第5話 死神の初恋⑤【ここ重要】

 それから。

 ハクロはサーシャと暮らすようになった。

 泉のほとりにかんたんな小屋を建て、誰にも見つからぬようひっそりと、ふたりで寝食をともにする。外敵の来ない静かな隠れ家でハクロは、サーシャと交わした約束を忠実ちゅうじつに守り、どこへ行くにも彼女を連れて離れないようにした。そして事あるごとに話をして、多くの知恵をさずかった。

 天気の良い日には外へ出かけ、食料となる野草やきのこみにいく。鹿を狩り、巨大なかえるも獲った。サーシャは、この躰はエネルギーを必要としないからと云って肉には手をつけようとしなかったが、それでも上手にさばく方法を知っていたし、躰のどの部分がどういった機能を果たしているかも教えてくれた。

 食べ方にも作法があるらしい。腹が満たされればそれで充分だと思っていたハクロにとって、胸の前で十字を切るサーシャの行動は奇異きいに映る。しかし、命に感謝する儀式ぎしきよと云われてみれば思い当たるふしがあった。

「昔、死にかけたときに食べた薬草やくそうに手を合わせたよ」

「形はなんでもかまわないの。大切なのは気持ちだから」

「誰も視ていなくとも必要か?」

「貴方自身が視ているわ」

「たしかに、そうかもしれない。残すと悪いことをした気分になる」

「一度に食べきれなければ保存すればいいのよ」

 サーシャは、塩やける方法があると教えてくれたが、調味料がない場合は燻製くんせいが便利だと云った。保存すれば食料の乏しい時期も越えられるし、携帯して遠くまで持ち運べる。遠出する機会があれば試してみようと話した。

 また、夜や雨の日には、小屋でをともして勉学に勤しんだ。

 とくに文字や言葉遣いに関しては徹底しており、独学で覚えた言語はいったんすべて忘れて最初から学び直すよう命じられた。意思の疎通そつうに間違いが起こらないよう矯正きょうせいしたいのだそうだ。

 サーシャは語る。

「言語は伝達するための手段であり、道具なの。道具である以上、正しい使い方を身に着けなくてはいけないわ。それは決して万能ばんのうではないのだから」

「というと?」

「たとえば、鎌だって使い方を間違えれば自分まで傷つけてしまうでしょう?」

「ああ、未熟みじゅくだったころにたくさん怪我を負ったよ」

「言葉や文字もそれは同じ。乱暴に扱えば立派な凶器きょうきとなってしまう。人を傷つけ、ときには死にいたらしめるほど強力な武器にね」

「それは呪文というやつか? 俺には使えないと思うが」

「呪文は誰でも使えるわ。どんな言葉や文字にも『言霊ことだま』は宿っているもの。術師はそれを意図的に使役しえきして、特定の効果を増幅ぞうふくさせているだけなのよ」

「では俺も知らずうちに使っているんだな。言霊なんて視たことがないけれど……」

「視えるものがこの世のすべてではないわ。否――ほんとうは、視えていてもいなくても、在っても無くても、どちらでも同じことなの」

「よく解らないな。無ければ使えないのでは?」

「そこが言霊の不思議ふしぎなところ。言葉や文字はね――のよ」

「置き換える?」

「たとえば時間という概念がいねん。人間は万物ばんぶつ流転るてんを観測し、前後の変化を捉え、その違いを言葉や文字などで表した。連続した時間を『今』から切り離し、『過去』と『未来』を創りだしたの」

「無いものを在るとしたんだな」

「そう。だけどそれは、所謂いわゆるアプリオリというやつで、無意識のうちに無いものを在ると定義付けているだけなのよ」

「アプリオリとは?」

「証明しなくても正しいとされる先験的せんけんてきな認識のこと。だけどそれは、逆説的ぎゃくせつてきにいえば、時間の存在を直感的に知ることはできても、論理的に導いた者はいないということになる。誰もがただ、盲目的に在ると信じているだけなのよ」

「未来はともかく、過去は誰にでも在るんじゃないのか?」

「いいえ。在るのは常に今だけよ。形而下けいじかには過去も未来も存在しないの」

「在ったように記憶しているけれど……その、アプリオリが間違っているというのか?」

「世界の内側にいるかぎり、正しいか間違いかなんて判らないわ。解らないものは死ぬまで保留するしかないけれど……すくなくとも時間は、人間以上の高度な知的生命体ちてきせいめいたいにしか持ち得ない概念であり、万物にとっての共通定義ではないの」

「獣には過去も未来も無いんだな」

「けれど人間は、無いものを在るとする術を持っている」

「それが言霊?」

「そう。ではここでハクロに質問です」サーシャは指を立てて云った。「貴方は自身の体験を他者に伝えたい場合、どうするかしら?」

「それは……言葉や文字にして伝えるしかないだろう」

「言葉は記憶を伝え、文字は記録として残るものね。いいでしょう。だけど、それらが真実であると証明することはできるかしら?」

「嘘なんかくものか」

「他人には判らないわ。身に覚えがあるでしょう?」

 問われてハクロはかえりみる。

 死神とののしられ、育った場所を追い立てられた苦い過去の記憶を――。

 どんなに声をらしても、誰にも届かなかったあの言葉の数々は、今はもう無い。在るとすればそれは、ハクロの頭の中だけである。しかし、その記憶ももうずいぶんと薄れている。あやふやで、おぼろで、不鮮明だ。無いと云われればそうなのかもしれない。すくなくとも原形は留めていなかった。しかし――

「たしかに在った。在ったんだ……」

「では、それを証明してみせて」

「だからこうして言葉を尽くしているじゃないか」

「それでは伝わらないと云っているのよ」

「頭を割って覗いてもらうわけにはいかないし、信じてもらうしかないだろう。言葉の真偽しんぎを証明するなんて不可能だ」

「そう、言葉の完全性を言葉で証明することは不可能なのよ。そこが言葉の限界であり、不可思議ふかしぎな点でもある。それは送り手から離れ、受け手に届く過程で劣化し、ついには幻と化す。幻は受け手のなかで再構築され、現実とはなる仮想世界かそうせかいを生みだすの」

「仮想世界……?」

「呼び方はなんでもかまわないわ。異世界だろうと、パラレルワールドだろうと。言葉によってつむがれた世界はあまねく――偽物にせものなのよ」

 サーシャはそううそぶいた。

 彼女の眼にはなにが映っているのだろう。間近にいるのにひどく遠くに感じる。同じ場所に立っていても、同じものが見えているとはかぎらない。言葉だけでは埋めきれないへだたりがふたりの間には存在している。

「結局、無いものを在ると定義した上で、信じるしかないし、信じさせるしかないわけ」

「無いものを在ると信じさせるだなんて、なんだか魔法みたいな話だな」

「呪文とはなのよ」

「その魔法を正しく使うためにはどうすればいい?」

「まず前提条件として、送り手と受け手がともに、言語をかいする知的生命でなければならないわ」

むしに呪文はかからないんだな」

「相手が人間であろうと、言葉が通じないものにはどんな呪文も無効よ。両者が言語に対して共通理解を持っていなければならないの。もしも受け手と送り手のどちらか一方が反対の意味で解釈していたら効果は真逆となってしまうでしょう」

「祝うつもりが呪う結果になるかもしれないわけだ」

「人間は、誤解することもあれば間違うこともあるわ。それはとても危険なこと。誤って大事な人を呪っては眼も当てられないでしょう? 悲劇を起こさないためにも、道具を使用するときは細心の注意を払わなくてはいけないの」

「他に大切なことは?」

「できるだけ簡潔かんけつに伝えること。話はややもすると冗長じょうちょうになりがちだから。それから、伝えるタイミングも重要よ。真に伝えるべき情報は筋の佳境かきょうに持ってくるの」

「なるほど」

「だけどなにより、祝うにしろ呪うにしろ、言霊を届けようとする強い想念を大事にしなさい。それは相手の存在を認める行為に他ならないのだから」

 サーシャはじっとハクロを見つめた。

 心臓が跳ね、内側から破裂しそうになる。

 高鳴りが収まると、次に訪れたのは心地よい沈黙。

 互いに息をとめ、流れる時間が次第にゆるやかになっていく。

 透き通った眼差しに射竦いすくめられてしまいそうだ。

 だが、その視線はどこかピントがぼやけている。彼女が結んでいる像は、ハクロのすこし後ろを差している。そこに視えないなにかが視えているのか、小さく息を吐き、ひとり何事かを呟いた。

 もちろんそこにはなにもいないのだが。

 ハクロも詰めていた息を戻す。

「……それにしても、人間はどうしてこんな脆弱ぜいじゃくな道具をいまだに使い続けているんだろう?」

「他に方法が無くとも、己の世界を大切な人に共有してもらいたいからでしょうね。記録に残し、記憶に留め、私は此処に在る。在ったんだってことを信じてもらいたい。ハクロが生まれた意味を求めるように、人間はね――」


 物語を必要としているの。


「物語とは、言葉を受け取った者に立ち現れる仮想世界よ。だけど、リアリティをもって語られた言葉や文字には、たしかにそこに在ると感じさせてくれるだけの魔力が宿っている。それは言霊によって偽物が本物に置き換えられた結果なの」

 過去も未来も、物語のなかにしか存在しない幻である。

 証明できない前提条件のうえで成り立つこの世界でさえ、砂上の楼閣ろうかくに過ぎないのだ。

 無いものを在ると仮定する行為は、視えないものを見えると置き換えることに等しい。したがって、ハクロが視ている女の正体も、無いはずの過去の亡霊である可能性は排除しきれない。

「……サーシャも俺になにかを伝えようとして現れた物語なのか?」

「どうかしら?」

 サーシャは頬に指を当て、小首を傾げて微笑んだ。彼女は自身のことについて聞かれるとこうやってはぐらかすのだ。

 ハクロも了解しているので深追いはしない。訊きたい衝動を堪えつつ、黙って続きをうながす。

「ハクロから見て、貴方以外のすべては、貴方が紡いだ物語の一部といえるでしょう。だけど、それは誰にとっても同じこと。たったひとつしかない世界のなかで、全員が主人公になることは難しい」

「俺は主人公になれるだろうか?」

「解らないわ。それはたったひとつの椅子を奪い合うようなものだから」

「つめたいな」

「私が貴方を蹴落とそうとするライバルではないという証明は絶対にできないもの」

「盲目的に信じるしかない、か……」

「そんな私から助言できることはただひとつだけ」サーシャは長い指を天に向ける。「貴方を脇役わきやくおとしめようとする者に惑わされないで。どんなに魅力的な言葉で誘われようと、自分のことは――自分で決めなさい」

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