第22話 死神の初恋⑮

 月輪がちりんがふたたび地上を照らし、その光によってくっきりと浮かび上がった刻印こくいんは生まれたばかりの時分に見た記憶がある。

 何故これまで忘れていたのだろうか。

 否――薄々感づいてはいたのだ。

 ただ、はっきりと認めたくなかっただけである。だから見て見ぬふりをしていただけである。

 在るものを無いとしていただけである。

 ハクロは言葉を失い、息を漏らした。脱力し、倦怠感けんたいかんさいなまれ、ひざを折る。

「やはりサーシャが俺を棄てたのか……」

「答えることはできない。それはときが満ちればおのずと知れることだから」

「まだ時期尚早じきしょうそうだというのか」

「いま云えることは、闇が私に力を与えてくれている。それは事実だということだけよ」

 虚勢きょせいを張っているわけではなさそうだ。毅然きぜんと立つサーシャの姿に昨夜までの弱々しさは微塵みじんも感じられない。

 それが魔女としての力にるものかは判らないが、彼女が両手を広げると、結界が張られたかのように、亡者たちは一定の距離からはじき出されていた。闇の支配者を前に、誰もがおそれ、おののいているようだった。

「サーシャは、その、ストーリーテラーの使い魔なのか?」

「それは私が決めることではない。なんと呼ぶかは観測者が決めること。そう――ハクロを死神と決めつけた連中のようにね」

「それでは俺が認めなければ貴女は魔女ではないということになる。だが、この医者は貴女を魔女だと云っている。これでは矛盾が生じてしまうじゃないか」

「彼女が視ている世界は、彼女にとって本物であるというだけの話よ。私が見ている世界と彼女が視ている世界は、別々に独立した世界なの。彼女だけじゃない。ハクロも、他の誰もがみんな、個々の内側に存在するオリジナルの世界の住人なの」

「どういうことだ、世界はひとつしかないはずだろう?」

「ひとつしかないと思い込んでいるだけ。否――思い込まされているだけよ。だけど、世界とは――ただの言葉であり、ただの幻よ。そう、『此処はシェアワールド』……」

「『誰かが創ったフェアリーテイル』……」

 ハクロは、サーシャがそらんじた台詞せりふからすぐさま連想した。

 懐からロザリオを取り出し、つがいを開くとうたの続きをむ。

「『だけどあなたが信じるなら物語は本物になる』――か。これはいったいどういう意味なんだ?」

「物語とは、一種の呪文なのよ」

「言葉や文字でつづられているからだな」

「そう。他人によって語られた世界はあまねく物語となり、言霊が宿って他者へと伝わる。だけど言霊は想像のなかにしか存在しない。幻を実在するかのように置き換えているにすぎないの」

「つまり偽物というわけか」

「いいえ。呪文は信じるものにとっては有効に機能する。そこにリアリティを感じ、在ると信じた者にとっては、その物語は本物となり得るのよ。だからもし、ハクロが信じたい物語が在るのならば、それは貴方にとっての真実となるの」

「なら、俺は――」

 誰の言葉を信じればいいのだろう。

 サーシャだろうか。

 アンだろうか。

 それとも――

「だけど、なにを信じようと、それらすべてはつくりもの。幻に惑わされてはいけないわ。よく眼を凝らして、ありのままをごらんなさい。ほら――世界はこんなにも輝いて、観測されるのを待っている」

 サーシャは視軸しじくを上に向けた。

 つられて見上げてみれば、わずかな明かりが射して見える。

「この光は……」

 茫洋ぼうようとして模糊もこだが、しかし暗闇に慣れ過ぎた今ならはっきりと捉えることができる。眼が潰れそうな強烈な光線に眉根を寄せながらも、それでもハクロは注視した。

 その先に在るのは紛れもなく月だ。

「今夜は新月しんげつだったのか……」

 雲がかかっているうえに、ほとんど欠けているが、たしかに存在している。

「サーシャが隠しているわけじゃないんだよな?」

「私に星を動かすほどの力なんてないわ。もうすこし待てばさらに輪郭を現すでしょう」

 サーシャの言葉を信じ、ハクロは静かに待った。

 やがて、おぼろに浮かんだ月輪を視認するとハクロの持つ世界は変貌し、混沌こんとんとした不可思議な様相をていする。月明かりに照らされ、ハクロの額の奥にひそむ影が薄れると、とつぜん人の気配が戻った。

 気がつけば、朽ちて腐ったかにみえた床が元に戻っている。うらぶれた古民家ではあるが、そこは簡素かんそ清潔せいけつな街の診療所だった。だが、人が暮らす領内の一角であることに間違いはないが、しかし怨嗟の声はいまだに止まない。

 腐臭ふしゅうが紛れ、姿こそ薄れたものの、亡者はたしかにそこにいる。

 光と闇が混在し、在るべきものが見え、無いはずのものまで視えている。

 相容あいいれないふたつの世界が重なり合うように、同時に存在しているのだ。

「俺は――やはり幻を視ているのか?」

 だが、感じられるリアリティは、生者も死者も、いずれも劣らない。ならばどちらが偽物で、どちらが本物だというのだろう。ハクロは困惑の色を隠せなかった。

「彼らは幻覚でも幻視でもありません」アンが云った。「この世に生を受け、そして朽ちていった者たちです。彼らはたしかに存在していたし、今も存在しているのです」

「貴様もこいつらが視えているのか?」

「はい、それはもう、今夜のようなさくの月の日はとくに。光を失った影のごとく、ありありと……私は光を失う代わりに、闇が視えるようになったのです」

「貴様はこいつらの仲間なのか?」

「いいえ。私はただ、彼らと同じ世界を強制的に共有させられているだけです。私は、生者の住む世界においても、死者が彷徨さまよう世界においても、つまはじきにされた半端者なのです。そこの魔女のようにね」

 アンはさげすむように云った。

 だが、生死の境に立ってはいるが、人間らしい息づかいを繰り返している以上は生者と区別していいだろう。ハクロよりも闇に近いが、すくなくとも聞く耳は持っている。理性的な頭脳を残している。ならば、サーシャとアンの両者の間に広がるみぞを埋められるのではないか。

 彼女もまた、気高い魂の持ち主なのだ。死に人たちの哭き声に耳を傾けながら、彼岸と此岸の境界線上でただひとり、暗闇のなかで正気を保ってきたのである。精神面においてはハクロと同等以上かもしれない。

 ならばきっと、ハクロの言葉も届くだろう。

 アンがサーシャを憎んでいるのは、互いの信じる物語に齟齬そごが生じているためだろう。同じ時系列を歩んでいても、異なる視点の差を無くすことはできない。他人である以上、距離をゼロにすることは不可能なのだ。しかし、言葉によって――言霊によってへだたりを無くすことはできる。

 世界は、ひとつしか存在してはいけないわけではないのだ。

 命の数だけ物語が存在するならば、話し合って共有すればいいのである。

 伝わるかどうか一抹の不安を抱えながらもハクロはかける言葉を懸命けんめいに探す。

 だがそのとき――外から扉が打ち破られ、悪意をはらんだべつの物語が邪魔をした。

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