第3話 死神の初恋③

「嗚呼――ハクロ。ずいぶん探したわ」

 女は死神の名を呼び、手をのばすとその胸に飛び込んだ。

 だが触れられている実感はない。やはり実体ではないのだ。抱擁ほうようは形だけで、腕はハクロの胸元を貫通している。それでも女には手応えがあるようだ。嬉しそうに零した涙は、ハクロの内側を通過し、一直線に落ちていく。その一滴ひとしずくほのかなあたたかさを感じた。

 無いはずなのに、在る。

 在るはずなのに、無い。

 はかなげに移ろう女の細腕に抱かれながら、ハクロはかすかな既視感きしかんを覚えた。それは此岸しがん彼岸ひがんの境界線上に立つような不安定さだが、どこか懐かしい。輪郭りんかくのぼやけた黒い影が女に重なって映ったが、それがなにかは判然としない。蜃気楼しんきろうのように揺らいでいて、視えているようで見えなかった。

 錯覚か、あるいは幻か……。

 影が過ぎると恐怖も一緒に消えていた。

 ハクロはかまえを解いて鎌をおろす。つたない言葉で女にいた。

「貴女は俺を知っているのか?」

「ええ。貴方はハクロよ」女が答えた。「間違いないわ」

「ハクロ?」

「それが貴方の名前」

「俺に名前が在るのか? 俺は――死神ではないのか?」

巷間こうかんではそう呼ばれているみたいね。不本意でしょうけど、おかげで貴方を見つけることができたわ」

「貴女も死神を倒しに来たのか?」

「この世に死神など――否、あまねく神は存在しないわ。貴方は人間よ、ハクロ」

 ふたたび名前を呼ばれ、ハクロは息をつまらせた。

 ついに人間と認めてくれる者が現れたのだ。とつぜんの僥倖ぎょうこう諸手もろてをあげて歓喜かんきする。だが、もやがかったわだかまりがまだ、心にわずかな影を落としている。この女のほうこそ、

 ――人間なのか? 

 それが判断できない。一見すると人間の女性の姿をしている。ぼやけてはいるが、そうみえる。だが、亜人かもしれないし、人間だとしてもハクロの知らない能力によって変化へんげしているのかもしれない。

 ――これは魔法の一種なのか? 

 言葉を発しただけで火炎や雷土いかづちぶ者を見たことがある。

 しるしを結んだだけで傷をいやす者を見たこともある。

 言葉が通じるし、きつねが化けているよりは呪術じゅじゅつの類である可能性が高い。だが、いずれにしろ、わなである疑いが晴れない。

 だまされているのではないか。たぶらかされているのではないか。まどわされているのではないか、と考えれば考えるほど疑心暗鬼ぎしんあんきおちいってしまう。だが、確かめたくとも真実をうらなう術をハクロは持たない。結局、真っ向からたずねるしかなかった。

「どうして俺がハクロだと判るんだ? なにか証拠でもあるのか?」

「貴方にはいまの私が視えている。そして私には――貴方の闇が視えている。互いの視えざる闇が視えている。それが証拠よ」

 女は真っ直ぐハクロを見つめた。その言葉に嘘や偽りはなさそうだ。ならばやはり視えているのか……。

 黒くてどろどろとした闇のなかで、女にはなにかが視えているのか。

 ハクロには見えていないなにかが、女には視えているのか。

 ハクロは視線をらした。いま視ている女は、女だったものの闇の部分なのだろう。それは――見てはいけない気がした。見れば瘡蓋かさぶたのように気になって仕方がなくなる。爪を立てずにはいられなくなってしまう。

「どうかした?」女は首を傾げ、ハクロの顔を覗き込む。

「いや、なんでもない」ハクロは片手を広げ、視線をさえぎった。「貴女は俺を知っている。いいだろう、それは解った。だが俺は貴女を知らない。どこで、どんなえにしがあった? 浅からぬ縁がなければこんなところまで探しに来ないだろう」

「つまり貴方との関係性を知りたいのね?」

「深い縁を結ぶには時間を要する。だが俺は生まれたときから独りだった。出自を、過去を持っていない。知っているならどうか教えてくれ。俺は――忌み子なのか?」

 眉間みけんに痛みが走り、黒い影が視えた。

 どす黒い闇が頭のなかを這いずり回っている。

 視るなと叫んで触れまわっている。

 ハクロは頭を抱えてひざをついた。

「何故、どうして俺は捨てられなければいけなかったんだ……」

「過去にこだわっているのね?」

「いけないか?」

「たしかに貴方は忌み子という宿命レッテルを背負って生まれたのかもしれない。だけど、それはもう過去のことよ。いまの貴方を忌み子として視る者もすでに存在しないわ。つまりいまの貴方はもう。忌み子ではないのよ」

「どれほどときとうと俺は、俺だ」

「では、こうして話している私と、足許に倒れている私だったものは同一かしら?」

「分からない」

「分からない? 分からないですって? よくご覧なさい。貴方のひと振りでこうなったのよ。死神と呼ばれても文句は云えないでしょう」

「すまない……殺すつもりはなかったんだ」

 ハクロは抱えた頭を地面にこすりつけた。

 たった一度の失敗で、取り返しのつかない事態が起きてしまう。ひとつの命が途絶えていく様をの当たりにし、改めて己の軽率けいそつさをくややんだ。あやまってゆるされることではないが、他のつぐなう方法も思いつかない。ただただすまない、すまないと呪文のように繰り返した。

 女は、ひれ伏すハクロの肩に手をのせる。

「謝らなくていいわ。赦します」

「恨んでないのか?」

「痛かったけれど」

 しかめ面をしてほほふくらませたが、怒っている様子はない。

 女は続ける。

「貴方はいま、こうして話している私のほうを視て、私だと認識しているでしょう? つまり、どう呼ばれるかは、他人からどう認識されるかというだけの話。名前は、であり、貴方そのものではないの。だからもし死神と呼ばれるのが嫌なら、そう呼ばれないように振る舞いを改めればいい。ひとりの人間・ハクロとして認められるようにね」

「俺にできるだろうか?」

「方法を知らなければ私が教えてあげます」

「貴女が?」

「あら、不満? これでも貴方より長く生きているのよ?」

「それは見ればわかる」

「そこはお世辞せじでも『俺より若く見える』と云ったほうが賢明けんめいね」

 女はまた頬を膨らませた。今度は本当に怒っている。

 同じ表情でも込められた感情はまったく違う。その差を理解することはできても、何故殺したことは不問にし、めなかったことには憤怒ふんどするのか解らない。

「すまない。社交辞令しゃこうじれいにはとんとうとくて」

「これまでまともに言葉を交わす相手がいなかったのね。大丈夫、すこしずつ覚えていけばいいわ。そうね……これからは毎日、私と顔を合わせたら挨拶あいさつ代わりに『今日もきれいだね』って云いなさい」

「それが挨拶になるのか?」

「口答えしない」

「解った」

「それから、私のことはサーシャと呼びなさい。これでもちゃんと名前があるんですからね」

「解ったよ、サーシャ」

「もう一度呼んで」

「サーシャ」

「……はい」

 返事をするとサーシャはうつむき、背中を見せた。

 長い髪が揺れる。ハクロと同じ、色素の薄い金髪だった。その、軽くウェーブがかったロングヘアからのぞく小さな肩が震えている。

 サーシャは両手を胸にあて、瞳を閉じていた。

「……泣いているのか?」

 ハクロが問うとサーシャは黙ってうなずいた。

 だが、泣いているのは判っても、どうして泣いているのかは解らない。また気にさわることでもしたかとあせってしまう。

「すまない。傷が痛むんだな」

「いいえ、違うわ」

「痛くないのか?」

「痛くないわ。嬉しいの」

「嬉しくても泣くのか?」

「人間はね――嬉しくても泣けるのよ」サーシャは顔をあげた。

 その瞳は、その顔は――笑っていた。

 うるんだ眼差しに射竦いすくめられ、ハクロの心は激しく揺れ動く。

 ――この女を信じたい。

 そう思った。サーシャから悪意はみ取れない。この手で殺めてしまったかもしれないというい目もある。己が人間だという彼女の言葉が真実だとしたい気持ちも強かっただろう。だが、なによりもサーシャは――美しかった。

 自然と手がのび、その頬に触れる。

 否、触れられはしないのだが……流れるしずくのぬくもりがたしかに伝わる。初めに感じたなみだはほんものだったのだ。

 ハクロはさらに近寄り、サーシャの肩を抱く。

 だがそのとき――遠くで音がした。

 金属のかち合う音が穴倉の外で鳴っている。

「人の足音ね」サーシャが云った。

 彼女の耳にも届いたようだ。

 その声でハクロは我に返り、のばした腕を戻した。無意識のうちに出ていたてのひらを何度か握っては開いてみる。なにがしたかったのか自分でもうまく云い表せない。

 所在しょざいのないこぶし彷徨さまよわせた先には大鎌があった。取り落としそうになりつつもつかを握って体重をあずける。一度大きく息を吸ってから一歩退く。そこでサーシャの全身を視界に捉えた。

 サーシャは裸だった。

 ローブや他の衣類はみんなサーシャだったもののほうに残されていて、いまの彼女はなにも身につけていない。あらわになった肢体したいは細く、しかしやわらかな丸みを帯びている。あきらかにハクロとは躰つきが異なっていた。それはたんに性差せいさがあるというだけの話で、ハクロが異端だからではない。当たり前の結論に思い至ったとたん、急に躰が熱くなった。

 ハクロはやり場のない視線を泳がせ、穴倉から顔を覗かせる。

「……俺を探していた連中だな」

 外では数人の騎士がたむろしている。いずれも男だ。ハクロひとりならばさっさと逃げるところだが、サーシャが見つかるときっと面倒なことになる。

「ほんとうにしつこい。今度こそ追い払ってやる」

 ハクロは鎌を両手で握り締め、飛び出す機会をうかがう。

 だが、それをサーシャがいさめた。ハクロの手に手を重ね、彼女は云う。

ほこを収めて。すぐに力に頼ってはいけないわ」

「何度も説得は試みた。だがやつらは聞く耳を持たない」

「こちらがかまえれば向こうもかまえる。ハクロ、貴方は人間として認められたいのでしょう? なら、私の言葉に従いなさい」

「どうするつもりだ?」

「別のところへ移動しましょう。来て、こっちよ」

「この躰はどうする。このまま置いていくのか?」

「そのままでかまわないわ。埋葬まいそうしなくてもいいし、弔う必要もない。私は此処ここにいるのだから」

 サーシャは身をひるがえし、穴の奥へ進んでいく。

 いさぎよい。未練も執着もなさそうだ。

 一方のハクロは、ローブくらいは着せてやりたいと考え、サーシャだったものから衣類をぎ取ろうとした。だが、その行為はどこか背徳的はいとくてきで気がとがめる。もしかしたら蘇生そせいするかもしれない。そのとき裸では困るだろう。あり得ないことだが、ハクロの持つ狭い常識は、サーシャの登場によってすでに崩壊している。

 あきらめて腰をあげたところでかたわらに光るものが視界に這入った。

 十字架じゅうじかの形をした小さな金属。

 ロザリオだ。

 サーシャがげていた首飾りである。最初の一撃でくさりが切れたのだろう。これくらいならばと拾い上げ、ふところに忍ばせる。それからすぐさま彼女のあとを追った。

「なにをしていたの?」隣に並ぶとサーシャが訊いた。

「いや、すこしでも痕跡こんせきを消しておこうと思って」

「無理もないけれど、ハクロは人間に対して警戒心が強すぎるのよ。もっと力をコントロールしなくちゃ。いつも殺気を放っていては誰も近寄れないわ」

「気をつけるよ」

「私も恨めしい顔なんてしてられないわね。怪物モンスターと間違われたら噴飯ふんぱんものよ」

「やはりあやかしの類ではないんだな……サーシャは――」

 何者だ? 

 そう訊こうとしたが、当人にさまたげられた。たった一本の人差し指を唇にてがわれただけだが、とたんに言葉がげなくなる。

「それ以上の詮索せんさくは無用。貴方が忌み子や死神と呼ばれたくないのと同じように、誰しも探られたくない過去のひとつやふたつはあるものよ。女ならなおさらね」

 サーシャはいたずらっぽく微笑んだ。

 そう云われては返す言葉もない。ハクロは質問するのをやめ、彼女に従い、育った場所を離れる決心をした。

 ふたつの影は闇にまぎれ、墓から姿をくらませた。

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