第6話 死神の初恋⑥
やがて。
ハクロがひととおり言語を習得し終えると、次にサーシャは知識を授けだした。
世界中に伝わる歴史や文化・民族・宗教・哲学といった
サーシャの教え方がうまいこともあるが、なにより、世界にはまだハクロの知らない物語で満ちていることが分かった。好奇心が
「いつか世界中を旅してみたい」
ハクロは、
だがこの星の、この大陸内でさえ数えきれないほどの命が存在していて、そのほとんどと出会ったことすらないのだ。
瞳を輝かせつつもハクロは、己の小ささに苦笑する。幼かった
サーシャはゆっくりと腰をおろしながら云った。
「ハクロなら何処へだって行けるし、なりたいものになれるわ。だけど、そのためは
「俺は気にしたことがないけれど」
「外見にコンプレックスを持っていないからよ。顔立ちは整っているし、背も高い。なにを着てもよく似合いそう。女性ならみんな貴方をほうっておくはずがないわ。いつかきっと素敵な人が現れて貴方を
「俺はべつに……」
サーシャさえ隣にいれば他の人なんて――。
人里離れたこの泉で彼女とふたり過ごす時間は、独りで生き抜いてきた幼少時代よりもずっと楽しい。
サーシャは、全知全能かと思えるほど
いつまでもこんな日々が続けばいいのにと思う。
しかしその想いを口にすることは
サーシャは昔のままで、出逢ったころからなにも変わっていない。外見的な年齢だけなら追いついたのではないか。彼女は、実体を持たず、精神だけの存在となっているからだろう、時間を刻むことを忘れてしまったかのように若さを保っていた。
だが、サーシャは永遠を望んだりはしないはずだ。狩りを終えて食事をするたびに、人は出逢いと別れを繰り返すものだと語っている。
なにものにも
そんな心中を
「さあハクロ、こっちへきて。いつものように髪を
ハクロは黙って背中を預け、瞳を閉じた。髪を洗ってもらうことが日常となっているのだ。初めは抵抗があったが、今ではもうすっかり慣れてしまった。
サーシャは両手を泉に
「ほんとうに
「そうかな?」
「なめらかで
「サーシャも、その……綺麗だと思うけど」
「見え透いたお世辞はいらないわ」
「サーシャが云えって」
「分かっているわ。すこし意地悪をしてみたかっただけ。ありがとう。憶えてくれていたのね。すごく嬉しい」
サーシャは微笑んだ。
だがその笑顔はどこか形式的でよそよそしい。どれほど時間を重ねても、ふたりの距離が
しょせん呪文は幻ということか。
完全な理解が得られないならば、他になにをもって証とすればいいのだろう。
サーシャを視ていると心臓を締めつけられたように胸が痛む。
あれほど
サーシャが口ずさんでいる。
明るい調子ではない。だが悲しくもない。乱れた心を
「それはなんという曲だ?」
「さあ……この地方に伝わる有名な曲だけど、たしか無題だったような。ほんとうは在るのかもしれないけど、
「それでも残るんだな」
「
「ますます作者が知りたくなるな」
「あるいは、
「手がかりはないのか?」
「一説では
「サーシャにも母親がいるんだな」
「あら、私だって土から
サーシャは頬を膨らませてハクロを
怒っているわけではない。互いに冗談だと了解している。
「サーシャの生まれたところを見てみたい。いつか案内してくれないか」
「それは……あまり気が進まないわね」
「
サーシャは
沈黙は本音の証だ。表情に
ゆらり――と不規則に波紋が乱れた。
「これはね、想像のお話だけど――」
サーシャは
過去を掘り返されるのを嫌ったのかと思ったが、どうも様子が違う。
「この大陸にある領地の、ある村に、ひとりの少女が暮らしていたの」
「それはサーシャのことか?」
「いいえ。過去に在ったとされる記憶の話よ」
「物語だな」
「そう。誰にも語られることのない、名も無き少女の物語。その少女が住んでいた村はとても貧しい地域で、ろくに作物は育たず、わずかな小麦を収穫することさえ困難だった。それでも少女は、老いた両親を養い、その日の
「悪魔……」
「冬の終わりが近づいたある朝、とつぜん村の地面が裂け、深い谷が生まれたの。そこから這い上がってきたのは硬い
「食べるためか?」
「いいえ。
「それで子を産めるのか?」
「無理に決まっているわ。人間と魔獣とでは躰の構造が根本的に異なるもの」
「なら、そいつは頭が悪かったんだな。しょせん蜥蜴というわけだ」
「
「そうだとしても、おとなしく従う必要はない」
「もちろん、そのとおりよ。だけど非力な村人たちにはなす術がなく、蜥蜴を恐れた。与えられた
「魔獣の
「だけど、此処で当然のようにある問題が持ち上がった」
「誰を
「村には何人かの
「身を投げるほうも嫌だろうが、突き落とすほうも罪悪感が伴うな」
「それでも期限内に決めなくては全滅してしまう。誰もが押し潰されそうな
「それでどうしたんだ?」
「
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