過去の亡霊
第28話 過去の亡霊④
強い
暗い
「……躰が在る?」
精神が直接外部の情報を受け取っているのではなく、五感を通じて得ているのだと判った。
空気が流れ、肌を
サーシャはじっと神経を研ぎ澄ませた。感覚を取り戻していくと次第に躰が昔を思い出す。
そして鼓膜にはかすかな振動を感じる。
「サーシャ、そこにいるの?」
うしろから名前を呼ばれた。
若い女の声だ。
小さいがよく通る、広い空間の
サーシャは眼を細め、ゆっくりとうしろを振り返る。
その先には
玉座はなく、礼拝堂は地下牢へと姿を変えていた。
「サーシャ、いるなら返事をしてちょうだい」
また呼ばれた。
声は幕の向こうから聞こえてくる。一度は耳を疑ったが、
すぐに返事をしようと思ったが、しかし声にすることはできなかった。まだ喉の震わせ方を忘れているのか……それでも全身は感動で打ち震えている。
かじかむ両手を抑えながら、サーシャは恐るおそる幕をたくし上げた。
ベッドに這入るとなかには若い女性がひとり、毛布に
「なんだ、やっぱりいるんじゃない。返事がないと不安になってしまうわ」
「……すみません。ちょっと、喉の調子が悪くて」
「まあ、どうしましょう。うつしてしまったのかしら?」
「いえ、ご心配なく。そうではありません」サーシャは口許から手を離し、広げた。「奥方様こそ、お加減はよろしいのですか?」
「ええ、今日はいつもより調子がいいみたい。ずっと良い夢を見ていたような」
しかし、そう云って
彼女は高い地位にある
だが、サーシャは正しい知識を持っている。
サーシャは彼女の経過をずっと見守ってきた。一進一退を繰り返しつつ、病は彼女の躰を確実に
息をして、サーシャと話をしている。
一度は死んだものと涙したのに――
奇跡だと思えた。
否、魔法なのか――。
どちらでもかまわない。
とにかく、世界は時間が
「それよりもサーシャ。私、まだ
「ああ、そうでしたね。えっと……式はいつでしたっけ?」
「明日じゃない」
「ほんとうに……おめでとうございます……」
夢のような光景を前にしてサーシャは涙ぐまずにはいられなかった。
その様子を女は不思議そうに首を傾げて見つめる。
「
「どうも浮かれているようです。遠くへ旅立ってしまった、古い友人と再会したような……」
「それって私のこと?」
「呼び方さえ失念してしまいました。奥方様、どうお呼びすればよろしかったでしょうか?」
「サクヤと呼んで」
「サクヤ様……そう、サクヤ様」
「ねえサーシャ。私はどこへも行かないし、行けないわ」サクヤはサーシャの手を取る。「
「しかし、私のような
「いまも奴隷だったことを気にしているのね?」
「はい」サーシャは己の喉に手を当てた。
そこには消しがたい過去が刻まれている。
生まれた村はとっくに消失しているというのに……この躰に刻まれた
「サクヤ様が眼をかけてくださらなければ、いまごろどうなっていたことか……」
サーシャは遠い過去を振り返る。
名も無き入墨の少女だったころだ。
村ごと消失し、帰る家を失った少女は、黒騎士の助言に従い、村を離れて街へ出た。生まれ変わったつもりで己を活かす道を求めたのである。
だが現実は厳しかった。
無事に街まで辿り着けたはいいものの、
それは――
どんなに飢えようとこの身を、魂を
だが、いまは
衣食に関わる最低限の生活費を除き、わずかな賃金のほとんどを勉学に
勉強は楽しい。まるで苦痛ではなかった。
本を読み、文字を覚える。
村にいては一生できなかったことだ。
夢中で知識の欠片を集めていると声がかかった。ある日とつぜん領家から手紙が届いたのだ。
そして、この地下牢へ
入墨の少女は牢に這入って驚いた。
無数の本が、知識が並んでいる。
此処には世界のすべてが存在していると思った。
サクヤと話してさらに驚いた。此処に在る本はすべて読み終え、内容も記憶しているという。彼女は、全知全能かと見紛うほど
話すうちに互いの
互いの世界を交換し、共有できる。それがすべてだった。
そこで入墨の少女はサーシャという名を授かり、
だが、知識を得たからこそ、彼女との距離が解る。
彼女は本物だ。紛い物の私とは違う。
サーシャが音速で知識を吸収しているとしたら、サクヤは光速で憶えている。
その差は決定的であり、歴然としていた。
人類はサクヤという偉大な才能を失ってはいけない。
たとえ世界が滅びても。
サーシャは本気でそう思っている。
サクヤの前で膝をつき、真剣な眼差しを彼女に向けて云った。
「必ずや私が幸せにしてみせます」
「ふふ、まるでプロポーズみたい」
「私が男だったら放っておきません」
「祝ってくれているのよね?」
「もちろんです。ただ……変わっていくことが、今はおそろしい」
「なにも変わらないわ」
「変わらないものなどありません」
「それでも私の世界はこの狭い
サクヤは本を閉じ、表紙をそっと
天文に関する論文を読んでいたようだ。
この地下牢にはあらゆるジャンルの書籍がそろっている。すべてはサクヤのために領主・オルドロスが買い求めたものだ。
サクヤは、ずっと地下での生活を余儀なくされており、ほんものの
それこそ魔法のように。
サクヤが天才であることを証明していた。
それは聞き手となるサーシャにも同じことがいえる。彼女の言葉を精確に語り継げる者は少ない。いつしか、サクヤという名の神のお告げを聞いて訳し、下々に伝えることがサーシャの役目となっていた。
「だからこれまでどおり、此処で本を読んで、一緒に話をする。それだけでかまわないの」
そう云ってサクヤははにかんだ。
言葉とは裏腹に寂しそうな表情である。眼を伏せ、足許をじっと見つめた。
誰にも魔女などと呼ばせるものか。
サーシャは意を決し、それぞれの未来を変えようとサクヤの手を取った。
「サクヤ様――大切なお話がございます」
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