第31話 過去の亡霊⑦

 天井を壊して現れた黒き少年は、死神と見紛うばかりの姿をしていた。

 自称死神の黒騎士である。

 サーシャ同様、入墨の少女として出会ったときのまま、ほとんど歳を重ねていない。幼い傷をいやしてくれたあの日と同じく、精悍せいかんな眼差しをしている。

 だが、過去は完全に再現されているわけではないようだ。黒騎士は、切っ先まで黒く染め上げられたあの大鎌デスサイズを携えていない。それはいま、玉座の奥に封じられているのだ。

 黒騎士は羽根をたたんでちてきた。サーシャに向かって突っ込んでくる。祭壇に激突する瞬間、足許に魔法陣が浮かんだ。黒騎士を受け止めると衝撃を吸収する。

 難なく着地すると、黒騎士はサーシャの前に立つ。間近でも見ても得物は確認できない。徒手空拳としゅくうけんの丸腰のだった。

「やれやれ、男の喧嘩けんかは素手が華――っても相手が石ころってんじゃあちょいと締まらねえな。やっぱり物や獣より人間相手どるのが一番おもしれえ」

 黒騎士は身を翻して背を向ける。

 右の手甲を外すと痛そうに手を振った。指を鳴らし、崩れた石垣に片足をのせ、仮面を外すとかぶいてみせる。啖呵たんかを切って見栄みえを張った。

「やあや、どいつもこいつもこんな深え穴倉で雁首がんくびそろえて悪だくみたあ、穏やかじゃねえ。聞けば天裂け地が割れる。世界が滅ぶと並べ立て、か弱い娘をたらし込み、極悪非道ごくあくひどう悪行三昧あくぎょうざんまい。いいや、皆まで云うな小悪党。証拠はなくとも鼻が利く。しょせん手前てめえも同類だ。蛇の道は蛇。同じ外道の臭いがするぜ。女のなみだは魔力を放つ。見捨てておいちゃあおとこすたる。たとえお天道様てんとうさまが許しても、死神・ハクロが黙っちゃいねえ。さあさ、そっくび刎ねられたくなけりゃ、御用ごようだ御用だお縄にかかれ――って、あれ……?」

 自称死神の黒騎士は、眼を丸めながら辺りを見回した。

 高らかにわらって口上を打ったはいいものの、聞く者はひとりしかいない。振り返ってサーシャを認めると調子を落として死神は訊いた。

「ええと……お嬢ちゃん、ひとりかい?」

「はい」

「悪党どもはどこへいった?」

「最初から誰もいません。私だけです」

「今日此処で若い娘を生贄にして、魔女狩りが行われるって噂を聞きつけてやってきたんだが……それじゃあお嬢ちゃんはスケープゴートじゃねえってのかい?」

「なんの話でしょう私は……」

 サーシャは首を振る。

 紛い物の偽物だ。

「私は地下牢の魔女です」

ッ――ほんものの魔女なんてこの世にいるもんか。良いかお嬢ちゃん、自分で卑下しちゃいけねえぜ。人間ってのはな、なりたいと思ったものになっちまうんだ。嗚呼、それにしてもまたはずれかよ」

 黒騎士は舌打ちした。

 頬を赤らめ、額に手を当てる。

「さっきのは見なかったことにしてくれ。恰好悪い、これじゃ道化どうけ猿回さるまわしのエテ公じゃねえか」

「貴方様は猿ではありません。言葉の通じる人間です」

「真面目に返すな、余計に恥ずかしいだろ」

「それが死神になろうというのですか?」

「なろうとしてるんじゃねえ。俺は正真正銘の死神だ」

「神などこの世には存在しません」

手前てめえひとりなら神にだってなれるさ」

「では――ほんとうに死神なのですか?」

おうよ」黒騎士は満面の笑みを湛えて嘯いた。「そんなことよりお嬢ちゃん。お嬢ちゃんは領主の縁の者かい? なんだってこんな所にひとりで――」

 とつぜんサーシャが胸に飛び込んだ。

 眼には大粒の涙が零れている。

 声を震わせ、言葉をつむぐ。

「ずっとお待ちしていました。ずっと、貴方様と再会できる日を、ずっと……」

「……どこかで会ったか?」

「記憶のなかで、何度も、何度も」

 サーシャはくしを取って結いをほどいた。癖のあるうすい金髪がはらりと揺れる。

 涙が頬を濡らし、首にかかる。白粉おしろいにじむと入墨が露出した。

 他人が描いた魔法のなかでサーシャは己の本性を発露はつろさせる。

 その姿は、偽物のサクヤではなく、名前を与えられたサーシャでもない。名も無き入墨の少女だった。

「お嬢ちゃんはあのときの……」黒騎士が眼を見張った。

「憶えておいでですか?」

「こんな所で会えるとは思わなかったぜ」

 きれいになったなと云って黒騎士は、少女の頭を撫でる。無骨な掌ではあるがあたたかく、そしてやさしかった。それは、凍えるほどの孤独な世界でただひとつの拠り所となり得る。

 少女は泣いた。躰の内で凝った想いが溶けて流れて溢れだす。

 心のうちさらけだす。

「私は――私はずっと嘘を吐き続けてきました。貴方様との約束を守れなかったのです」

「女を泣かせるようなちぎりを交わした覚えはねえよ」

「立派に生きると誓いました」

「お嬢ちゃんはひとりで此処まで歩いてきたんだろう? ちゃんとふたつの足で立って、ちゃんと生きてるじゃねえか」

「ですが、それももう限界です。私は――孤独を分かち合える者が欲しい」

「だが俺には……」

「貴方様の大義は知っています。私はスケープゴートではありません。偽物なのでしょう。紛い物なのでしょう。邪魔になるでしょう。脚を引っ張るでしょう」

 だけど。

「ほんとうの気持ちを伝えられない世界なら、滅びたってかまわない。誰かがかけた魔法だと知って、それでも生きたい者だけが残ればいい」

「ここより先は地獄だぜ」

「貴方様のお傍にいられるならどこへだってお供しましょう。ですから、どうかお願いします。私は、私は貴方様のことが……」

 入墨の少女は黒騎士の手を取り、己の胸に当てた。

 このふくらみの奥の高鳴りを解って欲しい。

 少女は黒騎士をねやに導く。

 天幕を潜るとベッドに座った。

 胸元に手をかけ、ドレスを下げる。

 肩がみえ、白い肌が露出した。

 見上げれば、少女を照らすようにわずかな光が漏れている。誰かに視られるかもしれない。

 だが天蓋てんがい結界けっかいとなって視界をふさいでいる。何人たりとも這入ってこられはしまい。

 ふたりきりだ。

 想い人はなにも云わず、ただじっとこちらを見つめている。

 甘い沈黙のなか、黒い瞳に己のみだらな行為が鮮明に映り込んだ。

 躰が火照ほてり、下腹部が脈打つ。

 気づけばドレスが赤く染まって濡れていた。

 すそをたくし上げ、ももを見やる。

 嗚呼――汚れてしまった。

 男を連れ込むなどほんとうに魔女のすることだ。

 だけど、どうしようもなくこの躰は他人を受け入れたがっている。

 心が、魂が、混ざってにごって汚れることを望んでいる。

 築きあげた己の世界が壊れていく。

 それでも少女は他人にすがる。

 黒騎士がその肩を抱いた。

 背中に手がまわり、うなじを撫でられると電気が流れたように脳髄のうずいが震える。

 想像とは違う、ほんものの快感だ。

 吐息が漏れ、脚に力が入らない。

 思考が覚束おぼつかなくなり、座っていられなくなる。

 躰を横たえると黒騎士が上にのった。

 心地よい重力に身を任せながらドレスを脱がされていく。

 黒騎士も鎧を脱いだ。少女よりもずっと大きくてたくましい。

 両手を絡ませ男を引き寄せる。

 枕をともにし、躰を合わせた。

 あたたかい。

 髪が解れ、胸が躍る。

 顔が近づき、息がかかった。

 甘いにおいにとろけてしまいそうだ。

 もう逃げることはできない。このまま身を委ねるしかない。

 瞳を閉じ、そのときをじっと待った。

 恐れと不安。

 期待。

 そして――

 唇が触れた。

 粘膜同士が接触し、舌が絡む。

 刹那。

 違和感。

 躰に異変が生じる。

 魔法が。

 悪意が、闇がどろりと溶け堕ち、少女のなかに。

 黒騎士の。

 違う。かつて奪われたときのあの感触とはまるで。

 少女は唇を拒み、突き放すようにしてから眼を開いた。

「貴方はいったい――誰!? これは」

 ――誰の魔法? 

 声にならなかった。焼けつくように喉が痛む。

 天蓋が見えない。

 祭壇も地下牢もなくなっていた。

 それでも瞳は影を映している。

 男の顔をはっきりと捉えた。

 鼻を突くような刺激臭がする。

 黒騎士が、死神が本性を現す。

 腐敗ふはいしていき、どろどろと融けていく。

 皮膚がただれ、化けの皮が剥がれていく。

 ぐるりと目玉がまわり、サーシャと眼が合った。

 黒騎士は骸となり、剥き出しとなった髑髏どくろがかたかたと揺れ動く。

 その顔は――わらっていた。

 死神ではないなにかが――わらっていた。

 髑髏は答える。聞き覚えのある、抑揚のない平坦な発音だ。

「誰でもないし、誰にでもなれる。名前は無く、実体も持たない。どんな役にもなれる全知全能のワイルドカード。人間は、ストーリーテラーと呼んでいる」

「お前が!?」少女は絶句した。「どうしてストーリーテラーが此処に……どうして私なんかの前に現れるの。なぜ――私ばかりがこんな目に……」

「自分が特別不幸だなんて思うな。上には上がいるし、下には下がいくらでもいる。死を前にしても人は平等ですらない。いままさに、世界中で穢れた魂が最後の審判を受けている」

「オルドロス様とサクヤ様の儀式はどうなってしまったの?」

「他人より自分の身を案じたほうがいい」

「離して!」

「なにを嫌がる。俺はあれほどお嬢ちゃんが逢いたがっていた黒騎士様だぜ?」

 骨から筋肉が生え、皮膚が表面を覆った。

 見る見るうちに再生し、黒騎士の姿に戻っていく。

 顔も声もまるで見分けがつかない。だけど、

 違う違う。

 こいつは黒騎士・ハクロじゃない。

 騙された。誑かされた。絡め捕られた。

 少女は髑髏を突き放そうと手足を跳ねあげる。

 だが、四肢は締めつけられ、ビクともしない。

 髑髏は少女を押さえつけ、顎を鳴らす。蛇のようないやらしい目つきをしていた。

「おいおい、お嬢ちゃん。そう邪険じゃけんにするなよ。他人の厚意こういは素直に受け取っとておくもんだぜ。手前、俺に抱かれたいんだろう? 汚れて穢れて罪深い女に成り下がりたいんだろう?」

 違う違う違う。

「私はただ――」

 我儘わがままを聞いてもらって、叱って欲しかっただけなのだ。

 もう一度生きる勇気を与えてもらいたかっただけなのだ。

 ほんものならばきっと、甘えてんじゃねえよと怒るだろう。たとえどんな逆境に立たされようとも無頼ぶらいを気取って見栄みえを張る。自分にも他人にも厳しい武士もののふだと思えたからこそ、せられたのだ。たった一度の逢瀬おうせではあったが、それは間違いない。確信している。なのに、どうしてこんなことに……

「これがお嬢ちゃんの望んだ結末だからだろ?」ストーリーテラーが云った。「死んだ人間はもう二度と元には戻らない。黄泉よみ返るなんて幻想だ。それでも逢いたいと願うのは自然の摂理せつりに反する。だが、お嬢ちゃんはそれを知ってもなお、あえて魔法にかかる道を選択したんだ。俺がハクロではなく、別のなにかだと解っていてもな」

「違う!」少女は叫んだ。「躰を返して。それはハクロ様のものよ!」

「返すもなにも、この躰は元々、お嬢ちゃんの云う黒騎士のものじゃねえ。その息子のものだ」

「嘘よ、ハクロ様はまだそこにいるわ!」

「この躰のどこにいる。よく視てみろこのきずを。これはお嬢ちゃんが刺してこしらえたものだぜ」

 黒騎士の皮を被ったストーリーテラーは背中を指し示す。

 心臓付近にはナイフでできた刺傷が生々しく残っている。間違いなくサーシャがつけたあとだった。 

「この躰の持ち主の魂はもう、どこにもいねえ。殺したのはお嬢ちゃん……サーシャと云ったか、手前だよ」

「嘘よ、それじゃあ私はなんのために……」

 ハクロを殺めたというのだ。

 解っていた。

 無駄な足掻きと知っていて、それでもなお願ってしまっていたのだ。

 見るべき現実から眼を逸らし、

 視えないものを見えるとしていた。

 だけどそれももう御仕舞い。

 少女はくずおれて膝を着く。

 自作自演の魔法が解けるとサーシャに戻った。

 そこへ新たな呪文が忍び寄る。

 サーシャをそそのかそうとこの世ならざる者が耳元でささやく。

「だがな、お嬢ちゃんさえ俺を信じれば、俺はほんもののハクロになれる。お嬢ちゃんにとって理想のハクロを演じてやれる。永遠に悩み苦しむことない場所でふたりきり。なぐめられたいならそうしてやろう。しかられたいならそうしてやろう」

「……ほんとうに?」

「もちろんさ。だから俺とちぎりを交わせ。意地を張らずに、楽になっちまえよ」

 ストーリーテラーはサーシャを引き寄せ、その虚ろな瞳を覗き込む。

 妖しい影が瞳に映る。

 深淵なる闇が口を広げ、世界が闇に閉ざされていく。

 闇にのまれて影が消えていく。

 サーシャの存在が。

「さあ、一緒に地獄へ堕ちよう」

 サーシャは考えるのを止め、肯こうとした。そのとき――

「悪魔に耳を貸してはいけない。ハクロ様の魂は此処にあるわ!」

 声とともに一筋の光が射した。

 闇を一文字いちもんじに切り裂き、なかから現れたのは――アンだった。

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