第4話 死神の初恋④

 ふたりが向かった先は山の奥だった。

 墓場は広大な盆地ぼんちの北部にあり、東西に流れる大河たいがをのぞけばすべて高い山脈に囲まれており、他の領土りょうどから隔離かくりされている。

 ハクロはサーシャに連れられ、北から墓を抜ける。そのまま山に分け入った。

 山は、何百年、何千年という単位で成長した樹々がいたるところに生えていて、昼でもの光をさえぎっている。足許も草木が鬱蒼うっそうと生い茂り、まともな道はひとつもない。標高が上がるにつれ、気温は下がり、もやがかかっている。こけむした岩肌が各所で露出して非常に滑りやすい。山を越えようとする者の行く手を拒んでいるかのようだった。里で育った人間ではまともに歩くことさえできないだろう。

 だが、人は通れなくとも、獣がひそむには都合が良い。ハクロはこれまで幾度となく足を踏み入れている。

 墓場は人間のごうが渦巻いて、いつもきな臭い気配が充満しているが、此処にはそれがない。人が持つ時間よりもはるかに永い単位で浄化された空気に身をゆだねると、すべての罪が洗い流されるような気さえする。万物を超越ちょうえつした者が存在するならばきっと、このいただきのさらに上に立っているのだろう。

 だがそこまで目指さなくともすでに人の気配はない。サーシャの先導せんどうでうまく墓場を抜けることができた。迷う様子がなかったことから地理ちりに詳しいようだが、それも訊かないほうがいいと判断し、黙ってついてきた。

 標高二千メートルを超えたあたりで追っ手がいないことを確認すると、やぶをかき分け、狭い峡谷きょうこくを飛び越えていく。道なき道をしばらく進むと切り立ったがけの下に小さな泉がみえた。

 ハクロしか知らない秘密の場所である。

「此処までくれば追ってこないだろう。もうすこしで到着だ」

「手を貸してくれるかしら」

「分かった」

 ハクロは、サーシャの手を引きながら――といっても触れられないので形だけだが――崖を下りていく。

 泉に着くとうさぎが出迎えた。ふたりが近づいても逃げようとしない。樹上じゅじょうから小鳥のさえずりも聞こえてくる。此処はきりがかかっているが寒くはない。静かで穏やかな場所だった。

「素敵なところね」サーシャは背をのばし、深呼吸をする。

んだ水もあるし、肉食獣や毒蛇が出ない。今夜は久しぶりにゆっくり眠れそうだ」

「ずっと此処に住めばいいのに」

「俺には墓場のほうが似合う」

卑下ひげしてはいけないわ、ハクロ。貴方は誰よりも気高く、賢い人間なのよ」

「そう云ってくれるのはサーシャだけだ」

「自分でもそう云い聞かせなさい。人間はね、自分がなりたいと思った者になるの」

「分かった、そうするよ。いや、別にいじけているわけじゃないんだ。墓は捨てられた場所だから、いつか俺を知る者が現れるんじゃないかって、そう思うと離れることができなかったんだ」

「なら、その夢想むそうは現実になったわけね」

「そうなるな」

「過去とは決別できそう?」

善処ぜんしょするよ」

 短く答えると、サーシャは微笑んだ。

 闇に慣れすぎたハクロにとって、その笑顔は眼がむらむほど純粋だ。強い光に照らされるほど己の影が浮き彫りになってしまうが、彼女を信じて向かい合っていれば直視せずにすむだろうか――そんなことを考える。

 サーシャは、泉に爪先つまさきを浮かべた。水面に反射してよりいっそう輝いて視える。

「ねえ、沐浴もくよくしてもいいかしら?」

「俺に許可を求める必要なんてない」

「怒られない?」

「誰にだ?」

「えっと……山のぬしとか?」

「人が手入れをしている様子はない」

「そうじゃなくて……」サーシャは上空を見上げた。

 ハクロもつられて天を仰ぐ。山間の深い谷にある水辺だが、こんな場所でもわずかに陽は射している。だが、いくら神々こうごうしくみえても、それはただの光だ。

「きっと誰のものでもないさ。それでももし罪に問われるようなことがあれば俺が代わりにつぐなおう。気にせず使え」

「ありがとう」

「ありがとう?」

「お礼の言葉」

「礼を云われるようなことなんてしていない」

「やさしい言葉をかけてくれたわ」

 ありがとう、とサーシャは繰り返した。

 しなやかな髪がきらめく。墓場で視たときよりもずっと輝いて視える。泉の精霊せいれいいたかと見紛みまごうほどだ。

 ハクロは視線を逸らし、顔を伏せた。視られているとなんだか落ち着かない。鎌を持ち直すときびすを返した。

まきを拾ってこよう。火を起こさないと夜は冷える」

「ふたりで寄り添えば寒くないわ。ハクロもこちらへいらっしゃい。ずいぶんと汚れているわ」

「俺はあとでかまわない。なにか食べるものも必要だ」

「待って、いかないで」

 サーシャが手をのばした。

 ハクロはそれをかわして飛び退すさる。

 とたんに樹々がざわめきだした。

 水面みなもが揺れて波紋はもんが広がる。

 兎や鳥が逃げていく。

 ハクロの放った怒気どきがそれらを揺さぶったのだ。前傾姿勢でにらみつけるその姿はまるで、ねぐらを荒らされた獣のように殺気立っている。

 刃を突きつけられたサーシャは怯えるように身をすくめた。

「どうしたの、ハクロ。怖い顔をして」

「近づきすぎだ。俺はまだ、完全に貴様を信じきったわけじゃない」

「そんな悲しいこと云わないで」

素性すじょうかせば信じてやる」

「それは……」

「解っている。なにか云えない事情があるんだろう。無理強むりじいするつもりはない」

「でも、信じてくれないのよね」

「悪く思わないでくれ。人間に慣れていないんだ。どう接していいのか……距離感がつかめなくて」

「私のほうこそ、ごめんなさい」

「此処にいてくれ。必ず戻ってくる」

「約束よ」

「神に誓おう」

 そう云い残してハクロは元来た道を引き返した。


  ※


 けて――

 ふくろういた。茂みの奥で光る眼もいくつか。それ以外は風の音しか聞こえない。きつねたぬきも寝静まっているのだろう。山に静寂せいじゃくが戻るとハクロは泉に戻ってきた。

「……眠っているのか?」

 女は、泉のほとりで膝を抱えてうずくまっていた。肩が小さく震えている。昼間の気丈きじょうさは微塵みじんも感じられない。闇に溶けてそのまま無くなってしまいそうだ。

「ずいぶん遅かったのね」女は顔をあげずに云った。

「獲物が捕まらなくて」

「嘘」

「冷静になる時間が必要だった」ハクロは女の横に立った。「此処、座ってもいいかな?」

「許可を求める必要なんてないわ。誰の場所でもないんでしょう?」

「貴女の隣は空いているかと訊いているんだ」

「好きにしていいわ」

 鎌を近くの樹に立てかけ、荷物をおろす。気の利いた言葉のひとつでもかけてやりたいところだが、とぼしい語彙力ボキャブラリーではそれも難しい。色々迷った挙句あげく、黙ったまま座ることにした。そうすることが一番平和に思えたからだ。

 すこし間を空けつつ、ハクロは女の隣に腰かける。

 沈黙を保ったまま視線を泉へ投じた。

 小魚がねた。名前は知らない。元々無いのかも。

 わずかな揺らぎが観測され、やがて静まり返る。

 在ったものが無くなり、また現れる。同じように視えてもそれは、以前のものとは違う。連続していると錯覚しているだけだ。すべては移ろい、二度と現れはしない。ならば、いま隣にいる女が、昼間に墓で出会った女だとはかぎらない。だが確かめる方法はある。

「訊きたいことがあるんだ」ハクロは女に向けて云った。「どうかこっちを視てほしい。俺は――人間だろうか。もし俺が人間だというなら、名前を呼んでくれないか、サーシャ」

 女がサーシャならば、たがいの名を認識するはずだ。どんなに刻が経って、形が変化しようとも、貼られたレッテルの属性が変わらなければそれは同一と看做みなせる。アイデンティティとは相互理解のうえで成り立つものだ。

 ハクロは続ける。

「影が視えるんだ。無いはずのものが視界に映り込むんだよ。瞳を開けていようと閉じていようと、昼も夜も、俺の意志とは関係なく現れる。正体が分からないから追い払うこともできない。生まれたときからずっとさいなまれてきたんだ。だからそれは俺が忌み子だから、死神だから……呪いを背負った宿命だから視えるのだと、そう思っていた」

「違うわ」女は首を振った。「貴方は忌み子なんかじゃない。光があれば影は映る。それは誰でも視ることができるの」

「ああ、それはサーシャという女性に会ってよく解ったよ。だけどその影は確実に意志を持って俺に付きまとっている。なんの因果いんがでこうなったのか……それを知るには過去を、ルーツを辿たどるしかないと思うんだ」

「無駄よ。過去は――亡霊はなにも語らない。無いものが視えてしまうのは、無いものを在るとしたい貴方の心の闇が光を拒んでいるせいよ。墓は掘り返してはいけないわ。無理に暴こうとすれば逆に引きずり込まれて出られなくなってしまう」

れ物には触れるなと?」

「そのとおりよ。貴方は前だけを見て、光の射す方だけを信じて生きるべきなの。だから、どうか私を視て――ハクロ」

 サーシャは忌み子の名を呼んだ。

「私なら貴方を導いてあげられる」

「信じていいのか?」

「誓ってもいいわ。だからそばを離れないで。お願い」

 サーシャは顔をあげてハクロを見つめた。眼からなみだが零れ落ちる。

「分かった」ハクロは、それを汲み取るようにうなずいた。「俺のほうこそ、よろしく頼む。ずっと傍にいるから、色々教えてくれ」

「ほんとうに?」

「俺も誓うよ。だけど、その前にひとつだけ」

 ハクロは荷物から反物たんものをひとつ取りだす。それは、仕立ての良い藍染あいぞめだった。

 生地を広げ、サーシャの肩にかけてみる。

 だが布は躰を通過し、ひらりと宙を舞った。

「やはり駄目か……」ハクロは肩を落として息をもらした。

「これは?」

「墓に戻って拾ってきた。あそこは色々落ちているから」

「私のためにわざわざ?」

「いつまでも裸ではいけないと思って」

「私は平気よ」

「俺が困る」

 ハクロは視線を泳がせ、頬を赤らめる。

「まあ……」サーシャは口許に手をあてた。

「なにが可笑しいんだ?」

「いいえ、可笑しくないわ。嬉しいの」

「布がか?」

「貴方の、その心がよ」

「無駄になったけれど」

「そんなことないわ」

 サーシャは地面に転げた藍染に手をかざす。

 すると指先からあわい光が立ちのぼり、布がひとりでに浮き始めた。色を変え、形を変えてサーシャの躰を包み込んでいく。光が収束すると反物はローブに変わっていた。サーシャだったものが着ていた黒い装束しょうぞくと同じデザインである。

「どう? これで近づいても大丈夫かしら?」

 サーシャはそでまくってゆっくりと手をのばす。

 ハクロは、身を強張こわばらせつつも逃げることはしなかった。

 迎えるでもなく、ただ流れに任せる。

 やわらかな指先がてのひらに触れた。

 布地越しではあるが、呼吸に合わせて脈打っているのが分かる。実体は無くとも生きている証といえるだろう。サーシャのぬくもりが伝わり、心のなかでわだかまっていたしこりがけていく。

 そしてふたりの手は――しっかりと重なった。

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