第5話 死神の初恋⑤【ここ重要】
それから。
ハクロはサーシャと暮らすようになった。
泉の
天気の良い日には外へ出かけ、食料となる野草や
食べ方にも作法があるらしい。腹が満たされればそれで充分だと思っていたハクロにとって、胸の前で十字を切るサーシャの行動は
「昔、死にかけたときに食べた
「形はなんでもかまわないの。大切なのは気持ちだから」
「誰も視ていなくとも必要か?」
「貴方自身が視ているわ」
「たしかに、そうかもしれない。残すと悪いことをした気分になる」
「一度に食べきれなければ保存すればいいのよ」
サーシャは、塩や
また、夜や雨の日には、小屋で
とくに文字や言葉遣いに関しては徹底しており、独学で覚えた言語はいったんすべて忘れて最初から学び直すよう命じられた。意思の
サーシャは語る。
「言語は伝達するための手段であり、道具なの。道具である以上、正しい使い方を身に着けなくてはいけないわ。それは決して
「というと?」
「たとえば、鎌だって使い方を間違えれば自分まで傷つけてしまうでしょう?」
「ああ、
「言葉や文字もそれは同じ。乱暴に扱えば立派な
「それは呪文というやつか? 俺には使えないと思うが」
「呪文は誰でも使えるわ。どんな言葉や文字にも『
「では俺も知らずうちに使っているんだな。言霊なんて視たことがないけれど……」
「視えるものがこの世のすべてではないわ。否――ほんとうは、視えていてもいなくても、在っても無くても、どちらでも同じことなの」
「よく解らないな。無ければ使えないのでは?」
「そこが言霊の
「置き換える?」
「たとえば時間という
「無いものを在るとしたんだな」
「そう。だけどそれは、
「アプリオリとは?」
「証明しなくても正しいとされる
「未来はともかく、過去は誰にでも在るんじゃないのか?」
「いいえ。在るのは常に今だけよ。
「在ったように記憶しているけれど……その、アプリオリが間違っているというのか?」
「世界の内側にいるかぎり、正しいか間違いかなんて判らないわ。解らないものは死ぬまで保留するしかないけれど……すくなくとも時間は、人間以上の高度な
「獣には過去も未来も無いんだな」
「けれど人間は、無いものを在るとする術を持っている」
「それが言霊?」
「そう。ではここでハクロに質問です」サーシャは指を立てて云った。「貴方は自身の体験を他者に伝えたい場合、どうするかしら?」
「それは……言葉や文字にして伝えるしかないだろう」
「言葉は記憶を伝え、文字は記録として残るものね。いいでしょう。だけど、それらが真実であると証明することはできるかしら?」
「嘘なんか
「他人には判らないわ。身に覚えがあるでしょう?」
問われてハクロは
死神と
どんなに声を
「たしかに在った。在ったんだ……」
「では、それを証明してみせて」
「だからこうして言葉を尽くしているじゃないか」
「それでは伝わらないと云っているのよ」
「頭を割って覗いてもらうわけにはいかないし、信じてもらうしかないだろう。言葉の
「そう、言葉の完全性を言葉で証明することは不可能なのよ。そこが言葉の限界であり、
「仮想世界……?」
「呼び方はなんでもかまわないわ。異世界だろうと、パラレルワールドだろうと。言葉によって
サーシャはそう
彼女の眼にはなにが映っているのだろう。間近にいるのにひどく遠くに感じる。同じ場所に立っていても、同じものが見えているとはかぎらない。言葉だけでは埋めきれない
「結局、無いものを在ると定義した上で、信じるしかないし、信じさせるしかないわけ」
「無いものを在ると信じさせるだなんて、なんだか魔法みたいな話だな」
「呪文とは言葉や文字による魔法なのよ」
「その魔法を正しく使うためにはどうすればいい?」
「まず前提条件として、送り手と受け手がともに、言語を
「
「相手が人間であろうと、言葉が通じないものにはどんな呪文も無効よ。両者が言語に対して共通理解を持っていなければならないの。もしも受け手と送り手のどちらか一方が反対の意味で解釈していたら効果は真逆となってしまうでしょう」
「祝うつもりが呪う結果になるかもしれないわけだ」
「人間は、誤解することもあれば間違うこともあるわ。それはとても危険なこと。誤って大事な人を呪っては眼も当てられないでしょう? 悲劇を起こさないためにも、道具を使用するときは細心の注意を払わなくてはいけないの」
「他に大切なことは?」
「できるだけ
「なるほど」
「だけどなにより、祝うにしろ呪うにしろ、言霊を届けようとする強い想念を大事にしなさい。それは相手の存在を認める行為に他ならないのだから」
サーシャはじっとハクロを見つめた。
心臓が跳ね、内側から破裂しそうになる。
高鳴りが収まると、次に訪れたのは心地よい沈黙。
互いに息をとめ、流れる時間が次第に
透き通った眼差しに
だが、その視線はどこかピントがぼやけている。彼女が結んでいる像は、ハクロのすこし後ろを差している。そこに視えないなにかが視えているのか、小さく息を吐き、ひとり何事かを呟いた。
もちろんそこにはなにもいないのだが。
ハクロも詰めていた息を戻す。
「……それにしても、人間はどうしてこんな
「他に方法が無くとも、己の世界を大切な人に共有してもらいたいからでしょうね。記録に残し、記憶に留め、私は此処に在る。在ったんだってことを信じてもらいたい。ハクロが生まれた意味を求めるように、人間はね――」
物語を必要としているの。
「物語とは、言葉を受け取った者に立ち現れる仮想世界よ。だけど、リアリティをもって語られた言葉や文字には、たしかにそこに在ると感じさせてくれるだけの魔力が宿っている。それは言霊によって偽物が本物に置き換えられた結果なの」
過去も未来も、物語のなかにしか存在しない幻である。
証明できない前提条件のうえで成り立つこの世界でさえ、砂上の
無いものを在ると仮定する行為は、視えないものを見えると置き換えることに等しい。したがって、ハクロが視ている女の正体も、無いはずの過去の亡霊である可能性は排除しきれない。
「……サーシャも俺になにかを伝えようとして現れた物語なのか?」
「どうかしら?」
サーシャは頬に指を当て、小首を傾げて微笑んだ。彼女は自身のことについて聞かれるとこうやってはぐらかすのだ。
ハクロも了解しているので深追いはしない。訊きたい衝動を堪えつつ、黙って続きを
「ハクロから見て、貴方以外のすべては、貴方が紡いだ物語の一部といえるでしょう。だけど、それは誰にとっても同じこと。たったひとつしかない世界のなかで、全員が主人公になることは難しい」
「俺は主人公になれるだろうか?」
「解らないわ。それはたったひとつの椅子を奪い合うようなものだから」
「つめたいな」
「私が貴方を蹴落とそうとする
「盲目的に信じるしかない、か……」
「そんな私から助言できることはただひとつだけ」サーシャは長い指を天に向ける。「貴方を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます