第18話 盲目の傀儡③
「私は
妊婦は続けてそう云い、己を
だが、首に
魔女ではなく女神と間違えているのではないかと思う。
絶えず頭上から聞こえる念仏のような
「えっと……魔女というのは魔法使いのことですか?」
「いいえ。両者は厳密に異なります。魔法使いは文字通り『魔法を使う人間』であり、魔女は『悪しき者と
「『人間』と『人間だった者』ということですね」
「元は人間だったという点において、魔女は
「とてもそうは見えませんが……」
その容姿は異形でも人外でもない。
どう見ても人間の女性だった。
「とにかく移動しましょう。こんなまともな設備もそろわない場所で、不測の事態が起きては対応しきれません。さっきの方にも手伝ってもらわなくちゃ」
アンは鞄を抱えて立ち上がる。
天幕から顔を覗かせ、応援を呼ぼうと黒装束の女を探した。
だが、妊婦が手を引き、それを止めた。
「移動はできません。出産は此処で行います」
「いや――それは無茶ですよ」
無茶というより無謀に近い。
「それでも私は此処から出ることが赦されないの」
「それは貴女様が魔女だからですか?」
「はい。すべては、悪魔の子を孕んだ私の責任なのです」
アンはため息を漏らした。
おそらく、
「たしかに
アンは魔法の存在を知っている。
だが同時に、医学や科学的な知識を有しているのだ。したがって、人間がべつの
また、いくら名乗ることを禁じられたとしても、それだけで妊婦が人間でなくなる道理はない。
魔女や悪しき者はたとえであり、
地下牢への
魔女は、静かに首を振ってアンの考えを否定した。
「私の罪は
「呪いですか……」
「みんな、忌み子が産まれないよう、悪しき者の魔力を
「もしや――
「いいえ、それは誤解です。生まれてくる子の無事を願うからこそ、こうして多くの
「では……
「はい。
アンは胸を撫で下ろした。
医療行為とはいえ、命を奪うのは気が
そして
「私は、生まれたときよりオルドロス様の
「それはさぞお
「どうでしょうか。私は両親とは一度も会ったことがありませんから」
「それはまた……」アンは二の句を
いったいどのような
謎を孕んだまま魔女は続ける。
「両親のことはさておき、実際、誰かにうつすわけにはいきませんから。
「お強いのですね。これまでずっと独りだったわけでしょう? 寂しくはありませんでしたか?」
「オルドロス様はやさしく接してくれますから……」
アンは領主の笑顔を思い浮かべてみたが、うまくいかなかった。
わずかな時間しか接しておらず、まったく良い印象はない。無愛想な
「とにかく、病弱だった私はこの牢獄から一歩も出られず、此処で本ばかり読んで過ごしていました。それでも幼いころは不幸だと思いませんでした。好きなだけ本を買い与えてもらえましたし、現実を知ることなく、
「悪しき者のことですね?」
「オルドロス様を
「黒い騎士……ですか」
「彼は、『こんな狭い世界に閉じこもるな』――と私に云い放ち、壁を破壊してみせました。私の心に空いた穴の大きさ――深さを
地下牢の魔女は顔を赤らめ、唇を噛んで下を向いた。そこで事に及んだということだろう。
「肺の病も妊娠したころから症状が現れなくなりました。これも呪いによる影響なのでしょうか?」
「判断しかねますが……魔女として得た力が貴女様の躰を快復させているのかもしれませんね」
それにしても、聞くかぎりではやはり、黒騎士から悪しき者という印象は受けない。もちろん領主に対する不忠義は非難されても仕方ないが……奥方に対してはむしろ救いの手をのべようとしたのではないかと感じる。
「あの……その黒騎士はいま、どこにいるのです?」
「ご興味がおありで?」
「医者としてですが」
「もうこの世にはおりません。捕らえられると同時にその場で処刑されました」
「そうですか……」
「嗚呼――ほんとうに馬鹿な過ちを重ねてしまいました。本が読めればそれで幸せだったのに……命がこんなに重かったなんて。愛する者ができて初めて気づきました」
「本から得た知識と実際の体験は似て非なるものです」
「まったくです。私なんかが幸せを望んではいけなかったのだわ」
「そんな事はありません。幸せになる権利は誰にだってあります」
「ですが、不幸になる運命と解っていて、それでも産んでいいのでしょうか?」
「不幸になるなんて誰が決めたのです? 運命なんてありませんよ。そんなものは結果論です」
「運命はなくとも、呪いからは逃れられないわ」
「それでも貴女様は生まれてくる子の幸せを願っているのでしょう?」
「はい。誰よりもこの子の幸せを願っています。命に代えても、この子だけは護りたい。護ってあげたい」
「なら、貴女様の手で幸せにしてあげてください」
「私にできるでしょうか?」
「どうか覚悟を決めてください」アンは妊婦の手を握りしめた。「なにが起ころうともご
「ありがとう。そう云ってくれるととても心強いわ……」
妊婦はありがとう、ありがとうと繰り返しては泣きじゃくる。
アンもつられて瞳を潤ませた。
人とは違った人生を歩んできたアンにとって、彼女の
それでも――生まれてくる子に罪はない。
誰に祝われなくとも、迎えられなくとも、人は生きているだけで価値がある。生まれてきさえすれば自力で幸せをつかむことだってできるのだとアンは信じている。
「私、素敵な
「上手に詠えるかしら?」
「子供のための唄ですから上手下手は関係ありません。お母さんが一生懸命詠ってあげればそれで良いんです」
「そうですよね……。じゃあ、ぜひ教えてください」
妊婦はすこし照れくさそうにはにかむ。
だが次の瞬間――妊婦は
アンは、
鞄から器具を取り出し、産道を確認する。
そこには新たな命が在り――こちらを見ていた。
日蝕が始まると同時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます