過去の亡霊
第34話 過去の亡霊⑨
永い
闇が晴れ渡り、雲が流れると光が射す。
あまりの眩さにサーシャは眼を細めた。天を仰いでみれば空を覆いつくしていた雲が霧散している。ずいぶん久しぶりに太陽を見た。
地下牢にいたはずなのに風を感じる。
城が丸ごと消えてなくなっているのだ。
だが、その視界のなかにサクヤの姿は見当たらない。彼女はオルドロスの呪いを解くことができなかったのだろうか……あるいは、解呪に失敗したのは自分たちのほうかもしれない。
眼下に広がる街からも人の気配が伝わってこなかった。
人だけではない。鳥も獣も、樹も草も、あらゆる生命の息吹が感じられない。
まるでサーシャだけが終末の世界に転生したかのようにみえるが、しかし噴水のある中央広場ははっきりと記憶している。わずかに残る建築物が元の場所であることを示していた。
サーシャは立ち上がろうと踏ん張った。
だが、よろめいて手をついてしまう。色々たしかめたいのに、躰に力が入らない。痺れるような緊張がまだ全身を支配していた。
まるで夢を見ているかのようだ。
このままなにもかも、すべてが終わってしまうのだろうか……。
「サーシャ、気をしっかり!」
名を呼ばれた。
視軸を動かせば眼の前にアンがいる。
彼女はサーシャの肩をつかみ、必死の形相で揺り動かしていた。
「
アンの隣ではハクロが横たわっている。
彼は瞳を閉じたまま、眠ったように動かない。
「このままじゃ危ない、早く
アンは白衣を引き裂き、ハクロの傷口を縛りあげた。
心臓マッサージを施し、人工呼吸を行う。
だが、これらの医療行為は
「貴女、魔法使えるんでしょう? なんとかしなさいよ!」
「もうやっているわ。だけど……」
サーシャは両手をかざして
それはサーシャの知るかぎり、一番高度な治癒魔法である。
だが、こちらも効果は一向に現れない。気休めにさえならなかった。元々生き永らえようなんて思っていなかった彼女にとってそれは、不要な技術だったのである。知識として身に着けてはいても、実際に使うのはこれが初めてであり、現実に置き換えることは難しい。
この人を死なせてはいけない。
いまさら反省しても遅いが、自分の犯した過ちが悔やまれる。
過ぎたことと切り捨てたくはない。
まだ未練が残っているのか。
判らない。
ただ、いまはこの愛すべき人を死なせてはならない。
黒騎士・ハクロではなく、忌み子として生まれてしまったハクロを。
そう思った。
だが、想いはうまく伝わらない。
ハクロの命はしだいに色褪せ、形が失われていく。
在るものが無くなっていく。
私のせいで。
私のせいで。
眼を伏せ、諦めかけたそのとき――
「自分を責めるな」
とつぜん声が聞こえた。
懐かしい声だった。
サーシャは眼を開け、顔をあげる。
眼の前には
虚空を切り裂き、上空から現れた。
「嗚呼――そこにいたのですね」
「誰と話しているの?」アンが訊いた。
「誰って――」サーシャはなにかを告げようと口を開く。
だが何故か途中で止めてしまった。
アンには視えない誰かがそこにいる。
その正体は地下牢の魔女なのか、
孤高の死神なのか、
あるいは――
それは視ているサーシャにしか判らない。彼女は、聞き取れないほどの小さな声で二言、三言と視えない誰かと言葉を交わす。幾度となく頷き、そして
「そのお言葉が聞けただけで生きてきた
彼女にはまだかけられた魔法が残っているのだ。
だが、呪いが解けたアンにはなにが起きているのか判らない。心配そうにこちらを見つめている。
サーシャはその、視えない誰かに促され、アンとハクロのほうに向き直る。身を屈めるとハクロの胸にそっと耳を押し当てた。
心音は聞こえない。
だが、代わりに聞こえざる音が聞こえる。
命が揺らめく
それを感じ取るとサーシャは破顔した。
「大丈夫、ハクロは死なないわ。彼の魂はまだ此処にある。だから貴女は
「詩?」
「女神の
「分かった」アンは頷き、呼吸を整え、
残された命に共鳴するようにゆっくりと音が広がる。
すると出血が止まり、
「すごい……」アンは眼を見張った。「これならいけるかもしれない」
詩は魔力を持たない一般人でも詠えるようにと
だが、
「サーシャ、貴女も詠ってあげて。私よりもきっと効果があるに違いないわ」
「それはできない。私のなかにあった魔力はもう完全に尽きてしまった」
「じゃあ、どうするの。このまま見ている気?」
「いいえ。その代わり――」
サーシャはハクロの手を取り、ロザリオを握らせた。
それからハクロに顔を寄せ、小さく呟き
「ごめんね、ハクロ。酷い目に遭わせてしまって……ほんとうにごめんなさい。やっぱり私も主人公になりたかったみたい。だけどもう、私の物語は此処でお終い。こうして往生際悪く残っているけれど……死んでしまったものはどうしようもないわ。いい加減、次の世代にバトンを渡さなくちゃね」
返事はない。
だが、サーシャにはたしかにハクロの息づかいが聞こえている。だから――
「貴方がくれた私の魂、ぜんぶお返しします」
そう云って口づけをした。
命を吹き込むように、
魂を呼び戻すように、
唇を交わした。
入墨が薄れた。
呪いの証が、
サーシャに訪れた変化はそれだけではない。
時間を逆行するように躰が縮み、若返っていく。
それは躰の形ではなく、彼女が持つ魂のイメージだ。
完璧に憧れて。
だけど届かなくて。
未熟なまま知識だけが増えてしまった、すこし背伸びをしすぎた名も無き少女の姿だ。
少女は口づけを終えると立ち上がる。
「あとはよろしくね」少女はアンを見てはにかんだ。
「ちょっと、どこへ――」
「ほら、もうじき眼を覚ますわ。声をかけてあげて」
「え?」アンは視線をハクロに移す。
するとハクロが唸り、わずかに瞳を開けた。
意識が戻ったようで、息を吹き返す。
「うぅ……此処はいったい……俺は、なにをしていたんだ……?」
「ハクロ様!」アンはその名を呼び、抱きしめた。
「お前は……アンか?」
「そうです。アンです」
「その眼、呪いが解けたのか?」
「はい。審判は無事に乗り越えました。ですからいまはご自分のお躰を心配してください。嗚呼、よかった。よかったよう……」
「どうして泣くんだ?」
「そんなの、嬉しいからに決まっているでしょう」
「そうか……複雑なんだな、人間って」ハクロは大きく息を吐いた。
「私は単純です。涙もろくなったのは、すこし歳を取り過ぎたせいかもしれません」
「かもしれないな」
「そこは否定してくださいよ」アンは涙を拭きながら笑う。
緩やかに時間が流れだす。
遠くから笛の音が聞こえてきた。
街の中心からだ。
どうやら生き残りがいたようだ。ひとり、ふたりと水場を求めて噴水に集まっている。
「おーい、こっちよ。けが人がいるの、助けて!」
アンは必死に大声をあげて手を振った。
アンもつられて頬を
その頬に一滴の雫が落ちた。遠い雲から風に乗り、霧のような小雨が舞う。雨は朝日に反射して、遠くに虹を架ける。乾いた大地に滲みていき、罅割れた街を
寄り添う場所があって、
集まる人がいて、
それだけで充分に満ち足りていた。
「世界は滅んだりしないわ。だってこんなにもたくさん、自分たちの物語を信じている人たちがいるんだもの。ねえサーシャ、貴女もそう思うでしょう?」
アンは後ろを振り返った。
だが――
「サーシャ?」
返事はなく、そこに孤独な魔女の姿はない。
代わりに風の音がした。それは雪解けの水のようにやわらかく、そしてあたたかい。
遠くで二羽の
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