シェアワールド ～死神の初恋～

死神の初恋

第10話 死神の初恋⑦

　村がひとつ、史実（しじつ）から消えた。

　サーシャはそこまで一息に話し終えると固く口を結ぶ。胸に手をあて、大きく呼吸を繰り返した。その額には薄く汗が滲（にじ）んでいる。

「すこし休ませて」

　そう云ってハクロに寄りかかると瞳を閉じる。

　明るさを拒むと同時に、わずかに射していた月明かりも雲に紛（まぎ）れてしまった。風が止み、物音ひとつしない。

　儚（はかな）げに眠るサーシャを気遣いながら、ハクロも眼を伏せた。

　今しがた聞いた話を振り返る。

　不躾（ぶしつけ）に現れた黒騎士が何者なのかは分からないが、少女のほうはサーシャだろう。人物名をぼかしていてもそれは伝わった。いまだ解読できずにいる首に刻まれた文様が、入墨の少女と符合（ふごう）しているため間違いないだろう。もしそうなら――サーシャには還（かえ）る場所が無いのだ。

　話したがらないのも肯ける。数奇（すうき）な運命を歩んできたのだろう、思い出すだけでも辛（つら）かったのではないか。普段なら一晩中語り明かしても涼（すず）しい顔をしているのに、今夜は酷く消耗（しょうもう）している。無理をさせたかと思うと胸が締め付けられるようだった。

　だが、サーシャの物語はまだ途中なのだ。

　こうして今も存在している以上、過去は地続きで繋がっており、現在まで続いている。切り離すことは不可能であり、間には必ず過程というものが存在している。その、語られずに抜け落ちた空白のページにいくつもの疑問が残る。

　――黒騎士はいったい何者だったのだろう？　

　――どうして村は突然消えてしまったのだろう？　

　不明点はそれだけではない。

　黒騎士の話が気になる。

　――ストーリーテラーは実在するのか？　

　――最後の審判なんてほんとうに訪れるのか？　

　――死者が黄泉（よみ）返るなんてことが起き得るのか？　

　――世界はまだ滅んでいないが、この先訪れるのか？　

　――あるいはもう、誰かが犠牲となって、危機は回避されているのか？　

　いくつもの問いが浮かぶが、しかし最大の謎は一点に集約される。それは、

　――サーシャの話は本当に在ったことなのか？　

　いつ、どこで起きた話なのか、それが分からない。

　語り部は物語だと前置きした。

　史実から消えたということは、記録がどこにも残っていないという意味だ。ならば、サーシャの口から語られた言葉だけが――記憶だけが頼りとなる。だが言葉にした瞬間、それはもう現在とは異なる幻と化し、物語となるのだ。つまり、すべては彼女の創作である、という可能性を排除しきれない。

　いずれにしても、これはハクロの体験ではなく、入墨の少女が主人公の物語だ。登場すらしていないハクロが真実に触れられる由（よし）などありはしない。それでも、

　――サーシャが生贄（いけにえ）にならなくてよかった。

　ハクロは心からそう思う。

　記憶の断片を分けてもらえたことで、おぼろげだったサーシャの輪郭（りんかく）がすこしだけ鮮明になった。

　それが嬉しかった。

　それが楽しかった。

　嘘でも幻でも、ほんのわずかでも理解した気になれた。

　ハクロはサーシャの過去を――物語を欲しているのだ。

　共有したがっているのだ。

　無いものを在るとしたいのだ。

　もっと彼女を知りたい。

　もっと彼女と繋（つな）がりたい。だから、

　もっと続きを、話を聞かせてほしい。

　いつかまた聞かせてもらえるだろうか。否、ひとり助かったサーシャの運命を想像すると、その後の人生が過酷であったことは想像に難（かた）くない。これ以上彼女の口から聞くことは叶わないだろう。

　寂（さみ）しくはあるが、無理はさせられない。

　いま必要なのは言葉ではなく、静かにじっと寄り添うことだ。

　ハクロはサーシャに触れようと手をのばす。だが指先は空を切るばかりで、距離が零（ゼロ）になることはない。

　ハクロは拳（こぶし）を握り締め、力いっぱい虚空をつかむ。

　過ぎたことを責（せ）めるなとサーシャは怒るだろう。それでもあのとき、眠りこけていなければ。鎌を持っていなければ。間違えていなければ――

　そう考えると悔（く）やんでも悔やみきれない。気づけばつい過ちを嘆（なげ）いている。

　後悔という魔法にかかっているのだとしたら、それはサーシャだったものを殺めたあの瞬間だろう。血濡（ちぬ）れた掌（てのひら）を開いては己の過去を睨みつける。

　その指の隙間から見えるのは自分が手にかけた、大切な人だ。

　嗚呼、この手で彼女に触れたい。抱きたい。感じたい。此処に在ることを確かめたい。

　――どうすればもっとサーシャに近づけるだろう？　

　ハクロは懊悩（おうのう）した。

　いまは首に彫られた入墨だけが彼女の存在をたしかに示してくれる。

　だが、それだけでは足りない。

　なにかが足りない。

　なにかが。

　おかしい？　

　――……入墨の色が変わっている？　

　ハクロはサーシャの異変に気づいた。眼を凝（こ）らし、幾度か擦（こす）って瞬（またた）いてみる。どうやら錯覚ではなさそうだ。

　墨色に染められた文様（もんよう）が、今は鈍色（にびいろ）か鉛色（なまりいろ）くらいに淡（あわ）く霞（かす）んで視える。見間違いや思い違いではない。以前よりもあきらかに色素が薄くなっている。同様に、命の灯火（ともしび）も細く感じられた。

　ハクロは不安に駆られ、大声でサーシャを揺り動かした。

「サーシャ？　おい、サーシャ。起きてくれ！」

　しかしいくら呼びかけてもぐったりとしたまま動かず、返事は返ってこない。手足の血色が褪（あ）せ、瞬く間に存在が希薄（きはく）になっていく。呼吸も浅い。たんなる疲労でないことは明白だった。

　――どうしてしまったんだ、さきほどまであんなに元気だったのに……。

　――まさか、なにかの病か？　

　ハクロは焦（あせ）った。

　病気であれば治療が必要だ。しかし原因が判らないうえに手の施（ほどこ）しようがない。処置（しょち）しようにも触れることすらままならないのだ。教わった医学の知識も彼女には応用できない。どうすればいいのか検討もつかなかった。

「サーシャ、眼を覚ましてくれ。サーシャ！」

「……そこにいるのはハクロ様、貴方なの？」

　サーシャが応えた。睫毛（まつげ）を震わせ、わずかに眼を開ける。

「そうだ、ハクロだ。俺は此処にいるぞ」

「よかった、また逢えたのね……」

「ずっと傍にいるじゃないか。いったいどうしてしまったんだ？」

「どうもしないわ。私はただ――自分の役目を果たすだけよ」

「サーシャの役目？」

「そう。やがて訪れる、最後の審判に立ち会うため、私は此処にいるの」

「それは作り話ではないのか？」

「今はまだ抽象的（ちゅうしょうてき）な世界にしかない未来の話。だけどそれは、いつか必ず現実となり、すべての物語に終止符（しゅうしふ）を打つでしょう。生者も、黄泉（よみ）返った死者も等しく無に還ってしまうわ」

「死者も無に還る？」

　死こそが無に帰する行為ではないのか。

「躰が消滅しても、誰かの記憶や記録に残っているかぎり存在しているわ。逆に、たとえ生きていても、認識されなければ無いに等しい。人間はね、観測されることでしか存在を確かなものにできないのよ。今の私のように……」

「俺には視えている。絶対に見落としたりしない」

「貴方はすでに大事なことを忘れているわ」

「それはなんだ、教えてくれ」

「名前よ」

「名前？　誰の？」

「知れば必ず呼びたくなる。呼べば視えないものが見えてしまう……」

「サーシャ！」

　語り部は謎の言葉を残してまた眼を閉じた。

　存在がさらに薄くなっている。いくら呼びかけても返事は返ってこない。

　ハクロは激しく動揺した。

　このままだとサーシャが消えてしまう。

　それは世界が滅亡するといった壮大（そうだい）な話よりも、ハクロにとっては絶望的で、致命的だった。

　サーシャは、ハクロを人間と認めて名前を教え、言葉や知識まで授けてくれた、今となってはかけがえのない恩人である。大切に思う気持ちのなかにそれ以上の感情が含まれていることに気づかないまま、乱れる心を抑えられずにいた。

　助けたい。

　サーシャを助けたい。なにか、

　――なにか方法はないのか。

　ハクロは必死に記憶を巡（めぐ）らせた。

　これまで得た知識のなかに手がかりがないかと必死に過去を掘り返す。出逢ってから物語を聞き終えるまでのこの瞬間――そのどこかにヒントが転がっていないか。

　視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚、そして感覚を研ぎ澄ませていく。

　見て聞いて嗅いで味わって触れて感じたすべてを順に辿っていく。

　そして。

　一筋の光明（こうみょう）が射した。

　闇を切り裂く閃光（せんこう）が頭のなかを駆けていく。

　雲の切れ目から朧月が現れた。

　わずかな明かりを頼りに、ハクロは懐を探る。そこから取り出したのはひとつの首飾り――ロザリオだ。

　サーシャだったものが身につけていた小さな十字架である。なんの変哲（へんてつ）もないように思えたが、よくよく観察すると鎖との接地面に小さな番（つがい）がついている。

　――これ、開くのか……？　

　錆（さ）びた柩（ひつぎ）を開けるように慎重（しんちょう）かつ丁寧（ていねい）に。わずかな隙間に爪を立て、切れ目に沿ってなぞっていく。そして――暴いてはいけない墓が暴（あば）かれた。

　そこに在ったのは、視てはいけない過去の亡霊だった。

　触れてはいけない物語の続きが隠されていた。

　月の光を浴び、白日（はくじつ）の許に晒（さら）されたもの。それは――

　古びた文字だった。