第6話 死神の初恋⑥

 やがて。

 ハクロがひととおり言語を習得し終えると、次にサーシャは知識を授けだした。

 世界中に伝わる歴史や文化・民族・宗教・哲学といった古典こてんから始まり、最新の科学技術や数学、医学に政治経済・芸能・音楽、さらには兵法へいほほう占星術せんせいじゅつまで、すぐに理解できなくともいつか必ず役に立つ機会が訪れると、あらゆる分野を網羅もうらしていく。

 教鞭きょうべん夜通よどおられることもあったが、しかし勉強は楽しかった。

 サーシャの教え方がうまいこともあるが、なにより、世界にはまだハクロの知らない物語で満ちていることが分かった。好奇心がたかぶれば実際に見て触れたいと考えるようになるのは自然な流れだろう。

「いつか世界中を旅してみたい」

 ハクロは、休憩きゅうけいがてら小屋を出て、泉のふちで寝そべりながら宇宙を眺める。広大な闇のなかには小さな星が無数に点在し、ふたりを明るく照らしている。向こう側にも誰かがいて、ハクロが夢想しているように、同じ想いをせているのかもしれない。

 だがこの星の、この大陸内でさえ数えきれないほどの命が存在していて、そのほとんどと出会ったことすらないのだ。悠久ゆうきゅうときを経て飛来ひらいする光の速度を計算すれば、遭遇そうぐうする確率は万に一つよりも小さいだろう。それだけこの世界は広いのだ。

 瞳を輝かせつつもハクロは、己の小ささに苦笑する。幼かったとげは成長とともに抜け落ち、このごろは笑顔が増えるようになった。大人びていくハクロをやさしく見守る恩師おんしが傍にいるからだろう。

 サーシャはゆっくりと腰をおろしながら云った。

「ハクロなら何処へだって行けるし、なりたいものになれるわ。だけど、そのためは挨拶あいさつ礼儀マナーも覚えなくちゃね。人前に出るなら身嗜みだしなみや振る舞いも大事よ。人は見えるものにとらわれやすい生き物だから」

「俺は気にしたことがないけれど」

「外見にコンプレックスを持っていないからよ。顔立ちは整っているし、背も高い。なにを着てもよく似合いそう。女性ならみんな貴方をほうっておくはずがないわ。いつかきっと素敵な人が現れて貴方を見初みそめることでしょう。なんだかけてしまうわ」

「俺はべつに……」

 サーシャさえ隣にいれば他の人なんて――。

 人里離れたこの泉で彼女とふたり過ごす時間は、独りで生き抜いてきた幼少時代よりもずっと楽しい。

 サーシャは、全知全能かと思えるほど博学はくがくで、話をするのも聞くのも上手だ。彼女の言霊に耳を傾けているだけで己のなかに新しい世界が次々と広がっていく。

 いつまでもこんな日々が続けばいいのにと思う。

 しかしその想いを口にすることは躊躇ためらわれる。

 サーシャは昔のままで、出逢ったころからなにも変わっていない。外見的な年齢だけなら追いついたのではないか。彼女は、実体を持たず、精神だけの存在となっているからだろう、時間を刻むことを忘れてしまったかのように若さを保っていた。

 だが、サーシャは永遠を望んだりはしないはずだ。狩りを終えて食事をするたびに、人は出逢いと別れを繰り返すものだと語っている。

 なにものにも執着しゅうちゃくしない姿勢は頼もしくあるが、同時にさみしくもあった。いつもどこかはかなげで、眼を離したすきに消えてしまうのではないかと不安になる。

 そんな心中をおもんばかってか、ふいにサーシャが手招きをした。

「さあハクロ、こっちへきて。いつものように髪をいてあげましょう」

 ハクロは黙って背中を預け、瞳を閉じた。髪を洗ってもらうことが日常となっているのだ。初めは抵抗があったが、今ではもうすっかり慣れてしまった。

 サーシャは両手を泉にひたして水をすくう。れた指先でくしを通すようにハクロの髪へ流した。直接触れられなくとも水のしたたりが彼女の存在を伝えてくれる。でられているようでなんだかくすぐったい。

「ほんとうに綺麗きれいな髪……」サーシャが呟いた。

「そうかな?」

「なめらかでくせがない。とても良い質をしているわ。私とは大違い」

「サーシャも、その……綺麗だと思うけど」

「見え透いたお世辞はいらないわ」

「サーシャが云えって」

「分かっているわ。すこし意地悪をしてみたかっただけ。ありがとう。憶えてくれていたのね。すごく嬉しい」

 サーシャは微笑んだ。

 だがその笑顔はどこか形式的でよそよそしい。どれほど時間を重ねても、ふたりの距離がゼロになることは決してないのだ。サーシャの秘密主義が原因ではない。うまく気持ちが伝わらないためだろう。伝えたい想いはこんな上辺うわべかざりではないはずなのに、どんな言葉を選んでも、口にすると嘘のように宝石は路傍ろぼうの石へと姿を変えてしまう。

 しょせん呪文は幻ということか。

 完全な理解が得られないならば、他になにをもって証とすればいいのだろう。

 にもつかない考えを巡らせているうちに髪を梳き終えたようで、サーシャはハクロから手を離した。泉に足を浮かべると波紋をつくりながら水面を渡っていく。中央に広がる睡蓮すいれんまで辿り着くと彼女は振り返った。その清らかな頬に伝っているのは跳ね返った水飛沫みずしぶきなのか、それとも――

 サーシャを視ていると心臓を締めつけられたように胸が痛む。

 あれほど渇望かつぼうしていた静寂もいまはただただ息苦しい。だが、話題を探そうとしても漏れるのはため息ばかりだ。

 うたが聞こえた。

 サーシャが口ずさんでいる。

 明るい調子ではない。だが悲しくもない。乱れた心をいやしてくれるような、不思議な旋律メロディーだった。

「それはなんという曲だ?」

「さあ……この地方に伝わる有名な曲だけど、たしか無題だったような。ほんとうは在るのかもしれないけど、み人知らずとされているの」

「それでも残るんだな」

すぐれた芸術はどんなにながい時間の試練にも耐えられるものよ」

「ますます作者が知りたくなるな」

「あるいは、作者不詳さくしゃふしょうというなぞが聞き手の興味をきつけてまないのかも」

「手がかりはないのか?」

「一説では闘争とうそう女神めがみが自らほふったたましいたちを浄化するために創った鎮魂歌レクイエムだと伝えられているわ。私は母がうたっているのを子守唄こもりうた代わりに聴いて覚えたの」

「サーシャにも母親がいるんだな」

「あら、私だって土からえてきたわけじゃないのよ?」

 サーシャは頬を膨らませてハクロをにらんだ。

 怒っているわけではない。互いに冗談だと了解している。

「サーシャの生まれたところを見てみたい。いつか案内してくれないか」

「それは……あまり気が進まないわね」

故郷こきょうに戻りたくないのか?」ハクロがたずねた。

 サーシャはうつむき、顔をらした。

 沈黙は本音の証だ。表情にかげりがみえる。

 ゆらり――と不規則に波紋が乱れた。

「これはね、想像のお話だけど――」

 サーシャは唐突とうとつに話題を替えた。

 過去を掘り返されるのを嫌ったのかと思ったが、どうも様子が違う。

「この大陸にある領地の、ある村に、ひとりの少女が暮らしていたの」

「それはサーシャのことか?」

「いいえ。過去に在ったとされる記憶の話よ」

「物語だな」

「そう。誰にも語られることのない、名も無き少女の物語。その少女が住んでいた村はとても貧しい地域で、ろくに作物は育たず、わずかな小麦を収穫することさえ困難だった。それでも少女は、老いた両親を養い、その日のえを満たすため、山羊やぎの乳をしぼり、わらんだ。毎日休むことなく献身的けんしんてきに働き続けたの。いつか救いの神がりてくると信じてね。ところがある日、そんな少女の前に現れたのは奇跡ではなく、偶然という名の悪魔だった」

「悪魔……」

「冬の終わりが近づいたある朝、とつぜん村の地面が裂け、深い谷が生まれたの。そこから這い上がってきたのは硬いうろこを持つ巨大な蜥蜴とかげだった。蜥蜴はみにくく舌を垂らしていたけれど、知性を持っていたわ。人語を操る魔獣まじゅうだったの。蜥蜴はふたつの足で歩き、空いた両手には鋭い爪を持っていた。そのまされた刃で村人をおそいはじめたの」

「食べるためか?」

「いいえ。子孫しそんを残すためよ。蜥蜴は村に駐在ちゅうざいしていた国の憲兵けんぺいみなごろしにして、首を掲げてこう云ったわ。『殺されたくなければ我らに生贄いけにえささげよ。日が替わるまでに生娘きむすめをひとり、首に印をつけ、大地の裂け目から突き落とせ』――とね」

「それで子を産めるのか?」

「無理に決まっているわ。人間と魔獣とでは躰の構造が根本的に異なるもの」

「なら、そいつは頭が悪かったんだな。しょせん蜥蜴というわけだ」

迷信めいしん蔓延はびこるだけの文化を持っていたということよ。視点を変えてみれば、蜥蜴にとってはしゅ維持いじするためにとった必然の行動だったといえるでしょう」

「そうだとしても、おとなしく従う必要はない」

「もちろん、そのとおりよ。だけど非力な村人たちにはなす術がなく、蜥蜴を恐れた。与えられた猶予ゆうよが過ぎる前に結論を出さなくてはいけない。だけど街にいる領主りょうしゅまで助けを求めに行きたくとも、憲兵はすでに殺されて通信は不可能だし、貴重な馬も谷に落とされて移動手段を失ってしまった。逃げ道のない閉塞感へいそくかんが冷静な判断力をうばったの。そして村の総意そういは、全滅するよりもひとりの命で妥協だきょうする道を選んだ。死への恐怖という強力な魔法をかけられて、誰も抗うことができなかったのよ」

「魔獣の術中じゅっちゅうまったわけだ」

「だけど、此処で当然のようにある問題が持ち上がった」

「誰を犠牲ぎせいにするかだな?」

「村には何人かの候補こうほがいたけれど、当然ながら名乗りでる者はいなかった。す者もいない」

「身を投げるほうも嫌だろうが、突き落とすほうも罪悪感が伴うな」

「それでも期限内に決めなくては全滅してしまう。誰もが押し潰されそうな緊迫感きんぱくかんあえいだわ」

「それでどうしたんだ?」

膠着状態こうちゃくじょうたいを打ち破る者がひとり、自ら手をげたの。それは貧しい村の中でもさらに立場の弱い家の少女だった。娘は、震える声をいさめながらこう云ったわ。『父と母を最期さいごまでてくれるならば、私が人身御供ひとみごくうとなりましょう』と。とこに伏せたままの両親をのぞけば、反対する者など誰もいなかった。少女は家族に別れをげ、首にすみるとその足で大地の裂け目におもむき、宙に身をおどらせた。だけどそこで――」

 予期よきせぬことが起きた。

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