失っているの。だから貴方たちが大切にしているものを私はひとつも持っていない。このアンという名前でさえ、辞書の最初のページから選んだ単語にすぎないのよ」

「な、なら永遠の命をくれてやる。これならどうだ? 俺と一緒に新しい世界で――」

「いらないわ。貴方と一緒にいるくらいなら死んだほうがましよ」アンは嫌悪感を剥き出しにして云った。「私に貴方の言葉は届かない。なにひとつ響かないし、信じられない。貴方が語る物語は私にとって――偽物なのよ。本物にならない物語は――無意味な信号でしかないわ。それは何にでも化けられるのかもしれないけれど、貴方というオリジナルはどこにも存在しないのよ。さあ、積年の恨み、晴らさせてもらいましょうか」

「やめろ、やめてくれ!」

虚無きょむの世界へお還りなさい――」

 アンは、ストーリーテラーの懇願を無視して本を開いた。

 そして、ありったけの言霊を籠めて魔法を放つ。

「『ウルム・アト=タウィル』」

 それは物語のなかにしか存在しえない、人に創られし神の化身の名だった。

 魔導書から光の玉が現れ、小さな太陽のように七色に光るとハクロを照らす。

 足許からのびた影が切り離され、黒い文字となって浮びあがった。

 その記号の羅列こそが化身の正体だ。

 ウルムは悲鳴をあげながら抵抗する。

 だが諱の力は凄まじい。

 相手が何者であろうと、名前を支配されれば逆らうことはできない。

 ウルムはのたうちまわり、文字化けしながら本のなかへと引きずり込まれていく。

 慟哭どうこくしながらこう云った。

畜生ちくしょう。憶えておけ、人間。貴様たち人間が生きているかぎり、俺もまた生き続ける。時間も空間も俺には関係ない。何度でも現れて、貴様たちに問いかけてやる。貴様たち人間は存在している価値が在るのか? 貴様たち人間は――」


 生まれた意味が在るのか?


 と化けの皮ががれた人ならざる者は呪詛じゅそを吐き残して消えていく。

 語り部の存在は過去となり、今という現実から離れて幻と化していく。

 闇が渦を巻き、収縮するとウルムは音となってはじけて消えた。

 空間の裂け目が塞がり、本が閉じられると断末魔は途絶える。

 残されたのはアンと、サーシャと、ハクロの躰。

 静寂と沈黙を破ったのは光を取り戻したアンだった。虚無へと還った神の化身を見送ると彼女は、魔導書を手にしながらきっぱりと云い切る。

ッ――生まれた意味ですって? そんなものに意味なんて在るわけないじゃない。この、真っ白な頁のように無意味な人生だからこそ自分の物語は――自分でつづっていくんじゃない」

 そう云って開かれた頁は白紙で、どこにも文字が刻まれていなかった。

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