第22話 死神の初恋⑮
何故これまで忘れていたのだろうか。
否――薄々感づいてはいたのだ。
ただ、はっきりと認めたくなかっただけである。だから見て見ぬふりをしていただけである。
在るものを無いとしていただけである。
ハクロは言葉を失い、息を漏らした。脱力し、
「やはりサーシャが俺を棄てたのか……」
「答えることはできない。それは
「まだ
「いま云えることは、闇が私に力を与えてくれている。それは事実だということだけよ」
それが魔女としての力に
「サーシャは、その、ストーリーテラーの使い魔なのか?」
「それは私が決めることではない。なんと呼ぶかは観測者が決めること。そう――ハクロを死神と決めつけた連中のようにね」
「それでは俺が認めなければ貴女は魔女ではないということになる。だが、この医者は貴女を魔女だと云っている。これでは矛盾が生じてしまうじゃないか」
「彼女が視ている世界は、彼女にとって本物であるというだけの話よ。私が見ている世界と彼女が視ている世界は、別々に独立した世界なの。彼女だけじゃない。ハクロも、他の誰もがみんな、個々の内側に存在するオリジナルの世界の住人なの」
「どういうことだ、世界はひとつしかないはずだろう?」
「ひとつしかないと思い込んでいるだけ。否――思い込まされているだけよ。だけど、世界とは――ただの言葉であり、ただの幻よ。そう、『此処はシェアワールド』……」
「『誰かが創ったフェアリーテイル』……」
ハクロは、サーシャが
懐からロザリオを取り出し、
「『だけどあなたが信じるなら物語は本物になる』――か。これはいったいどういう意味なんだ?」
「物語とは、一種の呪文なのよ」
「言葉や文字で
「そう。他人によって語られた世界は
「つまり偽物というわけか」
「いいえ。呪文は信じるものにとっては有効に機能する。そこにリアリティを感じ、在ると信じた者にとっては、その物語は本物となり得るのよ。だからもし、ハクロが信じたい物語が在るのならば、それは貴方にとっての真実となるの」
「なら、俺は――」
誰の言葉を信じればいいのだろう。
サーシャだろうか。
アンだろうか。
それとも――
「だけど、なにを信じようと、それらすべてはつくりもの。幻に惑わされてはいけないわ。よく眼を凝らして、ありのままをごらんなさい。ほら――世界はこんなにも輝いて、観測されるのを待っている」
サーシャは
つられて見上げてみれば、わずかな明かりが射して見える。
「この光は……」
その先に在るのは紛れもなく月だ。
「今夜は
雲がかかっているうえに、ほとんど欠けているが、たしかに存在している。
「サーシャが隠しているわけじゃないんだよな?」
「私に星を動かすほどの力なんてないわ。もうすこし待てばさらに輪郭を現すでしょう」
サーシャの言葉を信じ、ハクロは静かに待った。
やがて、
気がつけば、朽ちて腐ったかにみえた床が元に戻っている。うらぶれた古民家ではあるが、そこは
光と闇が混在し、在るべきものが見え、無いはずのものまで視えている。
「俺は――やはり幻を視ているのか?」
だが、感じられるリアリティは、生者も死者も、いずれも劣らない。ならばどちらが偽物で、どちらが本物だというのだろう。ハクロは困惑の色を隠せなかった。
「彼らは幻覚でも幻視でもありません」アンが云った。「この世に生を受け、そして朽ちていった者たちです。彼らはたしかに存在していたし、今も存在しているのです」
「貴様もこいつらが視えているのか?」
「はい、それはもう、今夜のような
「貴様はこいつらの仲間なのか?」
「いいえ。私はただ、彼らと同じ世界を強制的に共有させられているだけです。私は、生者の住む世界においても、死者が
アンは
だが、生死の境に立ってはいるが、人間らしい息づかいを繰り返している以上は生者と区別していいだろう。ハクロよりも闇に近いが、すくなくとも聞く耳は持っている。理性的な頭脳を残している。ならば、サーシャとアンの両者の間に広がる
彼女もまた、気高い魂の持ち主なのだ。死に人たちの哭き声に耳を傾けながら、彼岸と此岸の境界線上でただひとり、暗闇のなかで正気を保ってきたのである。精神面においてはハクロと同等以上かもしれない。
ならばきっと、ハクロの言葉も届くだろう。
アンがサーシャを憎んでいるのは、互いの信じる物語に
世界は、ひとつしか存在してはいけないわけではないのだ。
命の数だけ物語が存在するならば、話し合って共有すればいいのである。
伝わるかどうか一抹の不安を抱えながらもハクロはかける言葉を
だがそのとき――外から扉が打ち破られ、悪意を
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