第19話 盲目の傀儡④

 はるか上空で太陽が欠けていく。

 月が重なるにつれ、地上に注ぐ陽光ようこうむしばまれていく。やがて完全な闇に閉ざされると禍々まがまがしい気配オーラが月の影からのび、地上にちる。膨大なエネルギー量は自然の稲光いなびかりを想起させた。しかし、蒼穹そうきゅうを切り裂く光の正体は、此処ではない世界からやってきた魔力のかたまりだ。それは大気の壁にぶつかると、無数に分裂し、世界中に散っていく。

 そのひとつが城を貫いた。

 天を裂き、地上に落ちても拡散することなく大地を貫き、地下まで達する。

 祭壇が揺れ――人に墜ちた。

 くだんの妊婦のはらである。

 アンが新しい命を目撃すると同時だった。

 得体の知れない狂気が魔女に宿り、霊感れいかんとぼしいアンでさえ背筋がこごえるほどの悪意が満ちていく。そして産道から現れたのは――赤ん坊だった。

 へそがついた人間の赤ん坊だった。

 だがそれを人の自然分娩しぜんぶんべんと認めることは、アンにはできなかった。なぜなら、

 赤子の顔面がぐるりとまわり、

 およそ人体の構造を無視した軌道きどうを描いたのち、 

 冥府めいふの底から救いを求めて這い出してきた亡者のごとき双眸そうぼうが見開かれたからだ。

 アンは小さく悲鳴をあげ、己の躰を抱く。

 その絶望的なまでに黒い瞳を直視すると、いっせいにむしが這い上がってくるようなおぞましさに支配された。

 戦慄せんりつしたその瞳に映ったのは――巨大な影だった。

 ――これは幻影げんえい!? 

 実体の伴わない影が大きく広がり、伸び、やがて人の輪郭を形作っていく。

 影は嘲笑う。

 口許が裂け、この世のものとは思えない振動を発した。

 堪えきれずに耳を塞いだが、しかし効果はない。直接脳を揺さぶるような不協和音がその身をつんざく。


               コ ロ シ ア エ


 と――たしかにそう聞こえた。

 抑揚よくようのない発音ですぐには意味がつかめなかったが、音が差す言葉はひとつ思い浮かばない。

 ――殺し合え? 

 アンが脳内で変換し終えると影はまたわらう。

 見下すようにわらう。

 やがて影は膨張ぼうちょうし、四散しさんするとその輪郭りんかくくらませた。

 残響ざんきょうが収まると静寂せいじゃくが訪れる。

 いったいなにが起きたのだろう……アンはしばし呆然ぼうぜん虚空こくうながめた。

 だが影が消えても、いつまで経っても眼が慣れず、暗闇に包まれている。

 近くで悲鳴が聞こえた。

 今しがた視た幻影におののき、誤って足を滑らせたのだろう。術者のひとりが上階から落下したようだ。人体のつぶれる音がして、アンは顔をしかめた。

 続けていくつかの衝撃音が響く。

 見えずとも混乱しているのが伝わってくる。誰もが視界を失い、狂騒きょうそうのなかで己の感覚だけを頼りに動いているのだろう。

 そんななかでもアンは、命の現場に携わる者として、かんたんに取り乱したりはしない。松明たいまつはすべて消えてしまったようだが、しばらくすれば慣れるだろう。アンは絶望的な暗闇にも屈せず、半眼はんがんを保ったまま視線を伏せる。じっと息を殺し、神経を集中して感覚をませた。

 だがいつまで経っても眼は慣れない。

 地下深いとはいえ、換気口もあるし、すこしくらいは自然の光が漏れてくるはず。だがその兆候ちょうこうはいっこうに訪れなかった。ベッドにいるはずなのに、底なしの地獄まで落下しているような浮遊感にさいなまれている。不安定な足場では立ち上がることさえ覚束おぼつかない。

 アンはつかまるものを求めて手をのばした。だが、いくらもがいても天幕には届かない。

 不安が拡散し、しだいに躰を、脳を蝕んでいく。

 あせりをつのらせるなか、妊婦の声がかすかに漏れた。

 声を頼りにアンは、妊婦の許へ這い寄る。

「奥方様、ご無事ですか? 奥方様!」

「……ハクロ」

「ハクロ?」

「私の子……」

 それが子の名前なのだろう。

 ハクロはどこ、と魔女は我が子を呼ぶ。

 赤子の様子も気になるが、まずは母体の容体ようだいを確認しようとアンは妊婦の腹に触れた。するとどうだろう、大きくしぼんでいることが分かる。

 ――もう生まれてる!? 

 気づいたときにはもう、胎児はすでに母体から産まれ堕ちていた。

 妊婦の足許に広がっているのが羊水ようすいなのか、血液なのかは判然としない。だがそこに命が在ることに気づいた。

 恐るおそる指先をのばすと、小さな指がぎゅっと握り返してくる。たしかな呼吸と脈拍が感じられ、

 とくん、

 とくんと――、

 生命いのち躍動やくどうさせている。

 アンは破顔し、急いで赤子を抱き上げた。

「奥方様、お子様は無事ですよ!」

 歓喜すると同時に強い気配を感じた。

 見えずとも刺すような視線がひしと伝わってくる。腕のなかには魔女と黒騎士の子――ハクロがいて、

 泣きもせず、暴れもせず、じっとこちらを見据えていた。

 ハクロは産まれてから一度も泣いていない。

 それでも呼吸はしているし、生きている。

 アンは、これまで幾度か出産に立ち会ってきたが、泣かない子に出会ったのはこれが初めてだった。

 不気味さを感じつつも、早く抱かせてやりたくて母親に声をかけた。

 だがこちらも声がない。

 魔女は躰を横たえ、息も絶え絶えに苦しんでいた。

 その吐息といきを頼りに母親を探し当てる。触れてみると体温が低い。血を流しすぎているのだ。

「奥方様、お気をたしかに。しっかりしてください!」

「ハクロは……どこに……」

「此処にいます。今は眠っていますが、元気な男の子ですよ」

 母親はもう永くない。

 そんな確信が医者にはあった。母体を無理に起こし、その胸にハクロを預けてやる。

「嗚呼――私のハクロ」

 泣かぬ我が子を抱き、魔女は泣いた。

 何度も子を呼び、涙するその様に魔女と呼ぶべき面影はない。

 紛れもなくひとりの人間であり、ひとりの母親だった。

 母は力を振り絞り、ロザリオを手にする。

「これを……ロザリオをこの子に」

「分かりました」

 アンはロザリオを受け取ろうとした。しかし、視界が不如意ふにょいとなっているため取り落としてしまう。慌てて手で探り、拾い上げるとロザリオに異変を感じた。

 ――ふたつある?

 ――いや、つがいでひとつに繋がっているのかしら……? 

 その片方に文字が刻まれているのが判る。指でなぞるだけでもいくらか理解できた。だが暗闇のなかでは全文を読み取ることができない。手探りで操作するうちにひとつに組み合わさった。

 とにかく、アンはロザリオをハクロに渡す。小さな指がそれを握りしめたと伝えると、母親は安らかな笑顔で呟いた。

「よかった……これでもう、大丈夫…………」

「奥方様!」アンは必死に叫んだ。「誰か、誰か助けを! 早く!」

 私がしっかりしなければと気を張る。だが闇は未だに晴れず、混乱は増すばかりだ。これだけ術者がそろっているなら火を喚べる者がいてもいいだろうに。それでなくとも松明に火を灯すくらいはできるはずだ。

 術者らは暗闇のなか、出口を求めて我先にと駆けていく。

 誰かが術を発し、熱を感じた。やはりほのおを召喚できる者がいるのだ。だがそれでもなお、闇は晴れない。より深くなるばかりだ。焼かれた者が仕返しとばかりにさらなる火炎を喚び寄せる。互いに見えざる相手の身をがし、せめぎあい、ののしりあって足を引っ張った。焦りと怒号が入り混じり憎悪は熱を帯びていく。見えなくともその様子がまざまざと伝わってきた。

 ここにきてアンは、己の眼に異常をきたしているのではと疑い始めた。

 痛みはないが、不可思議なことがたて続けに起きているのだ。もしや呪いの影響ではないかと結びつけてしまった。

 だからアンはハクロに向けてこう云った。

「これは貴方が起こした呪いなの? 貴方は――忌み子なの?」

 と。

 もちろん返事はない。生まれたばかりの赤子に答えを求めるほうが不自然だが、一瞬だけ垣間見たハクロの瞳は当然のように言葉を理解していそうな知性を兼ね備えていた。眼が合ったという事実がまさしくアンを盲目にさせたのである。

 そして、アンの発した一言が致命的な結果をもたらす。

 近くにいた誰かが聞きつけ、子は忌み子だと叫んだ。それを契機に黒装束たちが口々に忌み子だと叫び始める。

 忌み子が産まれてしまった。

 悪しき者の血だ。

 これは呪いだと――。

 アンは青褪めた。

「違う、この子は――この子は忌み子なんかじゃありません!」

 ハクロ様は人間です、と必死に訴えた。

 だがその叫びは誰にも届かない。恐怖とともに貼られたレッテルはかんたんに剥がれたりはしない。負の感情のけ口は弱者に流れ、そしてハクロは忌み子と化した。

 社会性を失った集団が暴走する。

 術者らが群れを成して上階から降りてきた。

 忌み子をてろと口にしながら近づいてくる。

 天蓋てんがいの外にはもう何人かが這い寄っている。

 四方から手がのび、忌み子はどこだと床を踏み鳴らす。

 誰もが正常な判断を下せなくなっているのだ。

 あまりに恐ろしいから無かったことにしようとしているのだ。

 こんな赤子を犠牲ぎせいにしようというのか。ならば――

 呪われているのは私たちのほうだ。

 アンはハクロにおおいかぶさり、迫りくる狂人から逃れようと闇雲に手を払う。誰か、

 ――誰か助けて。

「ハクロ様をこちらに」

 願いが届いたのか、衣服をつかまれ、振り向きざまに声がした。

「貴女は――」

 黒装束の女だ。理知的な落ちついた声である。

 ようやく視界が開けてきたのか、おぼろげではあるが、その姿だけは視界に捉えることができた。

 ――やっぱり呪いなんかじゃないのよ。

 混乱のせいで神経が一時的に麻痺まひしていただけだろうと考え、アンは安堵のため息を漏らした。

「この子を、ハクロ様を連れて逃げて」

「ごめんなさい」

「何故謝るのです――」

 そう問いかけた直後、くびに衝撃が走った。

 途切れそうになる意識をなんとか繋ぎ止めたが、しかし躰に力が入らない。

 す術なくハクロを奪われてしまった。

「何故……?」

 アンはふたたび問うた。

 だが返事はない。

 黒装束の女はハクロを抱き、沈黙したまま遠ざかっていく。

 その首許には――入墨が視えた。

 日蝕が終わると同時だった。

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