第4話 死神の初恋④
ふたりが向かった先は山の奥だった。
墓場は広大な
ハクロはサーシャに連れられ、北から墓を抜ける。そのまま山に分け入った。
山は、何百年、何千年という単位で成長した樹々がいたるところに生えていて、昼でも
だが、人は通れなくとも、獣が
墓場は人間の
だがそこまで目指さなくともすでに人の気配はない。サーシャの
標高二千メートルを超えたあたりで追っ手がいないことを確認すると、
ハクロしか知らない秘密の場所である。
「此処までくれば追ってこないだろう。もうすこしで到着だ」
「手を貸してくれるかしら」
「分かった」
ハクロは、サーシャの手を引きながら――といっても触れられないので形だけだが――崖を下りていく。
泉に着くと
「素敵なところね」サーシャは背をのばし、深呼吸をする。
「
「ずっと此処に住めばいいのに」
「俺には墓場のほうが似合う」
「
「そう云ってくれるのはサーシャだけだ」
「自分でもそう云い聞かせなさい。人間はね、自分がなりたいと思った者になるの」
「分かった、そうするよ。いや、別にいじけているわけじゃないんだ。墓は捨てられた場所だから、いつか俺を知る者が現れるんじゃないかって、そう思うと離れることができなかったんだ」
「なら、その
「そうなるな」
「過去とは決別できそう?」
「
短く答えると、サーシャは微笑んだ。
闇に慣れすぎたハクロにとって、その笑顔は眼が
サーシャは、泉に
「ねえ、
「俺に許可を求める必要なんてない」
「怒られない?」
「誰にだ?」
「えっと……山の
「人が手入れをしている様子はない」
「そうじゃなくて……」サーシャは上空を見上げた。
ハクロもつられて天を仰ぐ。山間の深い谷にある水辺だが、こんな場所でもわずかに陽は射している。だが、いくら
「きっと誰のものでもないさ。それでももし罪に問われるようなことがあれば俺が代わりに
「ありがとう」
「ありがとう?」
「お礼の言葉」
「礼を云われるようなことなんてしていない」
「やさしい言葉をかけてくれたわ」
ありがとう、とサーシャは繰り返した。
しなやかな髪が
ハクロは視線を逸らし、顔を伏せた。視られているとなんだか落ち着かない。鎌を持ち直すと
「
「ふたりで寄り添えば寒くないわ。ハクロもこちらへいらっしゃい。ずいぶんと汚れているわ」
「俺はあとでかまわない。なにか食べるものも必要だ」
「待って、いかないで」
サーシャが手をのばした。
ハクロはそれを
とたんに樹々がざわめきだした。
兎や鳥が逃げていく。
ハクロの放った
刃を突きつけられたサーシャは怯えるように身を
「どうしたの、ハクロ。怖い顔をして」
「近づきすぎだ。俺はまだ、完全に貴様を信じきったわけじゃない」
「そんな悲しいこと云わないで」
「
「それは……」
「解っている。なにか云えない事情があるんだろう。
「でも、信じてくれないのよね」
「悪く思わないでくれ。人間に慣れていないんだ。どう接していいのか……距離感がつかめなくて」
「私のほうこそ、ごめんなさい」
「此処にいてくれ。必ず戻ってくる」
「約束よ」
「神に誓おう」
そう云い残してハクロは元来た道を引き返した。
※
「……眠っているのか?」
女は、泉の
「ずいぶん遅かったのね」女は顔をあげずに云った。
「獲物が捕まらなくて」
「嘘」
「冷静になる時間が必要だった」ハクロは女の横に立った。「此処、座ってもいいかな?」
「許可を求める必要なんてないわ。誰の場所でもないんでしょう?」
「貴女の隣は空いているかと訊いているんだ」
「好きにしていいわ」
鎌を近くの樹に立てかけ、荷物をおろす。気の利いた言葉のひとつでもかけてやりたいところだが、
すこし間を空けつつ、ハクロは女の隣に腰かける。
沈黙を保ったまま視線を泉へ投じた。
小魚が
わずかな揺らぎが観測され、やがて静まり返る。
在ったものが無くなり、また現れる。同じように視えてもそれは、以前のものとは違う。連続していると錯覚しているだけだ。すべては移ろい、二度と現れはしない。ならば、いま隣にいる女が、昼間に墓で出会った女だとはかぎらない。だが確かめる方法はある。
「訊きたいことがあるんだ」ハクロは女に向けて云った。「どうかこっちを視てほしい。俺は――人間だろうか。もし俺が人間だというなら、名前を呼んでくれないか、サーシャ」
女がサーシャならば、
ハクロは続ける。
「影が視えるんだ。無いはずのものが視界に映り込むんだよ。瞳を開けていようと閉じていようと、昼も夜も、俺の意志とは関係なく現れる。正体が分からないから追い払うこともできない。生まれたときからずっと
「違うわ」女は首を振った。「貴方は忌み子なんかじゃない。光があれば影は映る。それは誰でも視ることができるの」
「ああ、それはサーシャという女性に会ってよく解ったよ。だけどその影は確実に意志を持って俺に付きまとっている。なんの
「無駄よ。過去は――亡霊はなにも語らない。無いものが視えてしまうのは、無いものを在るとしたい貴方の心の闇が光を拒んでいるせいよ。墓は掘り返してはいけないわ。無理に暴こうとすれば逆に引きずり込まれて出られなくなってしまう」
「
「そのとおりよ。貴方は前だけを見て、光の射す方だけを信じて生きるべきなの。だから、どうか私を視て――ハクロ」
サーシャは忌み子の名を呼んだ。
「私なら貴方を導いてあげられる」
「信じていいのか?」
「誓ってもいいわ。だから
サーシャは顔をあげてハクロを見つめた。眼から
「分かった」ハクロは、それを汲み取るように
「ほんとうに?」
「俺も誓うよ。だけど、その前にひとつだけ」
ハクロは荷物から
生地を広げ、サーシャの肩にかけてみる。
だが布は躰を通過し、ひらりと宙を舞った。
「やはり駄目か……」ハクロは肩を落として息をもらした。
「これは?」
「墓に戻って拾ってきた。あそこは色々落ちているから」
「私のためにわざわざ?」
「いつまでも裸ではいけないと思って」
「私は平気よ」
「俺が困る」
ハクロは視線を泳がせ、頬を赤らめる。
「まあ……」サーシャは口許に手をあてた。
「なにが可笑しいんだ?」
「いいえ、可笑しくないわ。嬉しいの」
「布がか?」
「貴方の、その心がよ」
「無駄になったけれど」
「そんなことないわ」
サーシャは地面に転げた藍染に手を
すると指先から
「どう? これで近づいても大丈夫かしら?」
サーシャは
ハクロは、身を
迎えるでもなく、ただ流れに任せる。
やわらかな指先が
布地越しではあるが、呼吸に合わせて脈打っているのが分かる。実体は無くとも生きている証といえるだろう。サーシャのぬくもりが伝わり、心のなかで
そしてふたりの手は――しっかりと重なった。
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