第32話 過去の亡霊⑧

 闇が晴れ、元の地下牢に戻った。

 光の射すほうを見上げてみれば天井に大きな穴が空いている。

 同時にストーリーテラーの呪いがわずかに緩む。実体の無い神の化身はハクロの躰を乗っ取ったままねやから飛び出していく。

 入れ替わるように現れたのは、漆黒の大鎌だった。だがそれを携えているのはハクロではない。盲目の医者・アンだ。

 穴を使って上階から飛び降りてきたのだろう、彼女は天蓋を突き抜け、ベッドをクッション代わりに尻餅を突いた。

「痛たたた……死ぬかと思った」アンは、その背丈ほどもあろうかという大鎌を抱えながら身震いする。「やっぱり底が見えていても怖いわね。貴女、谷から飛び降りたことがあるんでしょう? すごい度胸ね。私はこれが限界」

 もう二度と御免だわ、と肩をすくめながらサーシャを見やった。その双眸そうぼうには光が宿り、サーシャを捉えている。

 サーシャは驚きを隠せず、彼女に訊いた。

 その眼が見えていることではなく、サーシャの前に現れたことに対してだ。

「貴女、オルドロス様やサクヤ様とともに式へ向かったはずじゃあ……」

「向かったというより、強制的に道連れにされたと云ったほうが精確だけど」

「そんなことより――どうやって戻ってきたの?」

「どうって……」アンは事もなげに云う。「歩いてきたに決まっているじゃない。儀式は同じ城内の玉座の間で行われているのよ。眼はまだ慣れないけど、ゆっくり歩いたってこの地下牢まで半刻もかからないわ」

「そういうことじゃなくて。貴女、オルドロス様たちと一緒に異世界へ転生したんじゃなかったの?」

「こういう場合、『転生』という表現が適切なのかは判らないけれど……異世界とは、『自分や自身が所属している集団の外側に分類される世界』を指すの。だけど、そこは地続きで存在している共通の世界であって、転生するために魔法を使う必要もなければ、死ぬ必要もない。必要なのは、知らない世界を受け入れる寛容かんようさと一歩踏み込む勇気だけよ――って、これはぜんぶサクヤ様の受け売りだけどね」アンはぺろりと舌を出した。「まあ、言葉の定義は専門家にゆずるとして、要するに、私はただ式の途中で抜けだしてきただけよ」

「どうしてそんな馬鹿なことを……」

「もちろん、貴女を救うために決まっているじゃない」

「頼んだ覚えはないわ」

「酷い言種いいぐさね」

「いいから、早く式に戻りなさい。今ならまだ間に合う。此処にいては殺されるよりつらい目にうわよ」

「そうはいかないわ。サクヤ様から頼まれてきたの」

「サクヤ様から?」

「ほら、手を出して」

 サーシャは怪訝けげんに思いながらも片手を出した。サクヤの名前をだされては無下むげに断れない。

 アンは懐からつがいのついた小さな十字架を取り出す。

「これは……」

「貴女も知っているでしょう。サクヤ様がハクロ様のためにつくったロザリオよ。あと、伝言も預かっているから聞いてちょうだい」アンは、ロザリオをサーシャに握らせるとサクヤの言葉をそらんじる。「『私はオルドロスの間違いを正します。だから貴女はサーシャが間違わないように導いてほしい』――ですって」

「わ、私のどこが間違えているっていうの!?」

 ――否。

 なにもかも間違えているのかもしれないが。

 間違いを間違いと認めたくない。

 それではこれまで築きあげた嘘が。幻が。

 物語が……。

 偽物だという自覚はある。だけど、

「それでも――貴女の助けなんて必要ないわ」

「私だって貴女だけのためならこんな面倒は引き受けないわよ。だけどね、貴女がいなくなれば悲しむ人がいるの。そのことを忘れないでちょうだい」

「悲しんでくれる人なんていないわ」

 帰る場所を無くし、両親を失い、守るべき家族も友人もいない。

 誰もいない。

「サクヤ様がいるじゃない」

「いまさらどの面さげて会いに行けというの?」

「そのままの顔で会いに行けばいいのよ。サクヤ様はなにも気にされてなんかいないわ。いいえ、それどころか、貴女の身を誰よりも案じている。貴女はなにもかも放棄して死にたがっているって」

「すべてお見通しなのね……やっぱりどう足掻あがいても敵わないわ」

「サクヤ様でなくとも、誰だってその顔を見れば心配するわよ。貴女、すごくつらそうにしているわ。最初からこの眼でほんとうの姿を捉えることができていたら、私だってもうすこし違う態度が取れただろうに……」

 視力が回復し、サーシャの実体が見えているのだろう。

 アンの前に立っているのは魔女ではなく、サーシャというひとりの人間だった。

 彼女の眼元には隈ができ、頬がやつれてこけている。髪は張りを失い、金髪に白髪が混ざっていた。たんなる疲労などではなく、止まっていた時間が動き出し、十字架を背負って歩んできた十五年分の歳月が圧しかかったかのようだ。

 サーシャは顔を伏せ、れた喉を震わせる。

「やめて、見ないで」

 不完全な私を。

 視ないで。

可哀想かわいそうだなんて思ってほしくない。私はサクヤ様の意志に添うことはできないわ」

 私は偽物だから。

 欠けているから。劣っているから。不完全だから。

「紛い物は存在しないほうがいいの」

「完璧な人間なんてどこにもいないわ。みんなどこかが欠けていて、どこかが間違っているのよ。さあ、立って。此処から出ましょう」

「厭よ。貴女だけで出て行って。貴女の物語に私を登場させないで。じゃないと――」

 消えられないから。

 死ねないから。

「私のことは忘れてちょうだい」

 見なければ、認識しなければ存在しないも同然だ。

 元々存在しない幻だから。

 誰かが創った完璧な世界に私は必要ない。

 誰かが描いたストーリーの一文字にはなりたくない。

 だから私のことは――

「放っておいて!」

 黒いインクを塗りつぶすように、サーシャは怒鳴り声をあげた。

 同時に乾いた音が鳴り響く。

 アンがサーシャの頬を打ったのだ。彼女は唇をみしめ、サーシャをにらみつけている。

「なにするのよ――」

 サーシャも手をあげようと右手に力をめた。

 だが、それを振り上げることは叶わなかった。アンが両腕をまわし、躰を包み込んでしまったからだ。

 アンは強く、強くサーシャを抱きしめて云う。

「いい加減にしなさい。子供じゃあるまいし、不幸ぶって、手を煩わせないで。そんなに死にたかったのなら私の知らないところで独り勝手に死ねばよかったのよ。だけどもう遅い。私には貴女を忘れることなんてできないわ。だって私たちはもう――友達じゃないの」

「友達? 友達ですって?」サーシャは嫌悪感を剥き出しにする。「友達なんて私には必要ない」

「嘘ね。貴女は誰かを必要としている」

「嘘じゃない」

 否、嘘なのか。

 嘘ばっかりの幻ではなかったのか。

 嘘じゃないなら何だろう。

 判らない。

 サーシャを縛る呪文がわずかに緩んだ。

 決意が。

 魂が揺らぐ。

「放して」

「厭よ。どうしてもっていうなら、自分で解いてごらんなさい」

 アンはサーシャの首に己の頬をあてる。

 その奥には人間の血が通っていて。

 とくん。

 とくん――と。

「ほら、貴女の魂はこんなにも強く叫んでいるじゃない。幸せになりたいって」

 アンはやさしく笑みを浮かべる。

 それに反発するようにサーシャは躰に力を籠めた。

 だが、どんなに姥貝もがいてもうまく抜け出せない。

卑怯者ひきょうもの――拘束こうそく魔法を使ったのね」

「そんなの、私に使えるわけがないじゃない。なんならすこし緩めてあげましょうか?」

 アンは組んだ両腕を解き、力を緩める。

 ただ輪をつくっているだけだ。

 だがそれは、サーシャにとって、強力な結界となっている。

 此処でまた間違えたらと思うと足がすくむ。

 震えるサーシャを見て、アンはふたたび強く抱擁ほうようした。

「大丈夫。何度間違えたって、貴女の魂はけがれてなどない。貴女の努力は報われるべきであり、貴女の世界は救われるべきなの。だから、貴女がどうしたいのか云ってごらんなさい」

「……無理よ。私、自分でもどうしたらいいのか分からないもの」

「話せることからすこしずつでいいのよ」

「私は……この胸に空いた穴を埋めたい」サーシャはちいさく呟いた。「だけど、うまく言葉にできなくて……うまく気持ちを伝えられないの」

「それを埋めるために言葉があるんじゃない」

「内なる世界は孤独のままだわ」

 言葉は不完全な道具だから。

 いくら言葉を尽くしても、口にした瞬間それは劣化していく。

 幻となってしまう。

 記憶に残り、記録に留まる。

 唱えられた呪文はすべて過去という概念に蓄積された物語となってしまう。だけど、

「はたしてそれだけかしら?」アンは疑問を投げかけた。「貴女は呪文のもうひとつの使い方を知っているはずよ」

 言葉は内側の世界を外側に反映させるための道具だ。

 それは過去を残すためだけにあるわけじゃない。

 未来を描くことだってできるはず。だから――

 どんなに間違っていたとしても、

 正しくなかったとしても、

 幻だとしても――人間は言葉でしか伝える術を持たない。

「どうか言葉にして、サーシャ」アンは魔女の名を呼び、手を取るとじっと見据えた。「世界を区切らないで。ひとりで不幸を背負い込まないで。貴女は独りじゃないわ。だからお願い。私に貴女を助けさせて。貴女の希望を、願いを――貴女の未来の物語を聞かせてちょうだい」

「私……幸せになってもいいのかな?」

「幸せになっちゃいけない人なんてひとりもいないのよ」

 ならば。

 新たな魔法をかけよう。

「お願い。どうか私に力を貸して」

 とサーシャは願った。

 言葉は呪文と成り、言霊をのせてアンに向かう。

 魔法が音を立てて弾けた。

 ふたりの世界が繋がり、共有される。

「貴女の魔法、たしかに届いたわ!」

 アンが破顔すると、とつぜん視界が明るくなった。

 炎とともに視界に現れたのは全知全能の神の化身――ストーリーテラーだった。

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