第17話 盲目の傀儡②

 それから。

 松明がひとつ燃え尽き、最後の一瞬激しくひらめいた。あとには抹香まっこう臭いすすだけが漂う。アンは煙たそうに手で払い、それから静かに立ち上がった。

 しばらく扉の前でうずくまっていたが、腹が減ったし尻も痛い。じっとしていても状況が好転することは決してないのだ。このままでは座して死を待つばかりである。どうせ引き返せはしないのだし、いずれ死ぬならこの先になにがあるのか確かめてからにしようと考えた。

 地下深くに連れてこられたのは、疫病えきびょうに侵された患者が隔離かくりされている可能性もある。思い返せば、男がかたくなに口を閉ざしていたのは感染のリスクをおそれてのことかもしれない。想像どおりならば助けなければ、と新米の医者はふるい立つ。

 感染に備え、マスクと手袋を装着し、手拭いを首元に巻きなおす。鞄に抗菌剤ペニシリンがあることを確認するとアンはひと呼吸おいて扉に鍵をした。

 時計回りにひねってみると扉に描かれた魔法陣が脈打ち、赤黒い光が放たれる。

 思わず身をけ反らせて手を離したが、鍵は勝手に回り続ける。

 やがて解錠音が鳴り響き、自然と扉が開いた。

 隙間からほのかな灯りが漏れる。光量は淡いが、誰かいる証拠だ。

 鬼が出るかじゃが出るか。アンは眼を細めながら、恐るおそるなかを覗き見た。

 そこで眼にしたものは――大量の本だった。

 薄暗い空間には書架しょかが列をなし、見渡すかぎり本で埋め尽くされている。

 アンは、半開きの扉に躰をすべりこませ、近くの一冊に手をのばす。ほこりを被ってはいるがかび臭くはない。古い医学書だが、そのタイトルには見覚えがあった。学生のころに街の古書店で扱っているのを見かけたことがある。欲しかったがとても高価で手がでなかったのだ。

 ――どうしてこんなところに所蔵しょぞうされているのだろう? 

 ――もしかして、此処は図書館かしら? 

 ざっと眺めただけでも数千冊か、あるいは数万冊か――ジャンルを問わずに無数の書籍が所蔵されている。

 首を傾げながらもアンは手にした本を開く。ページをめくったそのとき――奥から人の声がした。

 女性の叫び声だ。

 姿は見えないが、苦しそうにうめいているのが分かる。

 何事かと身を強張こわばらせたところで女性らしき人物が姿を現した。声の主ではない。沈痛な悲鳴は奥から断続的に聞こえてくる。現れた女は、しぶい表情を浮かべているが、苦しんでいる様子はなかった。

 女は全身を黒い装束しょうぞくで覆い、手には分厚い本を抱えている。アンの姿を認めるとフードを取り、慌てた様子で口を開いた。

「ああ、ちょうど良かった。人を呼ぼうとしていたところなの。貴女が新しく来た医者ね? 遅かったじゃない」

「すみません。扉の前でしばらく躊躇ためらっていました」

「いいの。どうせまたオルドロス様がろくな説明もせずに連れてきたのでしょうし」

「オルドロス様?」

「無口で神経質そうな男性よ。領主様にそそのかされてきたのでしょう?」

「あの御方が領主様だったのですか――!?」

 てっきり執事しつじか、近衛兵このえへいだと思っていたが……アンが驚きの声をあげると女は素っ気なく肯いた。

「まさか領主様が直々に案内してくださっていたなんて……」

「貴女なにも知らないのね。この街の出身じゃないでしょう?」

「はい。西の村から上京してきました」

「なら驚くのも無理はないわ。とにかく扉を閉めて、こっちへ」

 黒装束はアンの腕をつかんで奥へ導く。

 すくなくとも獣や異形ではなさそうだが……しかし不安は拭いきれない。

「あの――この先にはどなたが?」

「名前は云えない」

「身分を明かせないような御人なのですか?」

「違うわ。名前を奪われているの」

「それは身分を剥奪はくだつされているということでしょうか?」

「いいから早く。さっき破水はすいして、陣痛じんつうが始まってしまったの」

出産しゅっさんを迎えているのですね」

「そう。それも予定よりずっと早くね。嗚呼、ほんとうに嫌んなっちゃう。こんなときに日蝕が重なるなんて、悪い予感がしていたのよ」

「日蝕が人体に影響を与えるとは思えません」

「月の満ち欠けで産卵する魚だっているのよ。絶対にないとは云い切れないじゃない。それに……」

 女は鼻息を荒げたが、何故か言葉をにごした。核心かくしんに迫っていたのだろう。

 歯切れの悪い語句ごくぐようにしてアンが続けた。

「関係ないかもしれませんが、気持ちの問題のほうが大きいわ。病は気からというでしょう? 案ずるより産むがやすしです。プラシーボ効果というやつですね」

「妊娠は病気ではないけれど……そう思うなら、ぜひとも傍ではげましてあげて」

「そうします」アンは安堵あんどしながらそう云った。

 想像していたよりもずっと好ましい状況だ。誰かは知らないがこんなさみしげな地下牢で出産を迎えるなんてさぞ心細いことだろう。助産の経験はあまりないが助けを求められた以上は無事に産ませてやりたい。笑顔で此処から出られることを祈りつつ、アンは黒装束の女についていった。

 だがその期待はすぐさま裏切られることとなる。

 奥へ進むにしたがって天井が高くなり、圧迫感も薄れていくが、代わりに嫌な汗が背中を伝った。

 妊婦のうめき声と重なるように、別の声が響きだしたのだ。

 地鳴りのような低音がそこかしこから聞こえてくる。それらは生まれてくる子への賛歌さんかなどではなく、吐き気をもよおすような不協和音ふきょうわおんだった。

 急に吹き抜けたように天井が高くなった。

 耳をふさぎながらアンは、書架しょかの群れを抜けたところで足を止める。上空には渡り廊下のような橋がいくつもけられており、多くの人影がみえた。

 魔術師や賢者けんじゃだろう。数はひとりやふたりではない。ざっと見渡しただけでも数十から百はいるだろうか……全員が黒いローブをまとってあやしげな呪文をとなえている。炎の揺らぎに合わせて踊る影の連なりは黒ミサかと見紛みまごうばかりだ。

 アンは、広がる異様な光景に我が眼を疑った。

 下方に視線を投じれば、そこには巨大な四角錐しかくすいが。

 切り出された砂岩さがんが幾重にも重ねられ、階段状に形成されている。

「これは、祭壇さいだん……?」

 階段の一段ごとに松明が並べられ、頂点まで続いている。高さはゆうに十メートルを超えており、とても地下につくられた構造物とは思えない。黒装束の女に手引きされ、よろけつつも階段を上っていく。

 女の叫び声が大きくなってきた。

 乱れた吐息につられてアンも呼吸を早める。

 息を切らせて階段を上り終えると、中央に天幕てんまくがみえた。

 天蓋てんがい付きのベッドが置かれ、閉ざされた幕には妊婦らしき人影が映っている。大きく膨れたお腹を支えながら仰向けになっているのがシルエット越しでも分かった。

 アンは、黒装束の女と視線を交わし、幕の切れ目を潜ってなかへ這入る。

 ベッドの上にはお腹を大きくしている妊婦がいた。

 歳はアンと同じくらいだろうか。鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしており、育ちの良さが窺える。しかし今は苦痛に顔を歪め、ひたいに大量の汗を流している。

 黒装束の女は、苦しそうに喘ぐ妊婦に近づき、手を握った。

奥方おくがた様、新しい医者が到着しました。もうすこしの辛抱です」

「奥方様? この御方が!?」

 驚きのあまりアンは声をあげた。

「静かになさい。奥方様の躰にさわるでしょう」

「すみません。ですが、たしか領主様は独身だと記憶しておりましたが……」

 俗世間的な噂話に興味を持たないアンではあるが、領主の婚姻こんいんともなれば街中が色めきたつのではないか。そうなれば否応なく耳に届くだろう。

「もしや――おめかけ様ですか?」

 それなら執拗しつようなまでに隠すのも頷ける。

 世間は広いようで狭い。よからぬ噂ほど瞬く間に広がるものだ。領家の名にきずがついては街全体の恥ともなろう。その下世話げせわな想像は当たらずとも遠からずだった。

「貴様――口をつつしめ。粗相そそうを重ねれば首が無くなるものと思え!」

 黒装束の女が激昂げっこうし、腰から短剣ダガーを抜いた。その切先がアンの喉元に向けられる。籠められた殺意は本物だ。

 だが怒る黒装束を妊婦がじずめる。華奢きゃしゃな指先をつかに添えた。

「やめなさい。お医者様が怯えているわ」

「ですがこの女――なにも知らないくせに」

「良いのです。事実、表沙汰にできない関係であることに変わりはないのですから。さあ、貴女は持ち場に戻りなさい。お医者様とふたりだけにして」

 奥方になだめられ、黒装束は矛を収める。殺気を残しつつも幕を捲って天蓋から出ていった。

 忠義ちゅうぎに厚い家臣かしんの背中を見送ると妊婦は身重な躰を起こした。

「ごめんなさい。みんな私のせいで気が立っているの」

「いえ、私も余計なことを口走りました。どうかお赦しください」

「気にしなくていいわ」

「あの、この状況はいったい? 黒装束の方は奥方様と呼んでいましたが、ほんとうは何者なのです?」

 領主の正妻であればこんな地下牢で出産などしないだろう。生まれてくる子にもしものことがあれば一大事である。

 そう考えて尋ねたが、妊婦は大事にはらを抱えながら首を振った。

「領主の妻であることは事実です。ただ……私はもう人間ではないの。いまは人間だった者、つまり私は――魔女まじょなのです」

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