第29話 過去の亡霊⑤

 サーシャは、毛布を被って横たわるサクヤに向け、要点をかいつまんで説明した。

 まるで幼子を寝かしつけるために童話を読み聞かせているかのようだが、これは御伽噺おとぎばなしでも昔話でもない。これから起きる忌まわしい未来の話である。破滅をもたらす死神の話である。

 まず、明日行われる婚姻の儀に邪魔が入るところから打ち明けた。

 残酷な内容に喉をつまらせそうになるが、それでもできるかぎり精確な情報を伝えようと言葉を選ぶ。

 話している間、サクヤはずっと沈黙を続けていた。途中で割り込んだり、話の腰を折ったりはしない。もちろん眠っているわけでもなく、ときどき相づちを打って、ちゃんと聞いているというポーズをとるだけだ。

 サーシャは、サクヤが死神にそそのかされ、悪しき者をはらんでしまうことを告げる。そして――

「サクヤ様は忌み子を産むと同時に果ててしまうのです」

 話し終えるとサクヤの顔を見た。

 か弱き天才は眼を閉じ、じっとなにかを考えている。内側の世界で話を再構築しているのだろう。どういう反応が返ってくるのか想像もつかない。

 迫る死の恐怖に怯えるのか、それとも……

 しばらく沈黙が流れたが、サクヤはおもむろに躰を起こす。それからサーシャを見つめて微笑んだ。

「おもしろい話ね」

「冗談などではありません」

可笑おかしいのではなく、興味深いという意味よ」サクヤは人差し指を立てた。「ひとつ質問があります」

「どうして私に未来が分かるのか、ですね?」

「ええ。私を驚かせようというサプライズならば大歓迎だけど、ジョークにしては悪質だわ。作り話とは思えないけれど、予測にしては不確定な要素が多すぎる。それでも貴女の話には、あたかもその眼で見てきたようなリアリティを感じたわ」

「実は私は……」

 当然の疑問にどう答えるべきかサーシャは逡巡した。

 だが此処で嘘を吐いても始まらない。正直に話したところで荒唐無稽こうとうむけいだと一笑にされるだけかもしれないが、十五年先の未来からやってきたと告げた。

「時間を操る魔法ですか……」サクヤはわずかに眼を見開く。「フィクションではよく眼にするけれど」

「やはり信じられませんか?」

「そんなことはないわ」サクヤは首を振った。「人間が想像し得るすべての事象は、かならず人間によって実現できるの。それは、観測する行為そのものが世界に影響を与えているという証拠に他ならない」

「シュレディンガーの猫ですね。ですが、これは思考実験でも、空想科学でもありません。私は魔法によって、時間をさかのぼってやってきたのです」

「誰が魔法を仕掛けたの?」

「魔法をかけたのは領主オルドロス様です。サクヤ様の死を受け入れられず、長い時間をかけて編み出しました」

「そのオルドロス様はいまどちらに?」

「婚礼に向けて準備を進められているはずです。お会いできるのは明日になるかと」

「彼も未来からやってきたのね?」

「はい」

「貴女たちふたりだけで?」

「いいえ。サクヤ様以外の、世界のすべてです」

「ふむ……」

「なにかご不明な点でも?」

「ええ」サクヤはこめかみをたたいた。脳内でニューロンが活発に動いている証拠だ。「どちらかといえば、貴女たちが過去へ戻ったのではなく、私だけが未来へ進んだとみるべきじゃないかと思って」

「現象としては同じことです」

「そうかしら? 万物は流転しているだけであり、過去も未来も現実には存在しないわ。在るのは常に今だけであり、混沌と移ろっているだけなのよ」

「時間は不可逆だとおっしゃりたいのですね?」

「それでももし、世界を過去に在った状態に戻そうと考えるなら、観測者全員の時間軸を過去の一点に向けて集束させなければならない。だけど私たち人間は全知全能ではないわ。私以外の、ある時点の情報をすべて集めて再現するなんて不可能よ。それよりも、観測できる世界と人物を限定し、閉じた社会のなかでサクヤという人物を演じさせるほうがはるかに現実的じゃないかしら?」

「自分はサクヤ様ではないとおっしゃるのですか?」

「私がサクヤであるかどうかは他人が決めることよ」

「貴女様はサクヤ様です」

「良い? 時間は相対的な概念であり、誰もが同じ速度で消費しているわけではないの。だから、術者が特定の人物の時空を恣意的しいてきに早めたり遅らせたりすればあるいは――過去に戻ったように見せかけることは可能かもしれない」

「あの、サクヤ様……」

「もしこの仮説が正しければ、ほんとうのサクヤはすでに死んでいることになる。だけど、こうして私がサクヤとして生きている。つまり貴女たちは時間を操ったのではなく……」

「サクヤ様、あまり興奮されては御身おんみさわります」

 サーシャは手を広げ、上体を起こして熱弁するサクヤの言葉を遮った。

 彼女は頭が良い。情報を与えすぎると魔法が解けてしまいそうだ。毛布に隠れた躰が骨と皮だけに戻っていないことを願いながら、無理に寝かしつけようと横にさせる。

「ねえ、サーシャ。外の世界はどうなっているの? ぜひとも知りたいわ」

「サクヤ様の想像どおりに動いています」

「観測するまで不確定よ。もしかしたら世界はこの地上ただひとつだけで、ほんとうは天のほうが動いているのかもしれないじゃない」

「私たちは世界の中心ではありません。天動説なんて誰も信じていませんよ」

「そう、誰も信じなくなったから、私たちはこの世界の主人公ではなくなってしまった。私たちは神じゃない。だけど、この眼で確かめるまでは、解らないと答えるのがきっと正しい」

「元気になればいつか出掛けられますから」

「ハクロ様とおっしゃいましたか……その御方は私を外へ導いてくださるのよね?」

「死神の甘言かんげんにのってはいけません」

「私には世界を共有させてもらえないのね」

「貴女様はひとりで完結している天才です。外にあるものは不純物に過ぎません」

「そんなことはないわ。この世界に無駄なものなんてひとつもないの」

「この世界は美しいものばかりとはかぎりません。見ないほう良い現実もあるのです」

「それでも私は知りたい。この眼で見て、この手で触れたい。知的好奇心は、人が持つ根源的な欲求のひとつよ。ねえ、どうか真実を教えてちょうだい。私を檻に閉じ込めようとしているのは誰? 貴女は私が生き返るまでずっと見守ってくれていたのでしょう?」

「サクヤ様はまだ死んでいません。すこし――永い眠りについていただけです」

「嘘よ。ほんとうは解っているのでしょう? 死は、終わりは忌避きひすべき対象ではない。永遠に生きられる命などないの」

「貴女様ほどの魂の持ち主であれば、どんなに永い時間の試練にだって耐えられます。私でさえ、ほら、このとおり。時間を遡ったために若いままです」

 サーシャはローブを脱いで肌をみせた。その四肢ししはなめらかで瑞々みずみずしい。ただ逃げだしたくて入墨を彫った無知な生娘だった、あのころのままの姿を保っている。だがそれは、躰が元に戻ったわけではなく、サーシャの魂を映した鏡に過ぎない。

「魔法が正しく機能している証拠です」

「便利な言葉よね。魔法といえば納得させられるのだから」

「仕組みが解らなくとも使えるということが大切なのです」

 世界の全貌など知らなくても生きていけるように。

 生まれた意味など知らなくとも生きていけるように。

 パンドラのはこはブラックボックスだから意味がある。中身が不明という点において価値があるのだ。

 だがサーシャはすでに匣のなかを覗いている。

 閉じられた本に書かれた筋をっている。

 しょせんこの世はフェアリーテイルだ。

 見えるものも感じるものも、躰も心もすべて幻だ。

 だけど、嘘と解っていても本物と信じて演じなければ生きていけない。

 だからサーシャは言葉を紡ぐ。

 嘘偽って、呪文を唱えて、魔法をかたる。

 希望に絶望し、未来を変えようと奮起ふんきする。

「見た目だけではありません。私のなかでずっと変わらないものがあります。愛すべき者への忠誠ちゅうせいです」

「私を想ってくれているのよね?」

 サクヤはじっとサーシャを見つめた。穢れのない瞳の奥に何もかも見透かしたような知的さを備えている。

「はい。ですから私を信じてください。私が貴女様の運命を変えてみせましょう」

「運命ならすでに変わっているわ。過ぎた日は二度と元には戻らない。万物は流転するものなのよ」

 ならば運命さえも流転するというのか。

 たしかにサクヤの言動は黄泉返る前とは異なっているように思えた。聡明そうめいさは以前よりも鋭く、しかしどこか諦観ていかんしている。やはりこの才人に魔法をかけるのは至難のわざだ。

 くじけそうになるが、しかし先に折れたのはサクヤのほうだった。張り詰めた緊張を解くように肩を落とし、ため息を吐く。

「ですが、まあ……死にあらがうことが生きることだというならば、納得いくまで足掻あがいてみるのも一興か」

「では――」

「貴女は大切な友人ですからね。話を合わせてあげましょう」

 サクヤは、透き通った眼差しをサーシャに向ける。

 すべてを知ったうえで騙されようというのか。人間は正論だけで動く生き物ではない。情でも動く。だから魔法が成立するともいえるだろう。強い言霊は、それだけで心を揺さぶるのだ。

「それで、私はこれからどうすればいいの?」

「黒騎士・ハクロの眼をあざむくのです」

「策はあるのよね?」

「お耳を」サーシャは躰を寄せ、サクヤに耳打ちする。「私が影武者となり、サクヤ様の代わりにこの身を捧げましょう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る