第19話 盲目の傀儡④
月が重なるにつれ、地上に注ぐ
そのひとつが城を貫いた。
天を裂き、地上に落ちても拡散することなく大地を貫き、地下まで達する。
祭壇が揺れ――人に墜ちた。
アンが新しい命を目撃すると同時だった。
得体の知れない狂気が魔女に宿り、
だがそれを人の
赤子の顔面がぐるりと
およそ人体の構造を無視した
アンは小さく悲鳴をあげ、己の躰を抱く。
その絶望的なまでに黒い瞳を直視すると、いっせいに
――これは
実体の伴わない影が大きく広がり、伸び、やがて人の輪郭を形作っていく。
影は嘲笑う。
口許が裂け、この世のものとは思えない振動を発した。
堪えきれずに耳を塞いだが、しかし効果はない。直接脳を揺さぶるような不協和音がその身を
コ ロ シ ア エ
と――たしかにそう聞こえた。
――殺し合え?
アンが脳内で変換し終えると影はまた
見下すように
やがて影は
いったいなにが起きたのだろう……アンはしばし
だが影が消えても、いつまで経っても眼が慣れず、暗闇に包まれている。
近くで悲鳴が聞こえた。
今しがた視た幻影に
続けていくつかの衝撃音が響く。
見えずとも混乱しているのが伝わってくる。誰もが視界を失い、
そんななかでもアンは、命の現場に携わる者として、かんたんに取り乱したりはしない。
だがいつまで経っても眼は慣れない。
地下深いとはいえ、換気口もあるし、すこしくらいは自然の光が漏れてくるはず。だがその
アンはつかまるものを求めて手をのばした。だが、いくらもがいても天幕には届かない。
不安が拡散し、しだいに躰を、脳を蝕んでいく。
声を頼りにアンは、妊婦の許へ這い寄る。
「奥方様、ご無事ですか? 奥方様!」
「……ハクロ」
「ハクロ?」
「私の子……」
それが子の名前なのだろう。
ハクロはどこ、と魔女は我が子を呼ぶ。
赤子の様子も気になるが、まずは母体の
――もう生まれてる!?
気づいたときにはもう、胎児はすでに母体から産まれ堕ちていた。
妊婦の足許に広がっているのが
恐るおそる指先をのばすと、小さな指がぎゅっと握り返してくる。たしかな呼吸と脈拍が感じられ、
とくん、
とくんと――、
アンは破顔し、急いで赤子を抱き上げた。
「奥方様、お子様は無事ですよ!」
歓喜すると同時に強い気配を感じた。
見えずとも刺すような視線がひしと伝わってくる。腕のなかには魔女と黒騎士の子――ハクロがいて、
泣きもせず、暴れもせず、じっとこちらを見据えていた。
ハクロは産まれてから一度も泣いていない。
それでも呼吸はしているし、生きている。
アンは、これまで幾度か出産に立ち会ってきたが、泣かない子に出会ったのはこれが初めてだった。
不気味さを感じつつも、早く抱かせてやりたくて母親に声をかけた。
だがこちらも声がない。
魔女は躰を横たえ、息も絶え絶えに苦しんでいた。
その
「奥方様、お気をたしかに。しっかりしてください!」
「ハクロは……どこに……」
「此処にいます。今は眠っていますが、元気な男の子ですよ」
母親はもう永くない。
そんな確信が医者にはあった。母体を無理に起こし、その胸にハクロを預けてやる。
「嗚呼――私のハクロ」
泣かぬ我が子を抱き、魔女は泣いた。
何度も子を呼び、涙するその様に魔女と呼ぶべき面影はない。
紛れもなくひとりの人間であり、ひとりの母親だった。
母は力を振り絞り、ロザリオを手にする。
「これを……ロザリオをこの子に」
「分かりました」
アンはロザリオを受け取ろうとした。しかし、視界が
――ふたつある?
――いや、
その片方に文字が刻まれているのが判る。指でなぞるだけでもいくらか理解できた。だが暗闇のなかでは全文を読み取ることができない。手探りで操作するうちにひとつに組み合わさった。
とにかく、アンはロザリオをハクロに渡す。小さな指がそれを握りしめたと伝えると、母親は安らかな笑顔で呟いた。
「よかった……これでもう、大丈夫…………」
「奥方様!」アンは必死に叫んだ。「誰か、誰か助けを! 早く!」
私がしっかりしなければと気を張る。だが闇は未だに晴れず、混乱は増すばかりだ。これだけ術者がそろっているなら火を喚べる者がいてもいいだろうに。それでなくとも松明に火を灯すくらいはできるはずだ。
術者らは暗闇のなか、出口を求めて我先にと駆けていく。
誰かが術を発し、熱を感じた。やはり
ここにきてアンは、己の眼に異常をきたしているのではと疑い始めた。
痛みはないが、不可思議なことがたて続けに起きているのだ。もしや呪いの影響ではないかと結びつけてしまった。
だからアンはハクロに向けてこう云った。
「これは貴方が起こした呪いなの? 貴方は――忌み子なの?」
と。
もちろん返事はない。生まれたばかりの赤子に答えを求めるほうが不自然だが、一瞬だけ垣間見たハクロの瞳は当然のように言葉を理解していそうな知性を兼ね備えていた。眼が合ったという事実がまさしくアンを盲目にさせたのである。
そして、アンの発した一言が致命的な結果をもたらす。
近くにいた誰かが聞きつけ、子は忌み子だと叫んだ。それを契機に黒装束たちが口々に忌み子だと叫び始める。
忌み子が産まれてしまった。
悪しき者の血だ。
これは呪いだと――。
アンは青褪めた。
「違う、この子は――この子は忌み子なんかじゃありません!」
ハクロ様は人間です、と必死に訴えた。
だがその叫びは誰にも届かない。恐怖とともに貼られたレッテルはかんたんに剥がれたりはしない。負の感情の
社会性を失った集団が暴走する。
術者らが群れを成して上階から降りてきた。
忌み子を
四方から手がのび、忌み子はどこだと床を踏み鳴らす。
誰もが正常な判断を下せなくなっているのだ。
あまりに恐ろしいから無かったことにしようとしているのだ。
こんな赤子を
呪われているのは私たちのほうだ。
アンはハクロに
――誰か助けて。
「ハクロ様をこちらに」
願いが届いたのか、衣服をつかまれ、振り向きざまに声がした。
「貴女は――」
黒装束の女だ。理知的な落ちついた声である。
ようやく視界が開けてきたのか、おぼろげではあるが、その姿だけは視界に捉えることができた。
――やっぱり呪いなんかじゃないのよ。
混乱のせいで神経が一時的に
「この子を、ハクロ様を連れて逃げて」
「ごめんなさい」
「何故謝るのです――」
そう問いかけた直後、
途切れそうになる意識をなんとか繋ぎ止めたが、しかし躰に力が入らない。
「何故……?」
アンはふたたび問うた。
だが返事はない。
黒装束の女はハクロを抱き、沈黙したまま遠ざかっていく。
その首許には――入墨が視えた。
日蝕が終わると同時だった。
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